* * * 38 * * *
「景王の名において、和州止水郷長昇紘の更迭を命ずる」
翌日の朝議の場にて、宰輔景麒は御名御璽を押印された書面を示した。それを聞いた官吏たちは唖然とし、すぐに騒ぎだした。未だ姿を現さない王の勅命である。それは当然のことであった。
官吏たちは口々に問いかける。それはいったいどういうことなのか。止水郷長の更迭は何の咎なのか。何故王は止水郷長の更迭を命ずるのか。そもそも、王は何処で何をしているの
か──。
「台輔、仮にも郷長の地位にある者を、そう簡単に更迭などできません。如何な咎なのか、ご説明願いたい」
騒然とする官吏を代表するように秋官長が声を上げた。それは尤もな意見だ。景麒は重々しく口を開く。
「先日、瑛州固継の里家が襲撃を受け、娘が一人殺害された。閭胥は攫われ、拓峰に捕らえられているという。止水郷長昇紘はその襲撃者を匿った」
景麒の説明に、官吏たちはまた騒然となる。秋官長は景麒に問いかける。
「──その証拠はおありですか」
「拓峰の閉じた門を開けさせた馬車がいる。その権を持つ者は郷長しかいない」
景麒の応えに、秋官長はゆっくりと首を振る。その場にいる他の官も同様だった。
「台輔、秋官府はそのような不確かな情報で官を更迭することはできません」
「──これは勅命だ」
「台輔はそう仰いますが、その主上はいったいどちらにいらっしゃるのですか」
「──」
景麒は表情を変えなかった。が、その胸の内には苦いものが込みあげていた。官は手薬煉引いて景麒の答えを待っている。王はいったい何処で何をしているのか、と。
「雁にいらっしゃるはずの主上が、何故、突然このような勅命をお出しになるのですか」
「そうです。主上はいったい何を考えておられるのか」
官吏たちはまたもや騒ぎだした。景麒は官吏たちのこの反応を予想していた。しかし、勅命、という最終手段が通じないため、それ以上何も言うことができなかった。
王の権威は、ここまで貶められているのだ。
「──主上はまだお若く、政の段取りをよくお分かりでないのだ。台輔にそれ以上のことを申し上げるのは酷と言うもの」
騒然とした官を鎮めたのは元冢
宰──今は太宰となった靖共だった。悠然と官吏を見回して靖共は続ける。
「止水郷長は、とかく悪い噂の多い人物。秋官府は調査を続け、証拠を見つけ次第奏上せよ。台輔、それでよろしいですね?」
靖共は景麒に恭しく頭を下げる。もとより景麒には頷くより他に術がない。朝議はそれでお開きとなった。
やはり勅命は通用しなかった。
景麒は溜息をつく。王がいないから、と官は言った。だが、そうではあるまい。主がこの場にいても、結果は同じだっただろう。官吏は言を弄する。主はまだ狡猾な官吏に対抗できない。
己は語らずに側近に景麒を糾弾させ、最後に騒然となった朝を鎮める。
そんな靖共の手腕は見事だった。秋官府は調査をしているように見せかけ、証拠はないと奏上するに違いない。
景麒はそんな奏上を待つ気はなかった。早々に踵を返し、瑛州府に向かう。主が示した次善の策、景麒が州侯を務める瑛州師を出すのだ。しかし、そちらにも既に手が回っていた。瑛州州司馬と三将軍は急病とのことだった。
いったい、王権はどこまで貶められるのだろう。
景麒は歯噛みした。勅命も宰輔の命も通らない。この国はここまで荒んでいるのだ。主の澄んだ双眸を思い出し、景麒は瞑目する。
「台輔……」
「分かっている」
使令の密かな声に、景麒は目を上げる。主は独りで戦っている。王の権を揮うこともできずに。そして、それ故に王であることを打ち明けることもできずに。
それでも主は今の己にできることをしようとしている。
「驃騎、今動かせる全ての使令を率いて主上をお助け申し上げよ」
「畏まりまして」
常に景麒の身を守る芥瑚を残し、全ての使令が驃騎とともに拓峰へ向かった。瑛州師をも動かせぬ景麒は、己の持つ使令を動かすより方法はない。麒麟である景麒が、起こると分かっている内乱を止められない。
民の血が流されるのを黙って見ていなければならないのだ。
班渠の報告によれば、拓峰にて内乱を企てる民の人数はおよそ千。拓峰を守る兵力に比べるべくもない。しかし、それでも虐げられた民は酷吏に反旗を翻そうとしている。そして、主はそんな民人に手を貸し、道を示そうとしている。
主が市井に降りたことは間違いではない。
