黎 明 (16)
* * * 46 * * *
天がもしも本当に存在するのなら、天は王を試すのだろうか──。
景王陽子が下界に降りた初日に起きた妖魔の襲撃。そして、身を寄せた里家がまた心なき者に襲われる。攫われた閭胥を助けようと訪れた街で起きた叛乱──。次から次へと、まるで王を試すかのように続く、数々の出来事。
しかもその叛乱は、新王の後見人ともいうべき隣国の王が訪れた途端に起きた。偶然に過ぎない、そう思いつつも、延王尚隆は考えずにはいられない。
叛乱民の襲撃が止んでいた二日間、尚隆は拓峰の街を歩き回った。人捜しをしていた赤髪の娘のことを、街人はよく覚えていた。物珍しい紅の髪を持った端正な顔立ちの娘は目立つ存在だったろう。しかし、その足取りはあるときから突然途絶える。そして起きた叛乱。そればかりは偶然とは思えなかった。
──景王陽子は、この叛乱に加担している。
延王尚隆は、そんな確信を持っていた。
「殊恩」の連中が起こした二十人での最初の襲撃、三十人での次の襲撃。二日の沈黙の後に、警備をおびき寄せる百人での閑地の攻撃。激怒した昇紘は、ほとんどの兵を閑地の屋敷に向かわせた。郷城は、がらあきとなった。
「殊恩」は尚隆の読みどおりに動いた。では、次こそ、全勢力を投じて郷城の昇紘を襲うだろう。尚隆は郷城が見えるところに腰を落ち着ける。
そして日没。僅か二百の兵が守る郷城が襲撃された。いきなり現れた数百の叛乱民は手薄になった門を突破し、郷城に雪崩れこんだ。手に手に武器を携え、武装した叛乱民たちに、郷城は呆気なく陥落した。
郷城襲撃の報せを受け、急ぎ戻った師士たちは愕然とする。叛乱民に落とされた郷城の城壁に次々に吊るされる同胞の骸。それを見て、先に襲撃された閑地の屋敷から戻った兵たちは戦意を失った。城壁の内側は既に静まり返っている。郷府には堅牢な門があり、城壁は厚く高い。しかも、この厚い守りを突破しても、もう守るべきものがないことを、彼らは知っていた。
郷城の四門の前に、師士は陣を張る。城内から逃げ出す叛乱民を見張りつつ、明郭からの援軍を待つ構えだった。そこまでを見届け、尚隆は舎館に戻る。
郷城が落ちたらしい、止水の豺虎は退治された──。
拓峰の街中に密かな囁きが広がった。尚隆が泊まっている舎館にもその報せは届いていた。日没頃の、怒涛のような騒乱が止んでいるのだ。
恐る恐る偵察に出た者が戻り、話を聞かせた。人々は肩を寄せ、ひっそりと話しあっている。誰もが怯えた様子だった。圧政から解放された、と喜ぶ者は、いない。
さて、「殊恩」の連中はどう出るか。
異様なまでに静まり返った街を見やり、尚隆は考える。「殊恩」がこれだけ鼓舞したにもかかわらず、虐げられた街人は立ち上がらない。圧倒的に少ない人数での叛乱には、拓峰の民の蜂起を頼る気持ちがあったであろうに。このままでは、郷城に立てこもった連中は袋の鼠だ。
郷城の門前に布陣した州師は明らかに夜明けを待っている。夜が明ければ攻撃もしやすい。そして、明郭から援軍が来るだろう。
昇紘と呀峰の癒着は深い。昇紘は呀峰のために汚い仕事を引き受けている。乱が長引いて国が出てきたら、呀峰は困るはずだ。捕まった昇紘が喚問されれば、呀峰も一蓮托生なのだから。
となれば、明郭からは大軍が押し寄せる。たかだか三千の兵を分散させて叩かなければならない連中には勝ち目がない。拓峰の民が動かないのなら、夜明け前に逃げ出さなければ、「殊恩」は確実に全滅だろう。
連中の退路は、と尚隆は考えを巡らせる。最初に襲撃した者たちは川向こうの瑛州に逃走した。昇紘は、瑛州との境には州師一旅と師士約五百を布陣させている。東からは明郭の州師が向かってくるところ。北の山を越えれば建州の州師に一網打尽にされるだろう。
どう考えても逃げ場がない。たとえ止水の豺虎を討ち取っていたとしても、「殊恩」の負けは明らかだった。このままでは連中は嬲り殺しにされてしまう。
