黎 明 (11)
* * * 31 * * *
拓峰の舎館を逃げるように出た陽子は、うらさびれた途を足早に歩いた。陽子の胸の中で、鈴の言葉がずっと谺していた。
(本当に景王は何をしているのかと思うわ。自分の国がどんな状態だか知らないのかしら……)
(麦州侯って、とってもいい方だったのに、景王が辞めさせてしまったんですって。とても麦州の人には慕われていたのに。それで和州侯を見逃すんだから、呆れちゃう)
眉を顰めて鈴はそう語った。鈴の言葉は、陽子にとって慶の民の総意であるかのように聞こえた。それ故に陽子はいたたまれなくなってしまった。
固継に降りて、やっと民の生活を知った。そして、豺虎のような酷吏の存在を知った。止水郷長昇紘の、和州侯呀峰の非道に、陽子は憤っていた。
(酷吏を放置することは良くないが、法を歪めて処罰すれば法は意義を失う。それは放置よりももっと罪が重い。──焦るでないぞ)
遠甫にそう諭され、陽子は唇を噛みしめた。そう、急ぐ必要はない、と延王尚隆は言った。焦るなって、と延麒六太も言った。しかし陽子は、王として何とかしたい、何とかしなくては、と思った。民の苦渋を思うと、放ってはおけない、そう思っていたのに。
景王は人望厚い麦州侯を辞めさせ、非道を極める和州侯を見逃している。予王と同じで政などどうでもよいのだ。景王陽子に対する民の目は厳しかった。
──知らなかったのだ。
官は麦州侯が玉座を簒奪しようとしたと奏上した。信じるに足る証拠もあった。だから、陽子は麦州侯を罷免した。麦州侯が民人に慕われている事実など、陽子の耳には入ってこなかった。そう、噂すらも。
陽子は、はっとした。──景麒は麦州侯罷免に反対していた。景麒は、知っていたのかもしれない。陽子は居ても立っても居られず駆け出した。
「──麦侯はどういう人間だ?」
拓峰の門を出た陽子は、景麒の許に戻るなりそう問い質した。景麒の表情に乏しい冴え冴えとした顔を見ると、怒りが沸々と湧きあがる。知らないとは言わせない。陽子は激昂を隠そうともしなかった。
「主上のほうがご存じでしょう」
「分からないから訊いている」
景麒は僅かに首を傾げると、怯むことなく言った。はっきりと答えない景麒に、陽子は苛立ちを募らせる。そう、分からないのだ。官は玉座を簒奪しようとした人物だと断じた。しかし、民人の噂では、いい方だという。陽子は混乱していた。
「為人もご存じでなく、浩瀚を罷免なさったか?」
景麒は真っ直ぐに陽子を見つめ、冷静に問い返す。その非難めいた言葉に、陽子はぐっと詰まり目を逸らした。
「よくよく調べてから主上がご判断ください、と申しあげた。官吏の声にお任せにならず、と。──なのに今さら主上がそれを仰るのですか」
景麒は静かに畳みかける。確かに以前から景麒は、陽子がうんざりするくらいにそう言っていた。陽子は景麒と目を合わせずに応えを返した。
「調べさせた。──浩瀚は玉座を狙ってあえて偽王に与しなかった。私を怨んで弑逆を企て、それが露見して逃げた」
「では、そういうことなのでしょう」
景麒は陽子を突き放すように冷たくそう言った。
どうして──どうして、景麒はいつもいつもそういう言い方しかしないのだろう。
陽子は目を上げ、景麒を睨めつけた。
「だが、浩瀚は麦州の民に慕われていた、という話を聞いた」
「そういう噂も聞いておりますが」
陽子は怒りのあまり、頬を朱に染めた。やはり、景麒は知っていた。知っていて、黙っていたのだ。陽子は声を荒げた。
「だったら、何故、そう言わない!」
「では、お訊きしますが、私が浩瀚を庇えば、主上はお聞き届けくださったのか」
景麒はあくまでも物静かにそう問うた。その尤もな言に、陽子は更に詰まった。景麒は諫言を続ける。
「庇うと言うなら、私は何度も浩瀚の罷免についてはお考えくださいとお願い申しあげた。何故それを、浩瀚を罷免なさった今になってお訊きにになるのか」
陽子はその問いには答えなかった。じっと景麒を見上げ、逆に問うた。
「……浩瀚をどう思う」
「よく出来た人物に見えましたが。会ったことは二度ばかり、それだけの印象では」
「景麒……お前っ」
景麒の応えに、陽子はまた激昂した。景麒の言は、陽子にとって初耳のことばかりだった。
何故、今になってこんなに饒舌に語るのだろう。