景麒は確信を持って言える。今の慶は、王が官吏の上から権威を示すことができないのだ。
民人は新王に自分たちの厳しい現実を伝えようとしている。主はそれを理解した。次は、権力を恣にする狡猾な官吏に思い知らせなければならない。
国を統べるのは王の役目だと。
どうかご無事で──。
打てる手を全て打った景麒にできるのは、もう祈ることだけだった。
* * * 39 * * *
「──主上」
拓峰のうらさびれた妓楼にて、夜陰に紛れ低い声がした。金波宮に遣わした班渠が戻ったのだ。陽子も低く微かな声で班渠に問う。
「首尾は?」
「──残念ながら。明日の朝議後、連絡をくださるそうです」
「そうか」
使令の応えに陽子は薄く笑う。始めから分かっている。
お飾りの女王には権がないのだ。
いくら御名御璽を押印した書類があろうとも、宰輔景麒が命じても、官は動くまい。
しかし、可能性は薄くても、考えつくことは全てしなければならなかった。今の陽子は悲惨な現実に嘆いてはいられない。今の己にできることをしよう、陽子はそう誓った。
陽子は苦く思い返す。初めての女友達、蘭玉を喪った。背中を何箇所も刺され、血溜まりの中で息絶えていた蘭玉。蘭玉は陽子の房間で、陽子の御璽を握りしめ、その手を身体の下に隠すようにしていた。
まるで殺戮者から陽子を守るように。
御璽が何か分かっていたのだろうか。御璽を握りしめ、最期に何を思ったのだろう。
──今はもう、それを知る術もない。
何故、蘭玉があんなふうに惨たらしく殺されなければならないのだろう。
陽子は零れそうになる涙を堪える。泣いている暇などない。泣いても喪った者は戻らない。金波宮に送った桂桂はまだ意識が戻らないという。陽子は攫われた遠甫を助けなければならない。
慶国の宝重である水禺刀を取りだした。うまく支配することが叶えば、剣は過去未来、千里の彼方のことでも映す。しかし、剣を鎮める鞘を、陽子は失ってしまった。鞘のない剣が映す幻は意味をなさないものばかり。陽子は白刃に遠甫を見出すことはできなかった。
誰もいない里家で一夜を過ごした後、心当たりを辿り、拓峰までやってきた。そこで知ったのは、怪しいと思っていた虎嘯たちが、実は昇紘を狙う一派だということだった。
虎嘯の弟、夕暉は語る。固継の閭胥、遠甫は麦州にあった道を教える義塾、松塾の閭胥だと。松塾は一昨年、焼討ちに遭い、今はないこと。松塾の焼討ちは昇紘の差し金だろうということ。そして今尚、松塾の関係者は狙われているのだ。道を説くものなど、狡猾な官にとっては邪魔なだけ。ただ独り偽王に抵抗し罷免された麦州侯も、松塾の出身者であった。
松塾の閭胥である遠甫を攫ったのは、どうやら昇紘らしい。それを聞いた陽子は、すぐさま郷城に向かおうとした。それを、虎嘯たちに止められて、今ここにいる。揃いの指環に思いを秘めた虎嘯たちは、決起の切っ掛けを待っていたのだ。
酷吏に虐げられていた民が反旗を翻そうとしている。内乱になれば多くの者が斃れて死ぬ。陽子は彼らを助けたかった。
王にはその権があるはずなのだ。
陽子は御名御璽を押印した書類を班渠に持たせ、金波宮で待つ景麒の許に遣わした。藁をも縋る思いだった。ここで昇紘を更迭できれば、誰も血を流さずに済むのだから。
虎嘯た差し向けた使いは夜半過ぎに戻ってきた。虎嘯は皆を集める。閉じた門を開けさせた馬車は真っ直ぐ郷城に入った。昇紘はこのところずっと郷城の官邸にいる。その意味は分からない。しかし、今こそ昇紘を倒し、攫われた閭胥を助けよう。
そんな虎嘯の言葉に、集まった人々は頷く。陽子はそんな数多の顔を見渡す。
──陽子ができなかったことをやろうとしている人々の顔を。
朝になった。陽子は景麒の返事を待つ。やがて密かに驃騎がやってきた。やはり、昇紘を更迭することはできなかった。しかも、頼みの瑛州師すらも動かすことはできなかった。
陽子は自嘲の笑みを浮かべる。今の陽子の力など、そんなもの。ならば、民とともに戦おう。陽子はそう決心した。景麒は驃騎に今動かせる全ての使令をつけて寄越した。それが陽子の手駒の全てだ。
今の陽子にできること。自ら剣を振るい、蜂起する民とともに戦う。そして酷吏を倒し、遠甫を助ける。それだけが喪った者への手向けだ。
決起は近い。
陽子は勁い瞳を前に向ける。己の道を、ただ前へと進むために。
2006.02.17.