* * * 23 * * *
小学での授業を終えて外に出た遠甫は、表に佇んでいる人物に目を留めた。すらりとした長身、身なりも良く、頭には布を巻いている。遠甫は微笑を浮かべた。軽く頭を下げ、声をかける。
「陽子を訪ねておいでか?」
「はい。──お世話になっております」
相手も軽く頭を下げる。巻いて垂らした布が、肩先から前に落ちた。頭を隠さなければいけないのは、理由があるからだ。選ばれた者しか持てない、金色の髪を見られぬようにするため。──宰輔景麒が自ら景王を訪ねてきたのだ。
「陽子は里家におる。会っていかれるかね?」
「──人目がありますゆえ、お運びいただけるよう、お伝えください」
宰輔はそう言い、頭を下げた。遠甫は軽く頷く。何かを問うような夕闇色の双眸に、遠甫は微笑した。
「聡明な方じゃな。砂に水が染みこむように知識を広げておられる。疑問に思うことは、独自に調査を進めておられるようじゃ。お聞き及びか?」
「──はい」
静かに答えるその声に心配の響きがあった。遠甫は優しく笑みを返す。
「ご心配召されるな。──強い方じゃ」
「──おじいちゃん、お客さま?」
後ろから人懐こい子供の声がした。桂桂だ。その後ろには蘭玉もいた。遠甫は振り返って二人に微笑む。
「桂桂、蘭玉、陽子にお客さまじゃ。伝言を頼むよ。どこじゃったかな?」
「辰門近くの栄可館という舎館にてお待ちしております、とお伝えください」
「どちらさまでしょうか?」
蘭玉が首を傾げながら客人に訊ねた。客人はやはり名乗らなかった。
「下僕が来たと言っていただければ分かると思います」
客人は無愛想にそう言うと、軽く頭を下げて行ってしまった。下僕、と小さく呟き、蘭玉は更に首を傾げる。遠甫はそんな蘭玉に笑みを向けた。
「陽子をここに預けた人じゃよ。身元は確かじゃから、心配せずとも良い」
「陽子に知らせてくる!」
桂桂は軽やかに走っていった。蘭玉はやっと納得したように頷いていた。その顔には悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。遠甫は蘭玉が何を考えているのか察しがついたが、それに触れることはなかった。
遠甫が里家に着いたとき、桂桂の明るい声が響いていた。客人の訪れを告げる桂桂に、陽子は訝しげな声を上げた。蘭玉が陽子に客人の言を伝える。そのなんともいえぬ笑みに、陽子はますます訝しげな様子を見せる。
遠甫は伝言を蘭玉に任せることにした。蘭玉は厨房に入り、陽子に詳細を知らせていた。声を潜めているつもりらしいが、その話は丸聞こえだった。「いい人」の訪れを冷やかす蘭玉と、困惑する陽子。二人の若い娘の会話は微笑ましく、遠甫は口許をほころばせる。
昼餉のときも蘭玉は意味ありげな笑みを浮かべ、陽子は困った顔をしていた。
「──すぐに行ってあげないなんて、陽子も冷たいわね」
「──蘭玉、そんなんじゃないから。それに、私はお腹がすいてるんだ」
「はいはい、早くお腹をいっぱいにして、会いに行ってあげなさいよ」
くすくす笑う蘭玉に、陽子はふうと溜息をつき、遠甫を見て苦笑する。桂桂がそんな様子を不思議そうに見ていた。遠甫は軽く頷いて微笑した。平和なひとときだった。
やがて食事を終えた陽子は客人が待つ舎館へと出かけていった。笑顔でそれを見送った蘭玉は、小さく溜息をつく。
「どうしたんじゃね、蘭玉」
「遠甫、陽子は……。ううん、何でもない」
もうひとつ溜息をつくと、蘭玉は昼餉の片付けをしに厨房に消えていった。遠甫は気遣わしげにその後ろ姿を見つめる。
蘭玉もまた察しのよい娘だった。里家にやってきたはずの陽子は里家に住んでいない。客庁に房間を与えられた陽子のことを、蘭玉は訝しく思っていた。しかし、蘭玉は遠甫にそれを問わない。陽子は己とは違うのだ、とどこかで悟っている。
妖魔の襲撃で、里家に残った子供は蘭玉と桂桂だけになってしまった。その妖魔から救ってくれた同じ年頃の陽子と、蘭玉はすっかり仲良くなった。それは、子供たちを見守る遠甫にとっても喜ばしいことだった。肩を寄せ合って仕事をし、笑いあう二人の娘は楽しげだった。
共に親のない子でありながら、片方は王、片方は里の娘。
普通に暮らしていれば、出会うことのなかった二人だ。若く胎果の王にとっては、同じ年頃の娘と接する貴重な機会。里家の娘にとっては、立場を同じくする娘との貴重なふれあい。長くは続かないと分かっていながら、互いに支えあう二人。
宰輔の訪れは、二人の娘に別れの予感を齎した。道を模索する王は、いずれ己の場所へと戻らなければならない。そして、蘭玉は詳細を知らぬはずなのに、それを肌で感じているのだった。──どちらも不憫だ、と遠甫は溜息をつく。そして、その予感は、遠甫が思ったよりも悲惨な形で現実になるのだった。
* * * 24 * * *
「──遠甫」
里家に戻った陽子は遠甫の書房を訪ねる。遠甫は鷹揚な応えを返した。陽子は中に入り、数日の暇乞いを申し出る。
