* * * 26 * * *
北郭に落ち着いた陽子はその奇妙な街を歩き回った。人々の苦役によって築かれた幾重もの隔壁。街の中は雑然とし、途は曲がりくねり、袋小路だらけだった。
和州侯呀峰は、わざと小さく街を作り、季節ごとに大きくしていく。大義名分は、人が増えたから、草寇を防ぐから。実のところ、要りもしないものを作り、その分を通行税に上乗せしていく。狡猾なやり方だった。
北郭に舎館を取って三日目。その日も陽子は街を歩いていた。今日の街は落ち着かなくざわめいていた。人々は不安げな様子を見せて行き交い、揃ってある一方を見つめる。そうかと思えば、頑なにその方向に目を向けずに去る人もいる。
陽子はそれを不思議に思い、その方向に向かって歩き出した。ひとつの角を曲がるたびに、中央部へ向かう人の群れは増えていく。人の流れに沿って歩いていくと、いきなり視界が開けた。
半壊した隔壁に囲まれた、開けた通り。その周囲に並んだ兵士たちと中央に繋がれた数人の人間。そして広場の中央に敷かれた厚い板。
唐突に目に飛び込んできたその光景に、陽子は眉根を寄せる。あれはいったい何だろう。陽子が目にしたことのないものだった。
しかし、見ているうちにそれが何なのか分かった。繋がれていた人間の一人がその板の上に寝かされた。と思うと、その手に釘打たれたのだ。陽子は瞠目した。
広場に悲鳴が響き渡った。ごつ、と釘に石を振り下ろす音が悲鳴の合間に続く。陽子はその酷い刑に耐え切れずに使令を呼ぶ。
「──班渠」
「はい」
足許から微かな応えが聞こえた。陽子は使令に命ずる。
「──あれを止めさせろ。あの人たちを助けるんだ」
「御意」
短い応えを残し、班渠の気配が消えた。釘打たれている罪人の悲鳴がもう一度響く。広場を取り巻いた人々の間からも悲鳴が上がった。そのとき。
「──止めて!」
少女の金切り声が聞こえ、人垣の間から力なく石が飛んだ。その石は、人垣を押しとどめる兵士の一人に当たって、黒々とした土の上に落ちた。
辺りはしんと静まり返った。凍りつくような静寂は、鋭い誰何の声に破られた。
「今、石を投げた者、出てこい!」
陽子は辺りを見回し、石を投げた勇敢な少女を捜した。その少女を突き出したものかどうか、思い悩むような空気が漂っていた。
──彼女は近くにいる。
「引きずり出せ!」
命じる声が聞こえ、人垣が割れた。その先に、怯んだように一歩下がった少女がいた。彼女が石を投げた少女だと陽子は確信した。
陽子は少女に近づき、その腕を掴んだ。少女は弾かれたように陽子の手を振り解く。陽子は踵を返した少女に追い縋り、再び強くその腕を掴み、引き倒した。
立って逃げたのでは目立ってしまう。陽子の赤い髪も少女の紺青の髪もあまり見かけない色なのだ。
「……こっち」
陽子は小さく少女に声をかけた。膝をついた少女が陽子を見た。その大きな紫紺の瞳。
「──こっちだ、急げ」
少女は驚いたように陽子を見つめたきり動かない。陽子は強い口調でそう言い、少女の腕を引いて人込みを掻き分ける。背後から少女を呼ぶ怒声が響いていた。が、陽子は気にせずその場を後にした。
北郭を歩き回って三日、陽子はこの辺りの地理を把握していた。いかにも迷いやすそうな街路の中でも、袋小路でないところを巧みに駆け抜けた。そして街外れの隔壁の、裂けたような場所から街の外に転がり出た。
そこまできて、陽子は少女の手を離した。肩で息をする少女に話しかける。
「……無茶をする」
「……ありがとう……」
息を弾ませた少女は、それでも陽子を見上げて礼を述べた。その様子に陽子は苦笑して言った。
「──気持ちは分かる」
深く考える前に手が動いていた。そう言って笑う少女に、そういう感じだったなと返しながら、陽子は歩き出した。少女は心配そうに騒然とした街を振り返る。陽子は大丈夫、と声をかける。班渠がうまくやっているはず。
そのとき、鋭い声が飛んできた。見ると遠くの隔壁の角を十人ばかりの兵士が曲がってきている。ぎくりと身体を強張らせた少女を庇い、陽子は腰に手をかける。
「行け、逃げろ」
でも、と躊躇する少女に、陽子は不敵に声をかけた。気にしなくていい、と。水禺刀を抜いた陽子を、少女は驚いたように見つめる。陽子は少女を押し出した。
