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不気味に聞こえる無数の羽音に、尚隆は目を上げる。白みかけた拓峰の空に黒々とした影が見えた。その巨大な翼。空行師が現れたのだ。
尚隆は外に飛び出し、目測した。空飛ぶ騎獣を駆る空行師、その数、約十五。騎兵一騎は歩兵八人に相当し、空行騎兵一騎は騎兵二十数騎に匹敵する。
和州侯呀峰は形振り構わないらしい。空行師は州師の中でも精鋭揃い。空から来られたら、叛乱民などひとたまりもない。こう明るくては、陽子は使令に命じることもできないだろう。
──これから虐殺が始まる。内乱平定という名の殺戮が、とうとう始まる。
陽子、と尚隆は呟いた。お前のその輝かしい瞳は、いったい何を映すのだろう。偽王軍と戦ったとき、己の民の命を絶ち、その痛みに独りで泣いていた清麗な女王。王でありながらその権を揮えぬ今、状況は悲惨を極めるだろう。
郷城の上を飛び交う空行師は矢や標槍を雨あられと浴びせる。一瞬にして郷城は阿鼻叫喚の巷と化した。叛乱民は必死に弩や矢を射掛けて応戦したが、それは儚い抵抗だった。四門の前に詰めていた残存州師が歓声を上げた。郷城が州師の手に落ちるのは、時間の問題のように見えた。
東の方角からざわめきが聞こえる。明郭から、州師の援軍が到着したのだろうか。しかし、現れた新たな軍勢は、四門に布陣していた州師を蹴散らした。見上げると、空行師と戦う新手の空行騎兵の姿があった。不意を突かれた空行師はその数を半分以下に減らして撤退していった。郷城の中に「殊恩」の歓声が満ちた。
尚隆は大きく息をつく。現れた数千の軍勢は郷城に迎え入れられた。この新手の援軍が何者の差し金かは分からない。しかし、彼らは明郭からやってくるはずの州師よりも早く到着し、「殊恩」を救った。和州の豺虎に抵抗する者は、拓峰の他にもいるのだ。
景王陽子、お前の民は捨てたものではない。
朝廷に巣食う狡猾な官吏だけがお前の民ではない。この乱を仕掛けた者、そして援軍を出した者。酷吏を拒否する彼らは、恐らく景王たるお前の志を汲む者となるだろう。お前は決して独りではないのだ。己の真実を己で掴め。そして、己の臣を己で選べ。
お前になら、できるはず。
これで終わりではないことを、延王尚隆は知っている。一両日中には明郭から州師の援軍が到着するだろう。休めるうちに休むがよい。尚隆は笑みを浮かべる。
束の間の平和が訪れた。現れた軍勢は明郭の義民だと噂が流れた。立ち上がって「殊恩」とともに戦おう、と声を上げる者がいる。しかし、拓峰の街人は不安げに郷城を見守るだけ。郷城に赴こうとする者は、いない。
そして、その夜。寝静まる街に激しい太鼓の音が響いた。立ち上る煙、木のはぜる音、そして異様な熱気。業を煮やした州師は、とうとう街に火をつけた。和州侯呀峰は、拓峰ごと、昇紘もろとも「殊恩」を焼き殺すつもりなのだ。街じゅうが火に包まれようとしていた。
豺虎め、ここまでするとは。
尚隆は舎館に泊まる連中を起こして回る。郷城へ向かえ、と呼ばわりながら。そのまま厩に向かい、己の騎獣を連れ出した。このまま逃げるのは簡単だ。しかし、ここで民を見捨てるなど、人として許されることではない。
尚隆は六太に向けた走り書きの手紙を筒に入れ、
騶虞の首に括りつけた。戻れ、と言って放すと、騶虞はくおんと鳴いて空へと舞い上がった。尚隆は踵を返し、街の火を消しに走る。
拓峰の街は今や大混乱だった。あちこちに火の手が上がり、逃げ惑う人々が溢れていた。その中で、馬に乗って市民を誘導する「殊恩」の者たちの姿が、数多く見られた。
「火を消して! 逃げるなら酉門へ!」
しかし、そう呼びかけて回る者を狙う州師の伏兵も大勢いた。混乱に乗じて侵入した州師が、街のあちらこちらで「殊恩」と戦っていた。しかし、堅牢な郷城を出て民を守ろうとした「殊恩」と拓峰市民は一体になりつつあった。
弱い者を先に逃がした街人は、必死に火を消して回る。勇気を鼓舞した者は、郷城や広途の守りを引き受けていた。無論、逃げ出した者も多数いる。しかし、「殊恩」は郷城西の白虎門から酉門までの途を確保していた。十二門の箭楼にも、門扉の上の隔壁にも幾多の人影がある。