──王は、その虐殺に耐えられるのだろうか。誰よりも清廉な、景王陽子は。郷城で戦っているであろう伴侶を思い、尚隆は瞑目する。
天命ある限り、王は斃れない。
そして、冬器で身体を分断されない限り、王が死ぬことはない。己の命が喪われることはないのに、力なき民が次々に斃れていく。景王陽子は、それを己が目で見つめなければならない。泣くことを許されぬ王は、己の無力さをただ受けとめなければならない。
天は王を試すのか。だとすれば、試されているのは景王陽子だけではない。
──延王尚隆もまた試されているのだ。伴侶のためにできることは、もう何もない。
景王が慶の国内で起きた出来事を己が手で解決しようとしているのだ。たとえ、ここで天命尽きて、陽子が斃れることになったとしても、手を貸すことは赦されない。
それを承知の上で、ただ見届けるためだけに、ここまでやってきたのだから。
尚隆は目を開け、郷城のほうを見やる。見上げた空はかなり白んできていた。
誰もが眠らなかった拓峰の夜が明ける。空から無数の羽音が聞こえてきたのは、その頃だった。
* * * 47 * * *
「殊恩」は郷長昇紘を捕らえ、拘束した。郷城は「殊恩」の手に落ちたのだ。
郷城内のほとんどの師士は倒れるか、または投降した。残っている官吏たちは速やかに投降し、それらの人間はまとめて建物に押しこめられる。その場に残された師士の骸が城壁の外に吊るされていく。
あちこちから駆けつけた城外の州師も退り、四門の前に布陣した。そして、拓峰の街は気味が悪いほど静まり返っていた。城外に街の民を説得する者たちを残した。しかし、虐げられてきた人々を立ち上がらせることはできなかったのだ。
郷城の東、青龍門上の箭楼の側にある歩墻の上で、「殊恩」の者たちは立ち尽くす。どうする、と虎嘯が問う。逃げよう、と夕暉は返した。しんと沈黙がその場に落ちる。虎嘯は大きく息を吐いた。
瑛州との州境には州師が配備されたまま、東からは明郭の州師が近付いている。故に、逃走経路は北のみ。残った者は怪我人を含めて約七百。計画を立てた夕暉も、実際に指揮を取った虎嘯も、ここまで生き残るとは、と驚くほどよく残った。陽子は心の中で使令に感謝する。使令がいなければ、ここまで粘ることはできなかっただろう。
しかし、「殊恩」は負けたのだ。
市民の支援を得られなかったのだから。これから、郷城を逃げ出し、敗走していかなければならない。人々は悄然と首を垂れた。その中で、虎嘯はいち早く顔を上げ、よし、と声を出す。
「どうやら拓峰の連中は腑抜けだったようだが。ここに腑抜けじゃねえ人間がこれくらいいる。つまりは、俺たちが止水の腑抜けでない人間全部だったってことだ。
──まあ、よくも全部集めたもんだ」
笑みを浮かべて語る虎嘯につられて、気落ちしたふうの人垣から、笑いが起こった。もう一暴れして逃げ出すぞ、と虎嘯は続ける。よし、と気迫が人々の間に戻る。
たいしたものだ、と陽子はまた笑みを見せる。一言で士気を立て直す虎嘯はすごい。軍にいたら良い首長になっただろう。
そんなとき、頭上に羽音が聞こえたのだった。陽子ははっと頭を上げた。まさ
か──。
明るくなりかけた空に、黒々とした影が見えた。その、巨大な翼。陽子は愕然とする。まさか、郷城での乱如きに空行師が出てくるとは。たちまち標槍が鋭く落とされる。予想外の攻撃に、多数の者が血を流して斃れた。
「箭楼に入れ!」
虎嘯の声に、弾かれたように人々は箭楼の扉に走る。歩墻の上は瞬く間に阿鼻叫喚に包まれた。州師の中でも精鋭を誇る空行師は、狙いを違わず標槍を突き立てる。雨あられと降りそそぐ矢と標槍に、叛乱民は次々と斃れていった。
