黎 明 (14)
* * * 40 * * *
「おう、尚隆、楽俊から報告が届いたぞ」
雁州国首都関弓。国主延王が住まう玄英宮、王の執務室に陽気な声が響いた。宰輔延麒六太が主に書簡を届けにきたのだった。
延王尚隆は口許に笑みを浮かべ、頷いた。卓子の上には膨大な書簡が積まれている。六太は口笛を吹く。
「──ずいぶん真面目に仕事してるじゃねえか」
「お前もな、六太。最近よく顔を見かける」
「休暇に入った楽俊に仕事を頼んどいて、おれが遊びに行くわけにはいかねえだろ」
「違いない」
軽く顔を顰めた六太に、尚隆は破顔する。六太は、最近危ういと噂される隣国、柳の調査を楽俊に頼んだ。そうしないと、延王尚隆が嬉々として自ら出向いてしまうのだ。
そういえばこいつは慶から帰って以来大人しいな、と六太は思う。放浪好きで、落ち着いて王宮にいた例のない六太の主は、ここ最近珍しく政務に励んでいる。伴侶である陽子が頑張っているからだろうか。
陽子はどうしているのだろう。
六太は隣国の女王に思いを馳せる。即位式に臨んだ若き女王は美しかった。王の正装である大袞に身を包み、凛然と立つ景王陽子に、尚隆も六太も感嘆の溜息を漏らしたものだ。
しかし、即位式を終えた後、姿を見せた陽子は憔悴していた。慶の官吏たちは若く胎果の女王をお飾り人形としていた。焦るな、六太も尚隆も先達としてそう告げるより他に方法はなかった。陽子が王として越えていかなければならないことなのだから。
郊祀の祭礼後、陽子より親書が届いた。雁発行の旅券を送ってほしい、と。密かに慶の里に降りて学ぶことにしたが、官吏に知られるわけにいかない。自国の旅券を用意できない、とのことだった。それを聞いて、尚隆は旅券を手にし、すぐさま慶に旅立った。
普段は飄々としている尚隆が、歳若き伴侶をそんなに心配しているとは。
勅使を装ってまで伴侶に会いに行く尚隆を、六太は呆れて見送った。寧ろ微笑ましい、とすら思い、六太は苦笑する。五百年もの間、後宮を持たなかった尚隆が初めて自ら選んだ女なのだ。少しは大目に見てやろう。そのとき。
「失礼いたします。至急の報せでございます」
楽俊からの書簡を読む尚隆の許に、もう一通の書簡が届けられた。至急の報せ、六太は首を傾げる。その書簡を読む尚隆の顔色が僅かに変わった。六太は眉根を寄せる。
尚隆は、多少のことで動じたりはしない。
「どうした、何の報せだ」
「──いや、たいした報せではない」
「嘘をつくな」
六太は尚隆から書簡を引ったくった。そこに書かれていたのは。慶国固継の里で里家が襲撃された。娘が一人殺害され、閭胥と小童が行方不明。襲撃者は拓峰に逃走。
里家を留守にしていた娘は、現在消息不明──。
「──なんだよ、これ。真面目に仕事をしてると思ったら……」
六太は尚隆に詰め寄る。尚隆は深い溜息をつき、首を横に振った。六太には分かってしまった。尚隆が何故、今まで大人しく玉座を温めていたのか。六太は尚隆を真っ直ぐに見つめ、おもむろに言った。
「いいか、お前にできることは、何もないんだ」
「──分かっているさ」
六太の諫言に、尚隆は薄く笑った。そしてまた卓子に向かい、仕事を始めた。向けられた広い背は、それ以上何も言うな、と六太を拒絶していた。六太は溜息をつき、堂室を出た。
その後、御璽押印済みの書類のみを残し、王が姿を消した、と下官から報告された。六太は舌打ちをし、王宮を駆け抜ける。禁門で騎獣に乗ろうとしてる尚隆を見つけ、六太は怒声を上げた。行き先はもう知れている。
「尚隆! いったい何しに行くつもりだ」
「何も。ただ、見届けに行くだけだ」
「お前なぁ……」
「六太。──隣国の黎明を見に行くのは、そんなにいけないことか?」
不意に尚隆は真摯な目を向けた。過保護すぎる、と言いかけた六太は黙す。王朝の黄昏ばかりを見続けてきた。ここ何年かで、慶が、芳が、巧が次々と倒れていった。まるで日が没するように。そして今、もうひとつの隣国、柳がまた百二十年余の王朝を終えようとしている。
王朝の瓦解を見送るたび、やるせない気持ちになる。この五百年、星の数ほどの王朝を看取った。それは慣れることのない思いを引き起こす。
──何時かはその群に入るのだ。終わりのない王朝などないのだから。
その中で、隣国慶の女王は、暁の太陽のような光輝を放っている。十六歳で神籍に入った胎果の女王は、悩みながらもひたむきに前へと歩む。その姿は清廉で眩しかった。
己の伴侶の孤独な戦いを見届けたい。
尚隆の目はそう語る。ただ、それしかできないのだ。どんなに守りたくても、手助けしたくても。その気持ちを察して、六太は深い溜息をつく。