「構わんよ。──今度はどこじゃね?」
見透かすようなその応えに、陽子は苦笑する。先日拓峰に行きたいと言ったときは、躊躇うような素振りを見せた遠甫なのに。
和州の都まで、と陽子は答えた。蘭玉の言っていたことが気になるのだ。陽子は遠甫にそう告げた。陽子の説明を聞いていた遠甫は、話の途中で笑い出した。陽子は目を見開く。
「なるほど倭は、頑固な婚姻をするのだったか」
笑い含みにそう言い、遠甫は陽子を手招きする。いつもの椅子に陽子が腰掛けると、いつもの問答が始まった。
こちらとあちらでは、結婚に対する考え方が違うのだ。こちらでは、里木に願わなければ子供は生まれない。単に伴侶がほしいだけならば、婚姻する必要はない。野合で充分なのだ。遠甫はそう説明した。
陽子は納得する。遠甫は更に説明を続けた。子供がほしければ婚姻する。子供を願うには夫婦が同じ里に住んでいる必要がある、と。
そうして得た子供も、二十歳になると給田を受け、家を出て行ってしまう。どんなに財産があっても、子供にそれを残すことはできない。そして、本人も六十になったら家も土地も国に戻すことになっている。望めば終生持っていることもできるが、と遠甫は言って笑った。
では何故、子を持つのだろう。
陽子は疑問に思う。その質問に、遠甫はまた笑う。親になることは天に人柄を認められること。子を持つことで天に尽くすのだ、と。
あちらでいう血族にあたるものは同姓だと遠甫は言った。婚姻すれば、必ずどちらかの姓に戸籍が統合される。本人たちの姓が変わることはないが、子供は統合された姓を受け継ぐのだ。そして、次に天命を受ける王は、前の王とは必ず姓が違う。
前景王の姓は舒。だから、陽子の親は舒姓ではない。前塙王の姓は張。したがって次の塙王は張姓の者ではない。前峯王は孫姓なので、次王は孫姓の者ではない。遠甫はそう説明した。
陽子は雁の大学に通う親友に思いを馳せる。楽俊の姓名は張清。では、楽俊が次の塙王に選ばれることはないのだ。陽子の呟きに遠甫は頷いた。過去の事例からいって、間違いない、と。
遠甫は続ける。姓は生まれたときについて、以降変わることがない。親が離縁しても、自身が婚姻しても変わらない。だから、人は固有の氏をもつのだ。 それはあちらの常識とは全然違うことだった。
子を願わなければ婚姻など意味がない──。
陽子は溜息をつく。蘭玉にとっては子を得ることよりも、どこに振り分けられるかのほうが重要な問題なのだ。──少なくとも今は。そして陽子は首を傾げる。
私は、結婚できるのだろうか?
遠甫は苦笑する。王は人ではないから、と。
「既に婚姻していればともかく、いったん玉座に就いてしまえば、以降は婚姻できないことになる。王といえども野合になるな。従って子も持てん。伴侶に王后、大公の位を授けることは可能じゃが」
そして遠甫は優しく微笑む。陽子には慶の民という子がいる。子を通して天に仕えるという意味では変わりはない。陽子は感慨深く頷いた。
「どこへなりとも行ってきなされ。我が子のことじゃ。ようく見ておかれるのが宜しかろう」
遠甫にそう送り出され、陽子は書房を辞した。
自室に戻り、臥牀に寝転がる。ぼんやり考え事をしていると、ふいに班渠が硬い声を出した。主上、人が、と。失礼を、と言って気配を消した班渠はいくらも経たずに戻ってきた。里家の周囲を五人ほどの男が取り巻いているという。陽子は身を起こした。引き上げていく男たちをつけよ、と班渠に命を下す。御意、と答えて班渠の気配は再び消えた。
北韋の男といい、何かがある。不穏な空気が取り巻いている。しかし、今は。班渠が戻らねば詳細は分からないだろう。
陽子は再び臥牀に寝転ぶ。遠甫との問答を思い出しながら、陽子は己の伴侶を想わずにはいられなかった。
延王尚隆は、隣国の王。
王は婚姻できない。したがって子も持てない。今まで、そんなことを考える余裕もなかった。王として立つこと、そればかりを思っていたから。
あのひとは、知っていたのだろうか。
──知らないはずはない。
陽子を見つめる尚隆の双眸は、深い色を湛えていた。いつも陽子には分からぬ想いを隠していた。そして陽子がそれに気づくと、尚隆はふと微笑み、優しい口づけをくれた。陽子の不安を包みこむように。
陽子が漠然と考えていた結婚とは、好きな相手と結ばれること。一緒に暮らし、そのひとの子供を産むこと。
しかしそれは、決して叶わぬ夢なのだ。
たまさかの逢瀬、しかも朝まで一緒にいることはできない。一緒に暮らすこともできない。そして、子供を持つこともできない。──互いに王だから。そう思うと、涙が込みあげてきた。
私は、あのひとと結婚できないんだ。あのひとの子供を産むことはできないんだ。
それでも、あのひとを、愛している。あのひとだけが、陽子の伴侶。
──後悔は、しない。
陽子は唇を噛みしめる。
──泣いてはいけない。陽子は、王なのだから。
2006.01.13.