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黎 明 (10)

* * *  28  * * *

「くれぐれも、危険なことはなさらないでください」
「分かってるよ。気をつけるから」

 そう言って鮮やかな笑みを見せる主を、景麒は気遣わしげに見送った。主はいつも口ではそう言うのだ。無論、最初から危険なことをする気があるわけではないだろう。しかし、気づけばいつも主は危険に身を曝す。他人を思うあまりに自らのことは後回しにしてしまう。

 固継では初日から妖魔と戦った。北韋で物騒な男たちと出会った。拓峰ではその男たちに襲われかけた。そしてその拓峰で事故に遭った子供と行きあった。班渠の報告を聞いて、どんなに心配したことか。
 北郭に舎館を取った後、景麒は体調を崩してしまった。死臭と怨詛の気に満ちた明郭を避けてやってきた北郭の街も、明郭と大差なかった。

「景麒が動けなくなるほど死臭のする街だ。調べないわけにはいかない」

 主は景麒に勁い目を向け、そう言った。そして、次の日から早速、北郭の街を調査しに出て行った。主が無茶をしないように一緒に旅に出たはずなのに、景麒は結局舎館の残されてしまった。主は景麒を気遣い、気にするな、身体を労われ、と笑みを見せた。
 舎館に戻ってきた主は溜息をつく。北郭は奇妙な街だった。それは、和州侯呀峰が我欲のために設けた隔壁のためでもあった。街の中は古い隔壁が残り、迷路のようだった。
 呀峰はわざと街を小さく作り、季節ごとに大きくしていく。尤もらしい理由を取り繕って。そうやって、国官を煙に巻いているのだ。

 そして三日目、景麒は再び主を見送ったのだった。主は夕刻になっても舎館には戻らなかった。──何か、あったのだろうか。仄かに感じる主の王気に翳りはない。しかし──。
「台輔、主上よりご伝言です。急いで街を出るように、とのことです」
 班渠が戻ってきてそう言った。その血の臭い。景麒は顔を顰める。主はいったい、今度は何をしたのだろう。それでも景麒は急いで荷物をまとめ、舎館を出た。

 班渠が案内したところは、北郭を出た閑地の更に向こう、冬枯れた林の中だった。主は木に凭れて座りこみ、考え事をしていた。
「──主上」
 景麒が声をかけると主は、軽く片手を挙げて応えた。景麒は下生えを掻き分け、主に近づく。班渠と違い、主からは血の臭いはしなかった。しかし、 班渠についた辟易とするような血の臭い。景麒は主に諫言せずにはいられなかった。
「北郭の街に妖魔が出たとか」
 景麒はちらと主を睨めつけた。怪我人を助けただけだ、と主は苦笑する。しかし、主はいつも無茶をする。油断ならなかった。
「それは事情を伺ってからにしましょう」
 顔を顰めてそう言う景麒に、主は更に深い苦笑を零した。どちらが主か分からない、というように軽く首を振り、主は話し始めた。

 罪人を班渠に救わせ、己は刑吏に石を投げた少女を助けた。主らしい振る舞いだ。主の話を聞き終わり、景麒は深い溜息をつく。
「少しも自重してはくださらない」
「悪い……」
 主は悪びれない口調でそう詫びた。そして、慶で磔刑が行われているなど知らなかった、と続けた。まさか、と景麒は絶句する。しかし、明郭や北郭に漂う死臭、街に淀む怨詛の念。思い出せば納得できることであった。

「誰もが平伏して叩頭するけれど、それは実は嘲笑を隠すためかもしれない。……なんと愚かな王だ、と」

 そして主は呟く。官僚がほしい、と。志だけでは政を行うことはできないと気づいたのだろう。遠甫を朝廷に招けないだろうか、と問う主に、景麒は黙して答えなかった。それは主が判断すること。己の保身のみを思い、罪を捏造する輩もいるのだから。景麒はそれだけを告げた。
 主は景麒をじっと見つめた。そして重く口を開く。浩瀚か、と。景麒はやはり否定も肯定もしなかった。真っ先に麦州侯浩瀚を思い浮かべたということは主に負い目があるからだろう。そう指摘すると主はまた苦笑した。
 そして主は立ち上がる。拓峰に寄って固継に戻る、と。