陽子は空を見上げ、歯噛みする。空を飛ぶ騎獣を打ち落とす術がない。こんなに明るくなってからでは、使令に命じることもできない。鈴の三騅すら、もう標槍にやられてしまった。
すぐ背後の箭楼の上から矢が放たれ始めた。実際弓矢以外に空の上の敵に対抗する方法がない。陽子は虎嘯たちとともに箭楼に駆けこみ、正門の三層、最上階に駆け上がった。
状況は圧倒的に不利だった。敵はこちらの矢ぶすまをかいくぐっては反転して攻撃を仕掛ける。明らかに矢が尽きるのを待つ構えだ。矢が尽きた途端、空行師は戦棚を立て回した女墻の上に降り立ってくるだろう。
空行師の動きは速く、矢が当たらない。しかも、その数は約十五。そして、矢が尽きた、と悲痛な声が上がる。弩と弓を使え、と叫ぶ虎嘯を呼ぶ悲鳴が聞こえた。振り返ると、後方の女墻に立て回した戦棚が吹き飛ぶところだった。木っ端を散らして空いた穴の外に、赤銅色の馬が一騎ある。
乗りこませるな、と虎嘯が叫んだ。攻撃が表に集中していたので、背後への注意を怠った。この場を制圧されたら終わりだ。射撃が絶えるのを、空行師は待っている。
騎獣の背には二人の人影、そのうちの一人が槍を携えて飛び降りた。そのまま女墻を越えて乗りこんでくる。陽子は抜刀して駆け出した。そのときだった。
「──夕暉、陽子、待って!」
鈴が叫んだ。鈴は吉量を操る若い娘に、祥瓊、と呼びかけた。鈴の声に気づいた娘は吉量の馬首を巡らせた。鈴、と警戒の声を上げる虎嘯を鈴は押しとどめる。
祥瓊は敵じゃない、と。
鈴は戦棚の破れ目に駆け寄る。陽子は抜刀したままその後ろに走り寄った。吉量の騎手は鈴に親しげに呼びかける。どうしてここに、と問う鈴に、少女は真っ直ぐ右を指した。
示された方角は東。青龍門が見え、その向こうには広途が真っ直ぐに延びている。青龍門の前に布陣した州師に迫る大勢の人の群れ。その数に陽子は目を見張る。
吉量から飛び降りた男が、やんわりと笑んで鈴に話しかける。名は
桓魋、祥瓊の仲間だと言えば分かるか、と。
鈴は東を見る。陽子も、そして虎嘯も東を見やった。そして桓魋を振り返る。あれはあんたの仲間か、と問う虎嘯に、桓魋は破顔した。
「州師より先に着いたぞ、褒めてくれ」
虎嘯は目を見開く。そんな虎嘯に、桓魋はにやりと笑みを向けた。
「総勢で、五千いる」
その声に、生き残った人々は歓声を上げた。
* * * 48 * * *
明郭からやってきた援軍を「殊恩」は郷城に受け入れた。その五千もの人々が堂々と入城してくる様を、陽子は歩墻の上から眺めていた。
危機一髪だった。
明郭で呀峰を狙っている人々が援軍を出してくれなければ、このまま全滅していただろう。拓峰の民を立ち上がらせることができなかったのだから。しかし、これで終わりではない。遅くても明後日には明郭から州師が到着する。
「──怪我がなくてよかった」
少女の声がして、鈴が振り返った。陽子はその声の主を認めて目を見張る。
紺青の髪と印象的な紫紺の瞳を持つその人物は、明郭で刑吏に石を投げたあの少女だった。
陽子を紹介しようとした鈴は、同じく驚いているその少女を見て首を傾げた。知り合いなの、と問う鈴に、陽子は頷き、少女は口を開いた。鈴に短く事情を説明し、陽子に礼を述べる。陽子は祥瓊と紹介された少女に笑みを向ける。あの後、無事に逃げ切ったのだ、という安堵の笑みだった。祥瓊も陽子に笑みを返し、鈴の横に並んだ。
三人は肩を並べて歩墻の下を見る。城内は活気があふれているが、街のほうは森閑としていた。広途を行き交う人々の影もない。思い出したようにぽつりぽつりと人が通っては、小走りに途を横切っていくだけ。
城門は閉じているものの、人は頻繁に出入りしている。なのに様子を見に来る市民の姿さえない。遠目に見える広途を横切る者たちも、横目で見て見ぬふりをしていた。
これだけ虐げられていたのに、何故、解放を喜ばないのだろう。
陽子は不思議に思う。そんなとき、鈴が口を開いた。
