* * * 35 * * *
浩瀚の許には元麦州の者を中心とし、多くの者が集った。その中で、元州師将軍を務めた
桓魋を明郭に配し、現状把握を図った。桓魋とその配下の者は傭兵として明郭に紛れこんだ。
明郭は虚海から青海、高岫から堯天を結ぶ二つの大街道が交わる要所であった。虚海から船で輸送された荷と大国雁から高岫を越えて運ばれる荷は必ず明郭を通る。故に明郭の周辺では草寇が多発した。その荷を守るために和州では州師を派遣していた。そのほとんどが傭兵で構成されていたのだ。
配下の者は様々な情報を齎した。草寇防止のために兵を派遣し、その分、荷に通行税をかけること。明郭の外に無から街を作り、物資と旅人を守るためと謳い隔壁を築かせていること。それを賄うために旅人から税を取り立てていること。和州では税は七割が普通だということ。民は夫役に駆り立てられ、地を耕す暇もないこと。そして、逆らう者は容赦なく磔刑に処されること──。
和州は温暖な慶の中でも気候に恵まれない北に位置している。ただでさえ収穫量の少ない農地の上、七割もの税。絶え間ない夫役。そして過酷な刑罰。和州の民は日々怯え、息を潜めるように暮らしていた。
次々に挙げられる報告を聞き、浩瀚は眉を顰める。尾のない豺虎と評される呀峰の非道は有名だった。しかし、実際にここまで非道を尽くしているとは。これでは呼びかけをしても和州の民はその声に応えることをしないだろう。抵抗もできないほどに押さえつけられているのだから。
そして和州侯呀峰の非道が伝えられるたびに配下の者は囁いた。
王はこのような酷吏を放置し麦州侯を罷免したのかと。
浩瀚は苦笑する。皆が浩瀚のために憤っているのは分かるが浩瀚は彼らを宥めなければならなかった。王に拝謁する機会のない者は単純にそう言うのだ。
しかも、堯天からは、王が雁に留学したらしい、との報告も入ってきた。浩瀚はその報を下位の者に知らせないよう柴望に命じた。玉座に王がいないと皆が知れば士気が下がると考えたのだ。
現に、元州宰である柴望すらも、王が玉座を降りて雁に逃げた、と言って眉を顰めた。しかし、浩瀚はそうは思わなかった。王には何か考えがあって動いているのだろう。そうでなければ宰輔がそれを認めるはずがない。
宰輔により瑛州固継の閭胥に任じられた松塾の閭胥遠甫もそれに同意した。浩瀚は密かに柴望を遣わし、閭胥遠甫の知恵を借りていた。遠甫もまた柴望を通じて伝えた。おぬしの見立ては正しい、と。柴望は首を傾げていたが、浩瀚は微笑した。遠甫もまた王を信じ、期待しているのだ。
王を信じよ、官に怯え政を放棄した前国主と新王は違う。
浩瀚は繰り返し配下の者に語った。自ら剣を携え宰輔を救い偽王を倒した王を信じよ、と。若く胎果で道を知らぬ王に道を示すために浩瀚は動いているのだから。
情報を集め、冬器を集め、傭兵を集め、浩瀚は来るべき蜂起に備えていた。そんなとき、急使が駆けこんできた。閭胥遠甫が住まう固継の里家が襲撃された、と。
襲撃者は里家の娘を一人殺し、その弟の小童と閭胥の遠甫を攫って逃げたらしい。里家からは盗まれたものはなく、何ゆえの犯行か分からない。ただ、このところ頻繁に里家の周囲をうろつく男たちがあって、これが拓峰の者だということだった。
「昨日拓峰では、日没後に馬車が一台、閉じた門を開けさせて通ったということでございます」
急使はそう言って報告を終えた。浩瀚は使者を労い、下がらせた。
松塾が焼討ちされ、閭胥遠甫は浩瀚の手で宰輔が治める瑛州に隠された。その固継の里から遠甫が連れ去られた。浩瀚は傍に控える柴望に問いかける。
「──どう思う」
「拓峰の門を開けさせたのは、昇紘でございましょう。そして、昇紘を動かす者は呀峰でございます。呀峰に命を下したのは──」
「そうだな。だが、証拠がない」
柴望は淀みなく答えたが、浩瀚は最後まで言わせなかった。柴望は訝しげに浩瀚を見返す。浩瀚は柴望に微笑を向けた。
「──憶測でものを言ってはいけない。明郭にいる桓魋に調べさせよう」
「御意」
柴望はすぐに明郭に向かって発った。浩瀚はその後姿を見送る。道を知る閭胥遠甫の無事を祈りつつ。