 己の中で何か区切りをつけるまでは金波宮に戻れない。

 勁い眼差しでそう告げる主に、景麒は黙して頭を下げる。あなたの真実を見つけてください、心でそう呟きながら。

* * *  29  * * *

 陽子は明郭の様子を把握した。豺虎といわれる通り、その非道な税の取り立てと残虐な刑罰。陽子は和州侯呀峰の行いを胸に刻んだ。
 そして陽子は景麒とともに北郭を後にした。門が閉まる前に次の街に入るつもりだった。行きの道を逆に辿り、陽子は拓峰に向かった。
 景麒は拓峰の街にも近寄れなかった。拓峰もまた、尾のない豺虎と呼ばれる酷吏が治める街だ。当たり前のように人が毎日死んでいく。そして、誰もがそれに慣れている。麒麟が近づけなくて当然だろう。馬車に轢き殺された子供を思い、陽子は溜息をつく。

 景麒を閑地に残し、陽子は拓峰の門を潜る。行き先は決まっていた。前回寄った、あの大男がいる舎館だ。足早に歩き、陽子はその店に入った。
 店の中で卓を拭いていた少女が顔を上げ、陽子を見た。少女は、あなた、と陽子に声をかけてきた。目が合ったとき、陽子は目を見開いた。前に拓峰で会った少女だった。あの、馬車に轢かれた子供を抱いて泣いていた、確か鈴という名の少女。
 鈴、と名を呼ぶと、少女は、そう、と頷いた。そして、以前はありがとう、と続けた。いや、と答えながら、陽子は複雑な気持ちを隠せなかった。
 血に染まった子供を腕に抱き、うそ、と叫んでいた鈴。その痛いような悲嘆を浮かべた双眸を、陽子は忘れたことがなかった。その鈴と、こんなところで再会するなんて。
 鈴は椅子をひとつ引き、陽子を座らせると、お茶を持ってくると言って奥に走っていった。鈴がいなくなると、陽子はここに来た理由を思い出した。中を油断なく見渡した。あの大男はいない。そして、陽子を逃がしたあの少年も。

 ──どういうことだろう。

 やがて鈴は湯気の立った湯飲みを持って戻ってきた。どうぞ、と湯飲みが目の前に置かれた。陽子は軽く頭を下げ、さり気なく鈴に問うた。
「今日は鈴だけ? 前に来たときには背の高い男と、十五くらいの男の子がいたけど」
「虎嘯と夕暉のこと?」
 鈴はそう訊ね、小首を傾げた。虎嘯と夕暉、陽子は心の中でそう反芻し、頷いた。虎嘯はいない、夕暉は奥にいる、鈴は滑らかにそう答えた。あの二人は陽子を警戒していたが、鈴は清秀を看取った陽子に気安かった。

「あたし、大木鈴、というの」
 鈴は陽子に本名を名乗った。陽子は僅かに目を見張る。陽子が思ったとおり、鈴は海客だった。懐かしい気がした。しかし、陽子は海客に対する差別的な法をまだ改正できていない。海客の鈴に何を言えよう。
 鈴は親しげに話を続けた。清秀のこと、旅をしてきたこと。そして、陽子に名を訊ねた。陽子は偽名を短く答え、固継に住んでいると付け足した。
「固継──ああ、北韋ね。隣の瑛州の」
 鈴は陽子の話を受け、また世間話を続ける。陽子は黙って鈴の話に耳を傾け、頷いた。

「本当に景王は何をしているのかと思うわ。自分の国がどんな状態だか知らないのかしら……」

 鈴は眉根を寄せてそう言った。慶の人々は口々にそう語る。拓峰でも北郭でも、みながそう言って溜息をついた。陽子は胸の痛みを堪え、俯くより他にできることはなかった。しかし、同じ海客の少女のその問いに、黙っていることができなかった。
「……傀儡なんだ」
「──え?」
「無能で、官吏の信頼もないから、何もできないし、させてもらえない。黙って言いなりになっているしかない……」
 陽子の言葉に、鈴は目を見張り、身を乗り出す。堯天に詳しいのか、と問う鈴に、陽子は首を振る。ただの噂だ、と。鈴は溜息をつく。

