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黎 明 (8)

* * *  22  * * *

 雲をも凌ぐ堯天山の頂にある金波宮。国主景王が延王の勅使とともにその住まいを出てから、かなりの日数がたった。主のいない朝廷は、ますます官吏の横行が進んでいた。

 左遷された靖共の代わりに冢宰となった宰輔景麒は、毎日政務に追われていた。なまじ権のない太宰になった靖共は、朝廷の覇権争いに熱中し、実務には全く興味を示さなくなっていた。
 主に代わって朝を守る景麒は溜息をつく。新王などお飾りにすぎぬ、と官吏の誰もが思っていたことだろう。それなのに、主がいなくなった朝廷は見る間に荒んでいった。
 姿を消した主について、無責任な噂が乱れ飛んだ。弑逆に怖気づいて蓬莱に帰ったと言う者。雁に保護を願っているのだと言う者。実は内宮奥深くに隠れているのだと言う者。挙句の果てには逃げ出した元麦州侯浩瀚が攫っていったのだと言う者まで出る始末。

 主は延王の勅使とともに、華々しく旅立っていったというのに。

(雁から迎えが来たほうが、陽子はもっともらしく金波宮を出ることができるだろうよ)

 延王尚隆は酷薄な笑みを浮かべ、そう言った。かの方はこの事態を予想していたに違いない。あれだけ賑やかに出立して尚、この騒ぎ。密かに出て行っていたら、朝の荒みはもっと酷かったかもしれない。
 官吏の噂の中で、共通して言われること。それは、王はもう玉座には戻らないのではないか、という疑問。そうなれば、またこの国は荒れるのだ。

 そんなとき、主と一緒に固継に行っていた班渠が戻ってきた。前回驃騎を遣わし、主の近況を伝え聞いてはいた。しかし、様子を見ただけの驃騎と、主とともに固継で暮らす班渠の言葉は重みが違っていた。
 初日の妖魔襲撃から、つい最近の拓峰で起きたことまで、班渠は主の行動をつぶさに語った。そして、拓峰で聞いた止水郷長の昇紘について調べよ、との主の命を伝え、言葉を切った。
 主の成長ぶりは著しい。班渠の話を聞きながら、景麒は感嘆した。己に都合よいように奏上する官吏の言葉を鵜呑みにしていた頃とは雲泥の差だ。
 遠甫の教えを受け、知識を蓄えた主は、己の疑問を己で調べようとしている。景麒が主に諌言し続けていたのは、正にそのことだ。官の奏上を聞いてその裏付けを取り、自らで判断を下すのが王というもの。並べ立てられた事実の中から真実を掬いだし、道を正す。景麒は主に、そんな王になってほしかったのだ。
 それからまた景麒は奔走する。関係官吏に和州止水郷長昇紘についての調査を申しつける。分を越えた振る舞いも、和州侯呀峰の保護により逃れている、との調査結果だった。

 和州侯呀峰──。

 景麒は苦く思い返す。前国主予王に園林を献上し、和州を手に入れた狡猾な官吏。朝廷内でも処罰を試みているが、うまくそれをすり抜ける。景麒は溜息をつく。
 離れていても、景麒は主の王気を感じることができる。今もまた、眩しく暖かな恵みの陽光の如き王気を、北西の方角に淡く感じる。それは、金波宮にいるときよりも、格段に覇気を帯びている。主は王として己のできることをしようとしている。喜ばしいことでありながら、景麒は不安を隠せない。
 昇紘、呀峰は狡猾で危険だ。今の主が対抗するには荷が勝っている。そう諌言しても、きっと主は聞かないだろう。なんとかしなければ、と危険を顧みず自ら乗り込んでいく。主には、そういうところがある。景麒を救いに来たときもそうだった。あの時は偉大なる隣国の王の手助けがあった。しかし、今は──。

