* * * 44 * * *
「殊恩」蜂起三日目早朝、拓峰東の閑地にある昇紘の別宅が襲撃された。初日の二件の襲撃後、二日間が何事もなく過ぎていた。昇紘が気を緩めかけたときに受けた襲撃であった。
陽子は百人の仲間とともに閑地の別宅に攻めこんだ。大門を守る兵はほんの僅か。夕暉の目論見どおり、昇紘の目は郷城の義倉に向けられている。「殊恩」はあっさりと大門を突破し、屋敷の中に入りこんだ。
敷地内に入ってしまえば堅固な墻壁と眺望のよい楼閣が守ってくれる。人少なな屋敷の中はすぐに制圧できた。これから陽が落ちるまで立て籠って州師を引きつける。じきに義倉の周囲に展開していた州師、師士が到着し、戦いは膠着状態に陥った。
「暮れたな──」
陽子は剣の露を払って楼門越しに空を見上げた。陽が落ちたとき、虎嘯たちは郷城に攻め入ることになっている。陽子はこちらが落ち着き次第、郷城に向かうつもりでいた。
周囲の義民百にはまだほとんど欠けた者はいない。昇紘自身が作った堅固な墻壁と眺望のよい楼閣に守られて。
「陽が落ちた。……連中、墻壁を越えてくるぞ。主楼へ後退しろ。主楼の連中と合流して布陣しなおす」
陽子の言葉に男たちは黙して頷いた。義民たちは油断なく周囲に向かって視線を走らせながら、主楼のほうへ退っていく。最後尾で後退しながら陽子は呟く。
「班渠、あとはお前たちに任せる」
「やはり宮城にお戻りになって、王師を動かされたほうが」
「……景麒にできないことが、私にできると思うか?」
お飾りの女王には、権威がない。
今回それを思い知らされた。現在冢宰を兼ねる宰輔景麒でさえ官を動かすことはできなかった。しかも、金波宮に戻れば、恐らくもう外に出ることはできないだろう。
「肝は括った。他に手がない。
──夜陰に乗じてできるだけ敵の数を減らせ」
「よろしいのでございますか」
念押しする班渠の声はどこか心配そうだった。見透かされている。陽子は僅かに苦笑した。使令に任せるということは、向かってくる者を殺すこと。国主景王が慶の民を殺せと命じているのだ。
「──私が許す」
景王陽子は揺るぎなくそう命じた。その声に応じて使令たちの気配が消えた。
昇紘の別宅を包囲しているのは州師二旅千、師士五百。暗闇の中高い墻壁を越えてくる敵兵は混乱していた。篝火を焚いても、辺りにはそこここに闇が残る。その闇の中に、何かがいる。
もはや、目の前の主楼に立て籠った敵は問題ではなかった。暗がりの中から聞こえる悲鳴。慌てて駆けつけると、倒れ伏した仲間がいる。ほとんどは手足に深手を負い、哀れな呻きを上げている。
その多くは獣の咬み傷、そして傷つけてきたものの姿は見えない。
──闇の中で味方が立てる足音までが怖い状況だった。
そんな中、郷城が襲撃されたと伝令が駆けてきた。郷城に戻れ、と安堵したような怒声が飛んだ。勢いこんで閑地を駆け抜け、拓峰の門に雪崩れこむ兵の数は、半数以下に減っていた。
その様子を主楼から眺め、陽子は薄く笑む。使令たちは敵兵の士気を根こそぎ奪った。しかも、班渠は陽子の本心を察し、師士たちに止めを刺していない。手を怪我して武器を持てず、足をやられて歩けない敵兵が、そこここで呻き声を上げていた。
「──ここは任せた。私は郷城に行く」
「任せとけ!」
陽子の言葉に、有利を確信した仲間が陽気に応えた。陽子はそんな人々に笑みを返し、主楼を後にした。
「──班渠」
園林に降り立った陽子は低く呟く。夜陰に紛れて微かな応えがあった。
「郷城に行く。中門がもう閉じているはずだ。悪いが連れて行ってくれ」
「御意」
姿を現した班渠に跨り、陽子は閑地を駆け抜ける。仲間たちが気持ちを抑えきれずに殺してしまう前に、郷城に行き、昇紘を追い詰める。遠甫の行方を吐かせなければならない。班渠は軽々と拓峰の隔壁を飛び越え、郷城の城壁をも飛び越えた。
* * * 45 * * *
郷城内の目立たぬところで班渠は止まる。その背から降りた陽子は小さく囁く。
「──ありがとう、班渠」
「礼には及びません」
「いや、そうじゃなく……。よく殺すのを最小限に抑えてくれた……」
「それも礼には及びません」
笑い含みにそう言うと、班渠は陽子の足許に消え、気配を消した。陽子は苦笑する。それから前を向いて表情を引き締めた。郷府の奥に向かって陽子は走る。その最深部に昇紘の官邸があるはずだった。