思い返せば、景麒は諫言をするが、その理由を述べたことがない。それでは陽子は納得できないのだ。そんな陽子に景麒は静かに問うた。
「……そう言えば、主上は考え直してくださいましたか。官の言がある、証人がある、と私の言など、端からお聞きくださらなかったのに?」
「もう……いい」
陽子は吐き捨てるようにそう言うと、それきり押し黙った。景麒もそれ以上何も言わなかった。
* * * 32 * * *
無言のまま使令に跨り、陽子は景麒とともに拓峰から固継に向かった。景麒が心配そうな視線で見つめていることに、陽子は気づいていた。しかし、陽子は終止無言を通した。
──分かっていた。
景麒は陽子に何度も告げていた。麦州侯の罷免についてはよくよくお考えください、と。陽子はそんな景麒の諫言を、理解できていなかった。陽子は景麒の言よりも、官の奏上を信じたのだ。
官は口々に陽子に諫言した。宰輔は麒麟、慈悲のことばかり述べるのだ、と。慈悲だけでは国を治めていくことはできないのだ。そして、理由を言わずに諫言をする景麒よりも、官の奏上は分かりやすかった。
官吏たちは理路整然と浩瀚の罪状を述べ立てた。そして、証人を連れてきた。並べられた証言は、信じるに足るように感じられた。だから、陽子は麦州侯浩瀚罷免の判断を下した。
しかし、今思うと、官の言葉が真実かどうか、分からなかった。悉く並べ立てられた証言も、本当に正しかったのか。
昇紘が馬車で子供を轢き殺した、という話をしたとき、遠甫は言った。馬車に乗っていたのは昇紘ではないという話になるだろう。昇紘はそれをできるだけの権があるのだ、と。
(朝廷には権を争うものたちがいるのですよ。他派を引きずりおろすためには罪の捏造も辞さない輩が)
先日、景麒はそう諫言した。浩瀚か、と問う陽子に、景麒は、はっきりとは答えなかった。そう思うのは負い目があるからだろう、と嫌味を言っただけだった。
浩瀚の罪は官に捏造されたものだ、と景麒は思っているのだろう。浩瀚は玉座の簒奪など考える人物ではない、景麒はそう確信している。ただ、陽子を納得させるだけの証拠がないのだ。
景麒がそう思う理由も、陽子は今なら理解できた。鈴の言葉が陽子の胸を貫いたのは、それが真実を感じさせるものだったからだ。
拓峰で昇紘が馬車で子供を轢き殺したのを見た。明郭で呀峰が夫役をさぼっただけの民人を磔刑にするのを見た。権を持つ官吏が無力な民に何をするかを、陽子は知った。
権に執着する官吏と違って、無位の民は嘘をつかない。自分たちの暮らしに害をなす官吏に厳しい見方をする。だからこそ、民に称えられる麦州侯は、よく出来た人物なのだろう。陽子は今やそう納得できた。それ故に、和州侯を罰せずに麦州侯を罷免した己の愚かさを許せなかった。
そうだ、愚かなのは陽子なのだ。景麒ではない。
景麒の諫言を聞かず、官吏の虚言を信じたのは陽子だ。──民が、無能な王、と陽子を詰っても仕方がない。民の信頼を裏切るようなことを、他でもない景王陽子がしているのだから。
固継の街が見えた。街道脇の林の中で陽子は使令から降りた。そのまま押し黙って固継を見つめる。まだ里家に戻る気持ちになれなかった。同じく使令から降りた景麒は、退れと使令に命じ、気遣わしげに陽子に告げた。
「主上……門が閉まります」
「分かっている」
陽子は固継を睨んだまま吐き出すように答えた。それを聞いた景麒は静かに問う。
「……それほど私にお怒りか」
「自分に腹が立っているだけだ……」
陽子は景麒に背中を向けたまま首を振る。景麒は軽く息を吐いた。そのまま頭を下げる気配がする。
「申し訳ございません」
「景麒のせいじゃない」
景麒の声は相変わらず感情が乏しかった。しかし、陽子とうまく意思の疎通が取れなかったことを悔いているようだった。振り返った陽子は、複雑な笑みを景麒に向けた。
「怒って悪かった。……八つ当たりだ」
「私の言葉が足りませんでした」
「いや、私がちゃんと訊けばよかった。……済まない」
景麒を責めるのは間違いだと陽子は知っていた。責められるべきは、陽子自身だ。自ら考えることをせず、官吏の言を鵜呑みにしていたのだから。
「行こう」
陽子は景麒を促して歩き出した。景麒はそんな陽子の顔を見やり、僅かに目を細めた。そして感慨深げに藍の漂い始めた空を見上げた。
* * * 33 * * *