「──班渠、私も一度固継に参る」
「それがよろしいかと」
 班渠も頷く。北韋にも拓峰にも、明らかに怪しい者がいる。和州で何かが起きようとしている。主がその渦に巻き込まれてしまうかもしれない。そんな、漠とした不安が景麒にはあった。
 偽王軍と戦ったときには、こんな不安を感じることはなかった。主は大国雁の王師に守られていた。隣国の王は己の伴侶を危険に曝すことはなかった。
 景麒は首を振る。あのときとは違う。景王が慶の中で延王の助力を受けることなどできるはずがない。そして、主がそのようなことを望むはずもない。主の勁く真っ直ぐな双眸を思い出す。玉座を厭う娘は、王の自覚を持ちはじめている。国の安寧を切望する民のために。

* * *  23  * * *

 小学での授業を終えて外に出た遠甫は、表に佇んでいる人物に目を留めた。すらりとした長身、身なりも良く、頭には布を巻いている。遠甫は微笑を浮かべた。軽く頭を下げ、声をかける。
「陽子を訪ねておいでか?」
「はい。──お世話になっております」
 相手も軽く頭を下げる。巻いて垂らした布が、肩先から前に落ちた。頭を隠さなければいけないのは、理由があるからだ。選ばれた者しか持てない、金色の髪を見られぬようにするため。──宰輔景麒が自ら景王を訪ねてきたのだ。

「陽子は里家におる。会っていかれるかね?」
「──人目がありますゆえ、お運びいただけるよう、お伝えください」
 宰輔はそう言い、頭を下げた。遠甫は軽く頷く。何かを問うような夕闇色の双眸に、遠甫は微笑した。
「聡明な方じゃな。砂に水が染みこむように知識を広げておられる。疑問に思うことは、独自に調査を進めておられるようじゃ。お聞き及びか?」
「──はい」
 静かに答えるその声に心配の響きがあった。遠甫は優しく笑みを返す。
「ご心配召されるな。──強い方じゃ」

「──おじいちゃん、お客さま?」
 後ろから人懐こい子供の声がした。桂桂だ。その後ろには蘭玉もいた。遠甫は振り返って二人に微笑む。
「桂桂、蘭玉、陽子にお客さまじゃ。伝言を頼むよ。どこじゃったかな?」
「辰門近くの栄可館という舎館にてお待ちしております、とお伝えください」
「どちらさまでしょうか?」
 蘭玉が首を傾げながら客人に訊ねた。客人はやはり名乗らなかった。
「下僕が来たと言っていただければ分かると思います」
 客人は無愛想にそう言うと、軽く頭を下げて行ってしまった。下僕、と小さく呟き、蘭玉は更に首を傾げる。遠甫はそんな蘭玉に笑みを向けた。
「陽子をここに預けた人じゃよ。身元は確かじゃから、心配せずとも良い」
「陽子に知らせてくる!」
 桂桂は軽やかに走っていった。蘭玉はやっと納得したように頷いていた。その顔には悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。遠甫は蘭玉が何を考えているのか察しがついたが、それに触れることはなかった。

 遠甫が里家に着いたとき、桂桂の明るい声が響いていた。客人の訪れを告げる桂桂に、陽子は訝しげな声を上げた。蘭玉が陽子に客人の言を伝える。そのなんともいえぬ笑みに、陽子はますます訝しげな様子を見せる。
 遠甫は伝言を蘭玉に任せることにした。蘭玉は厨房に入り、陽子に詳細を知らせていた。声を潜めているつもりらしいが、その話は丸聞こえだった。「いい人」の訪れを冷やかす蘭玉と、困惑する陽子。二人の若い娘の会話は微笑ましく、遠甫は口許をほころばせる。
 昼餉のときも蘭玉は意味ありげな笑みを浮かべ、陽子は困った顔をしていた。

「──すぐに行ってあげないなんて、陽子も冷たいわね」
「──蘭玉、そんなんじゃないから。それに、私はお腹がすいてるんだ」
「はいはい、早くお腹をいっぱいにして、会いに行ってあげなさいよ」
 くすくす笑う蘭玉に、陽子はふうと溜息をつき、遠甫を見て苦笑する。桂桂がそんな様子を不思議そうに見ていた。遠甫は軽く頷いて微笑した。平和なひとときだった。