駆けつける者があって、逃げ出す者がいる。かちあった敵と切り結びながら、陽子は奥へ奥へと進んだ。やがて、鈴と夕暉を背に乗せて跳躍する三騅を見つけた。
三騅が着地しようとした場所には師士が二人、斧を構えて待っていた。抜刀した陽子が師士の一人を倒すと同時に、三騅が鋭く嘶き、もう一人の師士を蹴り倒した。
「──陽子!」
「……助けて……くれたの」
夕暉が叫び、鈴が泣きそうな声を上げた。陽子は半分だけ、と笑みを見せる。
「──あちらは」
夕暉の声は切迫している。陽子は、かなり有利になったから後を任せて抜け出してきた、と低く笑う。半信半疑の夕暉に、陽子は快活に答えた。
「駆けつけて来る州師は多分、半分には減ったと思う」
夕暉は初めて安堵の表情を見せた。それから目を上げ、昇紘を、と陽子を促す。陽子は頷き、また走り出した。
陽子は虎嘯と合流し、郷府の最奥を目指した。虎嘯が大刀を一振りするごとに、辺りに凄惨な音が響く。すごい、と思わず呟いた陽子を、虎嘯は笑って振り返る。
「お前もやはり、只者じゃない」
「そんなに大したことじゃない」
「……小娘のくせに、人殺しに慣れてるな」
「まあね」
走廊を駆け抜けながらも虎嘯の呼吸は確かだった。陽子は虎嘯の言葉に苦笑する。小娘の姿に、大層な太刀。陽子は確かに只者には見えないだろう。
そして脳裏に声なき声がする。班渠が、と。密かに戻った班渠に、陽子は行け、と命じる。少しでも敵を排除しておけ、と。使令の気配はまた消えた。
郷長の居殿になる楼閣は、どういうわけかすでに血の海だった。戸惑う人々をよそに、陽子はあっさりと死体を跨ぎ越す。虎嘯は困惑した様子で骸に視線を投げ、扉の脇に身を潜める。駆けつけた人々の声が絶えた。
虎嘯が大刀の一撃をくれる。厚い木の扉が歪み、駆け寄った人々の二撃三撃で大きく裂けた。虎嘯がいしづきで突きざま蹴りを入れて、それで扉が中に倒れた。
その建物中は人の気配がしなかった。あちこちの扉を開き、窪みを確かめながら人々は奥へと進む。そして、豪奢な臥室の、榻の下に潜りこもうとしている昇紘を見つけたのだった。
それは常軌を逸して太った男だった。肉の中に埋もれた小動物のような目が、怯えたように虎嘯を見上げた。昇紘だな、と断じる虎嘯に、違う、と男は高い声で叫ぶ。
「違う。私は昇紘じゃない」
「拓峰に、お前を見間違えるやつなどおらん」
房室に雪崩れこんだ人々がその男を取り巻く。誰もが怨みに満ちた目を男に注ぐ。陽子は鈴が胸に手をあて、怨詛の籠もった激しい視線を男に投げるのを見た。
「──鈴」
低く呼びかけると、鈴は振り向いた。見開かれたその目は潤んでいた。陽子は首を横に振り、軽くその腕を叩く。そのまま凍りついたように佇む人々を抜けていった。虎嘯の背中をも叩いて、その男の間近に膝をつく。
昇紘だな、と陽子は問うた。違う、と怯える男に、陽子は重ねて問う。遠甫はどこか、と。遠甫の命があればとりあえず殺さない、と陽子は断じた。男の目がおどおどとさまよう。陽子は剣を抜きつつ脅しをかける。あえて死にたいのなら止めない、と。
本当だな、と怯えながらも問う男に、陽子は約束する、と答え、虎嘯を見上げる。虎嘯は迷うように昇紘と陽子を見比べ、瞑目して息を吐いた。
「そういう約束だった。
──お前に任せる」
陽子は小さく頷き、昇紘に膝詰めた。怯えた昇紘は、陽子の尋問に包み隠さず全てを語った。遠甫を殺せと命じたのは和州侯呀峰だということ。理由は松塾の生き残りだからということ。殺そうとしたが死ななかったため、明郭に送ったことを。
陽子は背後を振り返った。昇紘を見下ろす人々の、このうえもなく複雑そうな顔。恨みは分かるが堪えてくれ、と陽子は人々に頼む。昇紘を殺してしまえば呀峰を逃がすことになるだろう。それでは意味がないのだ。
陽子の声に、深く息をついた者がいた。それを合図に房室を罵声が震わせる。罵る声と、嗚咽を堪える声と。再び沈黙が戻ると、人垣が崩れていく。人々は悄然と肩を落とし房室を出ていく。その後ろで、虎嘯がいきなり大刀のいしづきで床を鳴らした。
「──州師が来るぞ! 気を抜くんじゃねえ!」
その一言で人々に覇気が戻る。それぞれが昇紘に一瞥をくれ、人々は昂然と顔を上げて駆け出す。
「あんたは、拓峰で子供を殺した。
──あたしはそれを、絶対に忘れないわ」
抑えた声でそう言う鈴の肩を、陽子はそっと抱いた。
2006.03.03.