「所詮は噂だわ。きっと前の王さまのように、政なんかどうでもいいのよ。それで少しも民の声が聞こえないのね。だから麦州侯だって追い出しちゃうのよ」

 え、と陽子は目を見開く。ここで麦州侯浩瀚の話を聞くとは思わなかった。
 陽子は朝議を思い出す。官吏たちは口々に奏上した。麦州侯は玉座を簒奪するために偽王に与しなかったのだ、と。そして、数々の証拠を並べ立てたのだ。だからこそ、陽子は頑強に反対する景麒を抑え、浩瀚を罷免したというのに。
 鈴は軽く顔を顰め、陽子を見やる。そして陽子の動揺には気づかず話を続けた。

「麦州侯って、とってもいい方だったのに、景王が辞めさせてしまったんですって。とても麦州の人には慕われていたのに。それで和州侯を見逃すんだから、呆れちゃう」

 鈴の言葉は陽子の心を貫いた。胸に鋭い痛みが走る。尚隆と行った堯天は活気に満ちていた。誰もが新王に期待していた。陽子は民に必要とされていることを喜んだというのに。
 景王は酷吏である和州侯を罷免せず、人望厚い麦州侯を罷免したのだ。民にとっては、それが事実。知らなかったのだ──王のそんな言い訳を、誰が聞くだろう。民は王を恨み、失望を隠さない。
 陽子は、そう、と呟き、立ち上がる。困惑する鈴に侘びを言い、陽子は店を出た。また来る? と訊ねる鈴に、苦笑を浮かべて頷きながら。

* * *  30  * * *

 旅に出る陽子を、蘭玉は明るく見送った。しかし、その笑顔は陽子が見えなくなると、たちまち曇っていった。朝餉の準備をしながら溜息をつく蘭玉を、遠甫は気遣わしげに見つめた。

 陽子を舎館に呼び出した客人を、蘭玉は陽子の野合の相手と勘違いしていた。陽子は困惑し、蘭玉の誤解を解こうと必死だった。遠甫はその微笑ましい勘違いを、あえて否定しなかった。
 しかし、宰輔景麒の訪れは、陽子を景王とは知らぬ蘭玉に、別れを予感させていた。陽子はあの男のひとに引き取られて里家を出ていくかもしれない。成人にならなければ婚姻はできないが、野合ならば親の許可があれば問題ない。そして、陽子には親がいない。蘭玉の溜息は、そんな思いを隠せなかった。
 確かに、陽子はそろそろ王宮に戻らなければならないだろう。こちらの常識を学び、民の生活を見つめ、官吏の実態を知ったのだから。
 景王陽子は宰輔景麒とともに、和州の州都明郭に向けて旅立った。悪名高き酷吏、和州侯が治める都を視察するために。

 王は明郭で何を見てくるのだろう。

 遠甫は王の真っ直ぐで輝かしい双眸を思い浮かべる。拓峰から戻ったときのように、また怒りを見せるのだろうか。それとも、酷吏をのさばらす己の不甲斐なさを責めるのだろうか。
 どちらにせよ、現状を変えるためにも、王は金波宮に帰っていくのだろう。そして若き王は、国のために、民のために力を尽くそうとするに違いない。それは慶の国にとっては喜ばしいことだった。遠甫は心勁き王に期待している。