「ああもう、しょうがねえなぁ……。──見届けてこいよ。まったく過保護なんだから、この莫迦殿は」
「──お前だって、気にしているだろうに」
くっと笑うと尚隆は騎獣に跨った。瞬く間に見えなくなるその姿を、六太は複雑な思いで見送った。
* * * 41 * * *
もう、何もできることはない。
そう思い、黙して伴侶の細い背中を見送った。それから、もう何日が過ぎただろう。
騶虞に跨って慶に向かいながら、延王尚隆はひとりごちる。玄英宮で溜まった政務を片付けながらも、慶からの報告が届くたびに思った。王として、己の道を歩み始めた伴侶に、これ以上手を差しのべることはできないのだ、と。六太に改めて言われるまでもない。しかし──。
固継の里家が襲撃され、陽子は消息不明だという。無論生きているだろう。鳳は鳴いていないし、天命が尽きぬ限り王は死なないのだから。それに陽子はただ流される女ではない。
あのとき固継に陽子を送り届けてから、尚隆は近隣を見て回った。北韋に少し滞在して溜息をついた。黄領の北韋でさえ、三割の税。それでも隣の和州よりはましだ、と民は語る。
和州の税は実に七割。中でも北韋の川向こう、止水郷長昇紘はその七割の税を、きっちりと民から取り立てる。北韋の前領主である和州侯が課していた税は五割。そして、現在和州での七割の税のうち、四割は呀峰の手に落ちる。それは有名な話であった。
流れ者の耳にも入るほどの公然の事実。それだけの非道を行いながらも和州侯が罰せられることはない。人望厚い麦州侯は罷免されたというのに。民の中には王が和州侯を保護しているのだ、と言う者すらいた。
偽王軍と戦うとき、尚隆は陽子に麦州侯と連絡を取るように助言した。ただ独り、前国主の妹である偽王と戦った麦州侯は道を知る者のはず。しかし、その前に既に麦州侯は偽王軍に捕らわれていた。
金波宮で陽子を迎えた官吏たちはそんな麦侯を罷免するよう求めた。そして、そんな中で起きた太宰と三公の大逆騒ぎ。朝廷は狡猾な官吏の思うままだった。
子飼いの者を州侯にして財を貢がせ、己は潤沢な資金をもって朝廷を恣にする。しかも、悪評を一手に引き受ける配下のために、その悪行の証拠を巧妙に握り潰し、己の口を拭
う──。
あの元冢宰はよくやる、尚隆は思う。
道を知る麦州侯や太宰を排し、今や金波宮に敵なしの状態だろう。冢宰を兼ねる宰輔景麒の深い溜息を思い出し、尚隆は苦笑する。
──さて、陽子はどう出るか。
報告によると、襲撃者は拓峰に逃げたらしい。それを追って拓峰に行っているだろうか。まずは固継に寄って調べてみよう。そう思い、尚隆は固継の傍の閑地に騎獣を下ろし、街道脇の林に放す。里に高価な騎獣を連れて行くわけにはいかない。
そして尚隆は固継の門を潜り、真っ直ぐ里家に向かった。里家はしんと静まりかえっていた。尚隆は通りを行く者に声をかける。
「──遠甫を訪ねてきたのだが」
「遠甫はいないよ」
「いない?」
首を傾げる尚隆に、里人は数日前に起きた里家襲撃の事件を語った。そして、詳しくは里宰に訊くように、と言って去っていった。尚隆は里府に向かう。
遠甫を訪ねてきた、という尚隆に、里宰は事件について言葉少なに語った。里家が襲われて娘が一人殺害され、子供と閭胥が行方不明となったこと。以前里家を襲った妖魔を退治した娘がそのとき留守にしていたこと。その娘が、自分の留守中に起こった悲惨な事件に心を痛め、閭胥を捜しに拓峰に出向いたことを。
こんな小さな里でこんな酷いことが続くとは、と里宰は嘆く。そんな里宰を慰め、尚隆は里府を辞した。やはり、陽子は閭胥を捜しに拓峰に向かったのだ。
固継に降りた初日に妖魔に襲われ、今度は襲撃者が現れる。
うまくできている、まるで里に降りた王を試すかのように。
漠然とそう考えた尚隆は、軽く首を振る。そんなことは偶然にすぎないのに。しかしその考えは、尚隆の心の奥底にしこりのように残った。
閑地に戻り、高く指笛を鳴らす。騶虞が林から駆けてきた。尚隆は騎獣に飛び乗り、拓峰へと向かった。
合水を越え、拓峰へ向かいながら、尚隆は伴侶に思いを馳せた。己の留守中に起きた酷い事件に、陽子はどれだけ心を痛めただろう。あの娘がいれば襲撃者を阻止しただろうに、と里宰は溜息をついた。陽子自身が一番強くそう思っただろう。尚隆には想像に難くない。
無茶をしなければよいが。
尚隆は拓峰の門を潜り、街の東に騎獣を預けられる舎館を取った。拓峰で「殊恩」を名乗る郎党が蜂起したのは、その翌日未明のことだった。
* * * 42 * * *