 やがて食事を終えた陽子は客人が待つ舎館へと出かけていった。笑顔でそれを見送った蘭玉は、小さく溜息をつく。
「どうしたんじゃね、蘭玉」
「遠甫、陽子は……。ううん、何でもない」
 もうひとつ溜息をつくと、蘭玉は昼餉の片付けをしに厨房に消えていった。遠甫は気遣わしげにその後ろ姿を見つめる。
 蘭玉もまた察しのよい娘だった。里家にやってきたはずの陽子は里家に住んでいない。客庁に房間を与えられた陽子のことを、蘭玉は訝しく思っていた。しかし、蘭玉は遠甫にそれを問わない。陽子は己とは違うのだ、とどこかで悟っている。
 妖魔の襲撃で、里家に残った子供は蘭玉と桂桂だけになってしまった。その妖魔から救ってくれた同じ年頃の陽子と、蘭玉はすっかり仲良くなった。それは、子供たちを見守る遠甫にとっても喜ばしいことだった。肩を寄せ合って仕事をし、笑いあう二人の娘は楽しげだった。

 共に親のない子でありながら、片方は王、片方は里の娘。

 普通に暮らしていれば、出会うことのなかった二人だ。若く胎果の王にとっては、同じ年頃の娘と接する貴重な機会。里家の娘にとっては、立場を同じくする娘との貴重なふれあい。長くは続かないと分かっていながら、互いに支えあう二人。
 宰輔の訪れは、二人の娘に別れの予感を齎した。道を模索する王は、いずれ己の場所へと戻らなければならない。そして、蘭玉は詳細を知らぬはずなのに、それを肌で感じているのだった。──どちらも不憫だ、と遠甫は溜息をつく。そして、その予感は、遠甫が思ったよりも悲惨な形で現実になるのだった。

* * *  24  * * *

「──遠甫」
 里家に戻った陽子は遠甫の書房を訪ねる。遠甫は鷹揚な応えを返した。陽子は中に入り、数日の暇乞いを申し出る。
「構わんよ。──今度はどこじゃね?」
 見透かすようなその応えに、陽子は苦笑する。先日拓峰に行きたいと言ったときは、躊躇うような素振りを見せた遠甫なのに。
 和州の都まで、と陽子は答えた。蘭玉の言っていたことが気になるのだ。陽子は遠甫にそう告げた。陽子の説明を聞いていた遠甫は、話の途中で笑い出した。陽子は目を見開く。
「なるほど倭は、頑固な婚姻をするのだったか」
 笑い含みにそう言い、遠甫は陽子を手招きする。いつもの椅子に陽子が腰掛けると、いつもの問答が始まった。

 こちらとあちらでは、結婚に対する考え方が違うのだ。こちらでは、里木に願わなければ子供は生まれない。単に伴侶がほしいだけならば、婚姻する必要はない。野合で充分なのだ。遠甫はそう説明した。
 陽子は納得する。遠甫は更に説明を続けた。子供がほしければ婚姻する。子供を願うには夫婦が同じ里に住んでいる必要がある、と。
 そうして得た子供も、二十歳になると給田を受け、家を出て行ってしまう。どんなに財産があっても、子供にそれを残すことはできない。そして、本人も六十になったら家も土地も国に戻すことになっている。望めば終生持っていることもできるが、と遠甫は言って笑った。

 では何故、子を持つのだろう。

 陽子は疑問に思う。その質問に、遠甫はまた笑う。親になることは天に人柄を認められること。子を持つことで天に尽くすのだ、と。

 あちらでいう血族にあたるものは同姓だと遠甫は言った。婚姻すれば、必ずどちらかの姓に戸籍が統合される。本人たちの姓が変わることはないが、子供は統合された姓を受け継ぐのだ。そして、次に天命を受ける王は、前の王とは必ず姓が違う。