「……みんな、次に何が起こるか、固唾を呑んでるんだと思うな」
呟くようなその言葉に、祥瓊は首を傾げて問いかける。鈴はそんな街人の気持ちが分かる、と続けた。鈴と祥瓊の会話を、陽子は黙って聞いていた。
何かを我慢していると、我慢していないことが怖くなる。我慢を止めると、もっと悪いことが起こるような気になるのだ。しかし、我慢しているからといって辛いことがなくなるわけではない。内に閉じこもり、自分はなんて不幸なのだろうと自分を慰める。そして、大切な人を亡くすまで、目を背けた事実に気づかないのだ。
そう語って目を伏せる鈴に、まるで不幸比べをしているようだ、と祥瓊は笑った。自分を哀れみ、他人を怨み、本当にしなければいけないことから逃げてしまうのだ、と。
それは違うと諭されると、腹が立ってしまう。こんなに不幸な私をこれ以上責めるのかと怨んでしまう。鈴と祥瓊はそう言って笑いあっていた。
二人の話を聞きながら、陽子は己を思い返す。諫言を繰り返す景麒に腹を立てなかったか。ではどうすればいいのだ、と癇癪をぶつけなかったか。答えを言わずに溜息をつく景麒を怨みはしなかったか。
(言うべきことは申し上げた。あとは主上がお考えになられませ)
景麒は淡々とそう言った。その言葉を冷淡と感じ、途方にくれた。考えても分からないのだ、と拗ねたりもした。今思うと、景麒のいう通りなのかもしれない。
考えることを臣に任せていなかったか。
だから、昇紘や呀峰のような豺虎をのさばらせ、人望厚い麦州侯を罷免してしまったのだ。声を上げることもできぬほど虐げられた民がいる。しなくてもよい我慢を強いられた人がいる。街に降りて、そんな現実に打ちのめされた。
「ごめんなさい、つまらなかった?」
祥瓊に話しかけられて、一人考えに沈んでいた陽子は我に返った。いや、と短く応えを返し、目を上げずに続ける。みんな、同じところに嵌まりこむんだな、と。そうね、と祥瓊は微笑んだ。陽子は淡々と続けた。
「人が幸せになることは、簡単なことだけど、難しい。そういう気がする」
それを聞いて、鈴が声を上げる。生きるってことは、嬉しいこと半分、辛いこと半分のものなのだ、と。確かにそうね、と祥瓊が頷く。それなのに、半分の辛いことに目がいってしまう。嬉しいことを否定してしまう。
そして、鈴も祥瓊も口を噤む。陽子は二人とぼんやり風に吹かれた。やがて鈴が吹っ切るように明るく声を上げた。城壁を一周して見張りに行こう、と。
嵐の前の静けさ。束の間の安らぎ。
明日になればまた沢山の人が死ぬのね、と歩墻を歩きながら鈴が零した。ちゃんと景王に届くといいわね、と祥瓊が受けた。陽子は目を見開き、足を止める。祥瓊が笑って説明する。
謀反が成功するなど、誰も信じていないのだ。
桓魋たちは呀峰をどうにかしようと思っているわけでない。たとえ呀峰を討ったとしても、首謀者は処罰されてしまう。虐げられた過酷な現実を、ただ景王に知ってもらいたい、ただそれだけを願っているのだ。
鈴も笑って同意した。そして、景王に会いに慶に来たのだ、と告白した。祥瓊も、そうなのだ、と頷く。陽子は何故、と目を見張る。同じ年頃の女王だから、と二人は声を揃える。それだけで、と問う陽子に、二人は笑って長い旅の話をする。
楽俊の友達ならば、景王はいい人なのだと思う、祥瓊はそう話を締めくくった。懐かしい親友の名前を聞いて、陽子は胸が熱くなった。楽俊の友達に嘘をつくことはできない。陽子は鈴と祥瓊を真っ直ぐに見つめ、ゆっくりと言った。
私が景王だ、と。
2006.03.10.
お待たせいたしました、長編「黎明」連載第16回でございます。
──慶国三人娘が一堂に会しました。感無量でございます。
これからどんどん妄想率が高まってまいります。
何卒よろしく最後までお付き合いくださいませ。
2006.03.10. 速世未生 記