景麒は主の後ろについて固継の門を潜った。主の細い背中を見つめながら、強い方だ、と思う。主は、自分に腹が立っただけだ、と言って、景麒を責めなかった。
景麒は言葉を惜しんでいるつもりはなかった。しかし、己の言葉が足りないことに後で気づく。──主に聞こえぬように小さく息をつく。
金波宮では、主とこのように率直に話し合う機会を持たなかった。いや、もしかしたら景麒は、そんな機会を避けていたのかもしれない。
派閥に分かれた官は、互いに己の主張を譲らなかった。相反することを奏上されて、主はいつも困惑していた。何も分からぬまま裁可を強要され、官吏に全てを任せてしまうこともあった。
主からそれを聞いて、景麒は溜息をついていた。官の思う壺だ。若き王に何も知らせず、己の権を持ち続けることこそが奸臣の思惑なのだから。
いけなかったか、と問う主に景麒は溜息をつくだけで理由を告げなかった。主自身に何がいけないのか考えてほしかった。しかし、景麒の気持ちは、主には通じていなかった。
もっと、言葉を尽くすべきだろうか。
そう迷うたびに予王の顔が胸に浮かんだ。官吏との拮抗に負けて泣き暮らしていた繊細な先王──。
主の華奢な背中を見やる。思えば主はいつも泣くことがない。萎縮し、困惑しても苦笑を浮かべるだけで、涙を見せることは終ぞなかった。景麒は改めて思う、この方は予王と違うのだ、と。
「もう帰るか?」
門を潜りながら主はそう問うた。景麒は遠甫に挨拶してから帰るつもりだった。そう答える景麒に、主は遠甫のことを問う。景麒は少し困った顔をする。詳しく知っているわけではなかったが、知っていることを述べた。
「もともとは麦州の方とか。道を知り、理を知る方だと、実は麦侯から伺いました。遠甫の人望厚く慕われるのを妬んだ者が遠甫を害そうとして、それで瑛州のどこかに移せないかと、麦侯から相談を受けたことがございました」
「浩瀚か……そうか」
主はそう呟き、自嘲の笑みを漏らした。景麒は主の麦州侯に対する誤解が解けたことを感じた。
里家の傍まで来て、景麒は足を止めた。
血の臭いがする。
そう告げると、主は血相を変えて駆け出した。主の後について里家の門を潜った景麒は顔を蹙めた。血の臭いは強まる。点々と床に零れた血の跡。
「蘭玉! 桂桂!! ──遠甫!」
「敵は、いません」
驚愕した主の声に、使令の声が被った。主は一気に奥へ駆けこんだ。そして走廊に倒れている子供を見つけた。
その小さな身体に深々と刺さっている短刀。
「桂桂──!」
「動かしてはいけません」
倒れた子供に手を掛け、主は悲痛な声を上げる。子供の身体はぐったりと力がなかった。景麒は主を制した。
「まだ息がある。──驃騎、この子を金波宮へ」
間に合わないやも、と低い応えがあった。景麒は分かっている、と頷いた。いざとなれば景麒が転変して運ぶつもりだった。御意、と短い返答があり、桂桂の身体の下に赤い豹が現れた。同時に白い羽毛の鳥女が現れて桂桂を支えた。
驃騎、芥瑚、頼む。
主はそう叫び、点々と続く血糊を辿る。行き着いた房間に撒かれた血糊の惨状に、景麒は及び腰に足を止めた。
無理をするな、と主が言った。ですが、と景麒は言い募った。それより桂桂を頼む、と言い置いて、主は中に入っていった。そして、絶望的な声を上げた。
「──蘭玉……! ……何故。何故、なんだ……」
その搾り出すような悲嘆の響きを聞き、景麒は踵を返した。蘭玉という少女は、もう息がないのだ。──せめて桂桂を助けなければならない。景麒は転変し空を駆けた。
この世で最も速い脚を持つ麒麟は、じきに桂桂を運ぶ驃騎に追いついた。流される血の臭いに耐え、景麒は子供を王宮へと運んだ。瘍医の許へと桂桂を届けると、景麒は力尽きたように倒れた。
「──台輔!」
芥瑚の叫び声が聞こえた。が、景麒はもう意識を失っていた。驚愕に目を見開いた主の顔が脳裏を過った。主の悲痛な声が、まだ耳に残っていた。
2006.02.03.
お待たせいたしました。長編「黎明」連載第11回でございます。
なんだか余裕のない状態が、普通になってきました。
これじゃいけない! ですよね……。
陽子主上、試練の連続です。負けずに頑張ってほしいです。
だから、「慶賀」みたいなお話を書きたくなるのでしょう……。
相変わらずちっとも終わりが見えません。
いつもの如く、気長にお付き合いくださいませ。
2006.02.03. 速世未生 記