 前景王の姓は舒。だから、陽子の親は舒姓ではない。前塙王の姓は張。したがって次の塙王は張姓の者ではない。前峯王は孫姓なので、次王は孫姓の者ではない。遠甫はそう説明した。

 陽子は雁の大学に通う親友に思いを馳せる。楽俊の姓名は張清。では、楽俊が次の塙王に選ばれることはないのだ。陽子の呟きに遠甫は頷いた。過去の事例からいって、間違いない、と。
 遠甫は続ける。姓は生まれたときについて、以降変わることがない。親が離縁しても、自身が婚姻しても変わらない。だから、人は固有の氏をもつのだ。 それはあちらの常識とは全然違うことだった。

 子を願わなければ婚姻など意味がない──。

 陽子は溜息をつく。蘭玉にとっては子を得ることよりも、どこに振り分けられるかのほうが重要な問題なのだ。──少なくとも今は。そして陽子は首を傾げる。

 私は、結婚できるのだろうか? 

 遠甫は苦笑する。王は人ではないから、と。
「既に婚姻していればともかく、いったん玉座に就いてしまえば、以降は婚姻できないことになる。王といえども野合になるな。従って子も持てん。伴侶に王后、大公の位を授けることは可能じゃが」
 そして遠甫は優しく微笑む。陽子には慶の民という子がいる。子を通して天に仕えるという意味では変わりはない。陽子は感慨深く頷いた。
「どこへなりとも行ってきなされ。我が子のことじゃ。ようく見ておかれるのが宜しかろう」
 遠甫にそう送り出され、陽子は書房を辞した。

 自室に戻り、臥牀に寝転がる。ぼんやり考え事をしていると、ふいに班渠が硬い声を出した。主上、人が、と。失礼を、と言って気配を消した班渠はいくらも経たずに戻ってきた。里家の周囲を五人ほどの男が取り巻いているという。陽子は身を起こした。引き上げていく男たちをつけよ、と班渠に命を下す。御意、と答えて班渠の気配は再び消えた。
 北韋の男といい、何かがある。不穏な空気が取り巻いている。しかし、今は。班渠が戻らねば詳細は分からないだろう。
 陽子は再び臥牀に寝転ぶ。遠甫との問答を思い出しながら、陽子は己の伴侶を想わずにはいられなかった。

 延王尚隆は、隣国の王。

 王は婚姻できない。したがって子も持てない。今まで、そんなことを考える余裕もなかった。王として立つこと、そればかりを思っていたから。

 あのひとは、知っていたのだろうか。

 ──知らないはずはない。

 陽子を見つめる尚隆の双眸は、深い色を湛えていた。いつも陽子には分からぬ想いを隠していた。そして陽子がそれに気づくと、尚隆はふと微笑み、優しい口づけをくれた。陽子の不安を包みこむように。
 陽子が漠然と考えていた結婚とは、好きな相手と結ばれること。一緒に暮らし、そのひとの子供を産むこと。

 しかしそれは、決して叶わぬ夢なのだ。

 たまさかの逢瀬、しかも朝まで一緒にいることはできない。一緒に暮らすこともできない。そして、子供を持つこともできない。──互いに王だから。そう思うと、涙が込みあげてきた。

 私は、あのひとと結婚できないんだ。あのひとの子供を産むことはできないんだ。

 それでも、あのひとを、愛している。あのひとだけが、陽子の伴侶。

 ──後悔は、しない。

 陽子は唇を噛みしめる。

 ──泣いてはいけない。陽子は、王なのだから。

2006.01.13.
 お待たせいたしました、「黎明」連載第8回でございます。
 陽子が「花実」に至る物思いに耽っています。 ──書いておきたかったところです。
 次回からは怒涛の「動」に向かいたいな〜。大丈夫かな〜?  ──気長にお待ちくださいませ!

2006.01.13. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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