赤楽二年二月初頭未明、止水郷郷長である昇紘の自宅の一つが襲撃された。二十人あまりの民が周囲の道から火を投げこみ、墻壁を越えて邸内に斬りこんだが、肝心の昇紘は不在だった。
邸内の小臣と斬り結んだのち、犯人たちは邸内に「殊恩」の文字を残し、開門されたばかりの午門を突破して逃走した。師士がこれを追撃したが、半数以上が追撃を逃れて瑛州へ向けて逃亡していった。
昇紘は氏名を籍恩という。「殊恩」とは昇紘を誅する意味だとて、郷長は激怒した。
昇紘の邸宅が襲われ
た──。
その騒ぎは凄まじいものだった。たかが二十名の襲撃者、その半数以上を仕留め損ねたことが残忍な郷長を烈火のごとく怒らせた。
面白いところに来合わせたものだ、と尚隆は笑みを浮かべる。この虐げられた街にも、気骨のある者がいるということだ。未明の事件は瞬く間に街じゅうに知れ渡った。外に出ようとする尚隆を、舎館の主人が慌てて止める。
「──昇紘のやることだ、外に出たら命の保障はできないよ」
昇紘は襲撃に激怒して師士二百を割いて逃亡した犯人を追わせた。更に周辺の郷領から師士五百を呼び戻して警備にあたらせるよう命じたそうだ。
「悪いことは言わないから、じっとしてな」
「──人捜しに来たものでな。外に出なければ捜しようがない」
何があっても知らない、と嘆息する主人に軽く笑みを見せると尚隆は外に出た。昼日中だというのに、拓峰の民は家に籠もり、息を潜めている。殺気立った師士たちが闊歩する街中を歩く者はほとんどいない。
たかだか二十人で止水の豺虎を襲撃するとは命知らずな奴らだ。
昇紘を守る小臣だけでも五百人はいるというのに。舎館の中で街の者がひそひそと話をしていた。確かにそうかもしれない。しかし、目指す郷長がいない邸宅をわざわざ狙うだろうか。いくらなんでも郷長の居所くらい調べてから襲撃するだろう。
尚隆は襲撃を受けた昇紘の邸宅を見にいった。内環途にあるその屋敷は、郷長風情が住むには豪勢過ぎる造りをしていた。しかも驚くほど墻壁が高い。
──民を虐げる豺虎に相応しい住処だ。尚隆は薄く笑い、郷城に向かった。郷城は固く門を閉ざしている。招集がかかった師士はまだ到着した様子がない。
拓峰に逗留する兵は三旅千五百。昇紘の護衛五百、更に郷師が千。少し調べればそのくらいすぐ分かる。連中が何人いるか知らないが、まともに挑めば敵う数ではない。しかし、わざわざ「殊恩」と名乗るくらいだ。これで終わるわけではあるまい。次は何処で何をするつもりだろう。仕掛けるならば、周辺から呼び集めている師士が到着する前。
──恐らく、今夜。
尚隆の予想通り、その夜、郷城内の義倉が襲撃された。昇紘の周囲を固めていた師士と拓峰駐留の州師が到着するまでの僅かの間にそれは起きた。犯人は義倉に火を放った。義倉は辛うじて大火に至らず消火されたものの、犯人はまたも「殊恩」の文字を残して瑛州に向けて逃走した。午門を突破した襲撃者の数は三十。またもその半数以上が追撃を逃れて州境を越えた。
今度は義倉に三十。「殊恩」を名乗りながら、まだも昇紘本人を襲撃しない。連中はよっぽど人数が少ないらしい。狙いは敵兵の分散。そうだとすれば、次は、師士の配備が終わるまでは動くまい。尚隆はそう推理する。
二度に渡る襲撃は明らかに徒党を組んでの反逆。昇紘は再び義倉の襲撃があると踏んで州師及び師士を義倉周辺に配備させた。そして州境と街道に更に三百の師士を配置したが、二日の間ぴたりと襲撃はなかった。昇紘がやや気を緩めかけた三日目早朝、今度は拓峰東の閑地にある昇紘の別宅が襲撃を受けた。その数、今度は百人あまり。義倉の周囲に展開した州師、師士が昇紘宅に到着すると、屋敷の内外で膠着状態に陥ったのだった。
最初の襲撃に二十、次に三十、そして今度は
百──。「殊恩」の連中はなかなかやる、尚隆はにやりと笑う。昇紘はこれが叛乱民の全てと思いこみ、郷城の全兵力を閑地の屋敷の向かわせることだろう。「殊恩」は警備が手薄になった郷城を襲う。
州師二旅、師士の半数が屋敷を包囲し、州師一旅が街道封鎖に向かった。更に郷城の師士五百と護衛五百の半数が屋敷に配置された。残兵二百となった郷城の正門が数百の叛乱民に襲撃されたのはその夜のことだった。
2006.02.24.
お待たせいたしました、長編「黎明」連載第14回でございます。
今回は、語りたがってた人に語ってもらいました。
──かなり硬い話を、何やら楽しげに語ってくれました。
ラスト・スパートに向けて頑張りますので、もうしばらくお付き合いくださいませ。
2006.02.24. 速世未生 記