 しかし、蘭玉は。桂桂は──。

 子供たちは淋しがるだろう。そう思い、遠甫は溜息をついた。

 王が明郭に出かけて十日程が経った。固継の里家はいつもどおりの昼間だった。陽子一人欠けただけで、桂桂は詰まらなさそうだった。蘭玉も元気がない。ほんの短い間に景王陽子は里家に溶けこんでいた。その事実に気づき、遠甫は苦笑した。
 しかし、と遠甫は呟く。聡明な蘭玉と利発な桂桂。王は二人に心を許した。味方がいない王は、もしかしたら親のないこの子供たちを伴って王宮に帰るかもしれない。そう考え、遠甫は微笑した。
 明るい気持ちになった遠甫は、正房に向かった。そろそろ昼餉の時刻だ。桂桂に呼ばれる前に行ってみよう、そう思った。そのとき、悲鳴が聞こえた。

「桂桂。──逃げて──!!」

「──どうした!?」
 遠甫は正房に駆け寄った。正房の扉を開けた途端に目に入ったもの。床に額をつけるようにうずくまる桂桂の姿。その小さな身体の帯の上に、突き出した短刀の柄。そして、正房の中ほどに、背中から血を流して床に身を投げ出した蘭玉。
「──蘭玉、──桂桂」
 遠甫は扉の近くに倒れている桂桂に駆け寄ろうとした。見知らぬ男たちがそれを阻み、遠甫の腕を掴む。遠甫はその腕を振り解き、桂桂の小さな身体を抱え上げた。

 何ということだろう。何が起きたのだろう。

 そして遠甫は蘭玉に視線を投げる。

 ──すまない、蘭玉。せめて、桂桂だけでも助けたい。

 蘭玉を見捨て、桂桂を抱えた遠甫は踵を返し、院子に駆け下りた。

「遠甫……逃げて……」

 振り絞るような蘭玉の声が聞こえた。

 桂桂をお願い、桂桂だけでも助けて。

 遠甫にはそう聞こえた。行く手を遮る男たちを避け、遠甫は書房へと逃げた。しかし、逃げ切れなかった。男たちは遠甫を捕まえ、桂桂をその腕からもぎ取った。

「──松塾の閭胥だな。死んでもらおう」

 男の一人が遠甫に凶刃を向けた。そうか、と遠甫は瞑目した。靖共はここまで追ってきたのか。道を説くことが、関係ない子供たちまでを傷つける──。

 蘭玉、桂桂、すまない……。

 遠甫は心の中でそう詫びた。
「遠甫!」
「蘭玉、逃げなさい!!」
 自ら血を流しながらも、蘭玉は倒れた弟と遠甫の許に駆け寄ろうとする。遠甫は必死に叫んだ。遠甫が飛仙であることを、蘭玉は知らない。冬器でなければ遠甫を殺すことはできない。しかし、蘭玉や桂桂の命は、男たちの持つ短刀で、簡単に断ち切られてしまうのだ。
「──蘭玉!」
 遠甫の叫びに、蘭玉は踵を返した。その後を男が追っていく。──逃げ延びてくれ、生き延びてくれ、遠甫は祈る。
 男が遠甫を短刀で刺した。遠甫は身体を折る。しかし、仙である遠甫は怪我をしても、死ぬことはない。刺した男は狼狽した。
「この爺、何故死なないんだ!」
「──このままじゃまずいぞ」
「いいから、このまま連れて行こう」
 狼狽した男たちは遠甫を乱暴に抱え上げた。遠甫は里家の外に止めてあった馬車に押し込められ連れ去られた。
 傷つけられた身体よりも心が痛んだ。蘭玉は、桂桂は無事だろうか。何の関係もない子供たちを巻き添えにしてしまった。他人を傷つけてまで説く道は正しいのだろうか。酷吏が横行する荒んだ国──。

 王よ、どうかあなたの国を正してください。

 遠甫には祈るより他に術がなかった。

2006.01.27.
 お待たせいたしました! ぜーぜー……。 長編「黎明」連載、なんと第10回アップでございます。 とうとう原稿用紙170枚分になってしまいました。 ──ちっとも終わりそうにありません。ごめんなさい!
 とうとう蘭玉が……。泣きたくなりました。 両親を喪った祥瓊、清秀を喪った鈴、そして蘭玉を喪った陽子。 慶国三人娘が集い、悲しみを乗り越えて立ち上がる様を、私も応援したいと思います。

2006.01.27. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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