大丈夫ね、と訊ねる少女に、心配いらない、と返し、陽子は閑地に飛び出した。太刀を構えて兵士を迎え撃つ。少女が逃げる時間を稼ぐため、派手に陽動する必要があった。半数以上の兵が剣を持つ陽子を追ってきた。その連中と戦いながら、陽子は少女が無事に隔壁の角を曲がるのを確認した。
彼女はもう大丈夫。
陽子は向かってくる最後の兵に峰打ちを食らわせ、踵を返した。遠くから聞こえる怒声に振り向かず、陽子はひたすら閑地を駆け抜けた。
* * * 27 * * *
刑吏に石を投げた少女を逃がした陽子は、閑地を闇雲に駆け抜け、人気のない林に逃げ込んだ。弾んだ息を整えながら陽子は考える。あれだけの騒ぎを起こしたのだ、北郭の街に戻ることは危険だろう。そのとき、足許から密かな声がした。
「──主上」
「班渠か、首尾は?」
「上々です」
「こちらもだ。詳細を報告せよ」
飄々と答える使令に笑い含みで応えを返し、陽子は命を下す。班渠は助けた農民から知りえたことを淡々と報告する。
北郭と東郭に人が多いのは、呀峰が明郭から閉め出しているからだった。明郭の地所には膨大な税を課し、高官しか住めない街にしてしまった。人も店も追い出され、北郭と東郭は異常なまでに肥大している。集まる旅人とその荷、流れこむ荒民。街が手狭になったと言っては、呀峰はろくでもない隔壁を築かせるのだ。明郭の近辺に住む農民は田を耕す暇もないと言った。
「──あの四人はその夫役をさぼったために処刑されるところだったそうです」
「──そうか」
班渠の報告を聞き、陽子は溜息をつく。そんな理由で過酷な刑罰を受けるのか。安穏と玉座に座っているだけでは知りえないことばかりだった。景麒は、どこまで知っているのだろう。
確かめなければならない。
そこまで考えて陽子はまた溜息をついた。北郭に景麒を置いてきたままだった。
「班渠、悪い、景麒を連れてきてくれ。あんな騒ぎを起こしてしまったから、もう北郭には戻れない」
「畏まりまして」
使令は即座に気配を消した。陽子は再び溜息をつく。班渠に怪我人を運ばせた。血の臭いがするに違いない。また、景麒に嫌な顔をされるのだろう。しかし。陽子は考える。自分の目で見てさえ、信じられない気持ちでいっぱいだ。
己の国に、釘で打って人を殺す刑罰があるなど。
死刑のない国はない。しかし、普通は斬首、よほど重い刑罰でも梟首だ。慶でもそれは同じはず。なのに、和州では死刑といえば磔刑だそうだ。それは、先ほどの広場で人々が小さな声で言い合っていた。
黄領でさえ三割の税、残虐な刑罰、呀峰や昇紘のような酷
吏。──どんなに人道篤い王がいても、目が行き届かなければ役に立たないのだ。遠甫の言葉が胸に甦った。そして。
(政は頼りになる官が見つかるまでが苦しい)
延王尚隆の言葉を、陽子は今頃痛感していた。あのときは尚隆の言葉の意味を理解できていなかった。ただ悩むだけで、実際にどうしていいのか分かっていなかった。
官僚がほしい。今こそ、真実、味方がほしい。
偽王を倒すときには思わなかった。一糸乱れぬ雁の王師に守られ、陽子は采配する必要もなかった。
偽王に捕らえられた景麒を救った後、偽王に与した諸侯、諸官はみな陽子に次々と下った。今なら分かる。玉座の威光と雁の威圧の前に下っただけなのだ。
陽子自身が何も知らぬ小娘だと分かると、みな掌を返したように陽子を軽んじた。景麒が常に王で在れ、と言うわけだ。王の権威のない小娘に官が従うはずもない。
物思いに沈んでいた陽子は人の気配に顔を上げる。夕暮れの中、冬枯れた林の中を近づいてくる影に、陽子は軽く手を挙げた。
「──主上」
「すまない」
現れた景麒は、早速顔を顰めた。血の臭いに気づいたらしい。陽子は苦笑を浮かべ、これまでの経緯を景麒に話して聞かせた。じっと陽子の話に耳を傾けていた景麒は、大きく息をついた。
「少しも自重してはくださらない」
「悪い……」
そう呟きながら陽子は膝の上に肘をついた。斜面から明郭の街が遠くに見えた。
「……私は、慶に釘を打って人を殺す刑罰があるなんて知らなかった」
「──まさか」
陽子の言葉に景麒は顔色を変える。やはり知らなかったか。知っていたら、麒麟である景麒が平気でいられるはずがないのだ。
まだ、金波宮に帰ることはできない。
陽子は静かにそう告げた。景麒は黙し、深く頭を下げた。
2006.01.19.