* * * 36 * * *
遠甫が襲われたのは己のせいかもしれない。
浩瀚は胸を痛めていた。浩瀚は固継の里家に何度も柴望を遣わした。浩瀚同様、柴望もまた秋官に追われる身である。面を隠しての訪問を繰り返した。もしかして、それを見咎められたのだろうか──。
憶測でものを言うな、と止めはしたが、浩瀚も柴望と同意見であった。拓峰の門を開けさせ、通り抜けた馬車は、間違いなく止水郷長昇紘の手の者だろう。そして昇紘にそれを命じたのは、和州侯呀峰。他州の里家の閭胥などに和州侯が怨みを抱くはずもない。命を下したのは、恐らく靖共だろう。
松塾の生き残りを執拗に狙う靖共。その視野には元麦州侯浩瀚も入っているに違いない。宿望を果たすまで靖共の魔手にかかるわけにはいかないのだ。より慎重に身を隠す必要がある。
そして浩瀚は若き女王に思いを馳せる。道を示さぬ奸臣から逃れ、延王の許で政を学んでいるという。稀代の名君と称えられる隣国の王から道を教わっているのだろうか。
その王に真実を届けたい。
雲海の下で暮らす普通の人々の現実を知らせたい。言を弄す酷吏の非道を見せたい。そして、王は輝かしい瞳にそれらを映したとき己の使命を理解するだろう。
煌びやかな王宮で暮らしながらそれに流されない女王。豪奢に飾り立てられ、その美を称えられても淡々としていた。王は愚かではない。道を示せば必ず応えてくれる。浩瀚はそう信じている。
やがて、明郭より戻った柴望が報告した。北韋にいた労藩政が豊鶴に移った、と。
「なんでも、周囲を嗅ぎまわっている者がいるらしいということで」
「──そうか」
それから柴望は思い出したように笑みを浮かべた。浩瀚は不思議そうに目で促す。
「
桓魋が面白い娘を拾ってきましてね」
柴望は桓魋の許で会った娘の話をした。隠れ家の中へ入っていく柴望の行く手を塞ぐように誰何したこと。明郭で刑吏に石を投げて追われたこと。そして、澄んだ瞳を柴望に向けて、景王を信じる、と言ったこと。
「蒲蘇の祥瓊、と名乗りましたよ」
柴望は楽しげにそう結んだ。蒲蘇は芳の首都。そして、祥瓊という名は──。考えに沈もうとした浩瀚を、ふと思いついたような柴望の声が引き戻した。
「それから、明郭で祥瓊を助けた娘がいたそうです。桓魋が言うには、なんとも思い切りのよい娘で、目の覚めるような赤い髪をしていたとか」
浩瀚は僅かに眉根を寄せた。
目の覚めるような赤い髪──。
金波宮で拝謁した景王赤子は、見事な緋色の髪をしていた。しかし、王は雁に留学中のはず。いくら赤い髪が珍しいとはいえ、王が明郭にいるわけがない。浩瀚はその考えを払うように首を振った。
その後、再度明郭を訪れた柴望が新たな情報を齎した。労の許に運んだ冬器を受け取ったのは昇紘を狙う拓峰の者だということ。そして、その拓峰の者が労に北韋を出ろと勧めたことを。
──遠甫の消息は未だ分からなかった。
「拓峰の連中は冬器三十を労から受け取ったそうです」
「拓峰の決起は近いな。──悪いが利用させてもらおう」
「──利用、とは」
昇紘が単なる地方官吏であれば、呀峰はあえて支援はしないだろう。しかし昇紘と呀峰の癒着は深い。閭胥遠甫の件でも分かるように、呀峰は汚い仕事を昇紘にやらせている。乱が長引いて国が出てくれば、捕らえられた昇紘が呀峰の悪事を全て吐いてしまうかもしれない。呀峰はそんな危険を冒すまい。呀峰が拓峰に大量に州師を派遣すれば、明郭はがらあきになる。明郭を討つ絶好の機会だ。
柴望にそう説明すると、浩瀚は涼しげに笑った。閭胥遠甫の行方はまだ掴めない。しかし、不確かではあるが、拓峰から明郭に送られたという情報もあった。明郭を討てば、はっきりすることだろう。
拓峰の蜂起を待ち、これを支援する。
そして、拓峰に向けて州師が派遣されて守備の弱まった明郭を討つ。手筈は整った。あとは機を見て実行に移すのみ。
雁で学ぶ王にも報せはいくだろうか。奸臣が隠しても宰輔が知らせるだろう。浩瀚は微笑する。
しかし、その拓峰決起に景王陽子が絡んでいることを、浩瀚は知る由もなかった。
2006.02.10.