拓峰の東の山地に陽が昇った。拓峰の街はまだくすぶっていたが、もう火の手は見えなかった。街を取り巻いていた州師は頑強な抵抗にあって後退した。その上、報せが届く。
本日未明、明郭に乱あり、と。
なるほど、と尚隆は薄く笑む。明郭からの援軍は、いわば囮だったのか、と。拓峰で乱が起きれば明郭から州師が派遣される。その拓峰の乱を援護して戦を長引かせ、がら空きになった明郭を襲うとは。明郭の奴はなかなか頭が切れる。州師が強行軍で明郭に戻ったとしても、もう決着はついているだろう。
尚隆は腰を上げる。そろそろ、こっそり郷城へ行ってみようか。州師が退った今、郷城は活発に市民が出入りしている。目立たぬようにしていれば問題あるまい。
郷城に向かう途中、街全体にざわめきが広がっていた。州師を退けたというのに、援軍が到着した、と。しかも。
西から新たに現れた軍勢が押し立てるのは龍旗。軍旗の色は、紫。間違えようもない。それは、堯天にいるはずの王師。王を守るはずの禁軍だった。
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「──西に、龍旗が──!」
拓峰の街の隅に立つ角楼の上から緊張した声が飛んだ。「殊恩」は酉門を守り、州師を街の外に後退させた。明郭に乱あり、との報せを受け、布陣した州師は浮き足立っている。明郭の連中のために、三日粘る。そう勢いづいていたところに入った驚愕の報せだった。
虎嘯と
桓魋が血相を変え、先を争って角楼に駆け上っていく。陽子は信じられぬ思いを抱き、角楼の上から自らの目でそれを確かめた。押し立てられた龍旗、そして紫の軍旗。それは景王陽子を守るはずの禁軍だった。
それを確かめた虎嘯と桓魋が駆け下りてきて、歩墻に向かった。代わりに鈴と祥瓊が角楼に駆け上ってきた。本当に禁軍なの、と叫ぶ鈴に、陽子は蒼白な顔で頷く。何故、と訊かれても、分からない、と答える他に仕様がなかった。州師を制圧しに来たわけではなかろう。それならば、景麒から何か連絡があるはずだ。
悄然と俯く陽子に、傍らに立った祥瓊が冷静に声をかける。堯天の禁軍を動かせる位置に呀峰の味方がいるのではないか、と。陽子は祥瓊を振り返る。祥瓊は更に訊ねる。大司馬はどういう人物か、と。
陽子は考えを巡らせ、目を見開く。朝廷には派閥があった。夏官はどの派閥だったか。大司馬の独断では軍は動かない。
動かせるとしたら、官の中に厳然たる権力を持つ者。
「──靖共……」
元冢宰、靖共。朝廷の最大派閥の長。
それだわ、と頷く祥瓊に、鈴がちょっと待ってよ、と戸惑いを見せる。何故冢宰が呀峰のために王師を動かすのか。景王陽子はここにいるというのに。
それは尤もな問いだった。祥瓊がそれに答える。呀峰が昇紘を使っていたように、冢宰が呀峰を使っていたのだ、と。祥瓊の言葉に、陽子は再び目を見開く。靖共は呀峰を憎んでいたはず。しかし、祥瓊は鋭く問うた。憎んで何かしたのか、と。陽子は思わず息を呑む。
呀峰は酷吏だと断言しつつ、証拠がない、と靖共は言ってはいなかったか。
祥瓊は畳みかける。憎んだ振りなど簡単にできる。汚い仕事をやらせるのだから。王を蔑ろにして禁軍を動かすような連中はそれくらいするだろう。もしかして、麦州侯更迭を主張したのもその一派ではないか。
陽子は朝議を思い返した。靖共は頑強に麦州侯罷免を求めていた。道を知る者など邪魔なだけなのだ、と祥瓊は断言する。
それを聞いて鈴が心許なげに言う。遠甫を誘拐したのも、松塾を焼討ちしたのも、その冢宰の命令ではないか、と。陽子は昇紘の言葉を思い出した。
呀峰の命で遠甫を襲い、呀峰の命で遠甫を明郭に送った、と言わなかったか。
和州侯が他州の義塾に目くじらを立てるわけがない。道を知る松塾出身者が麦州の選挙を受けて国府に入るのを冢宰は疎んじた。恐らくそういうことなのだ。祥瓊の分析に、陽子は息を吐いて目を細めた。
「祥瓊は鋭いな……」
「宮中のものの考え方はよく分かるの。無駄に三十年も宮中にいたわけじゃないのね、って我ながら感心してるわ」
屈託なく笑う祥瓊に、陽子はまったくだ、と苦笑を返す。鈴がどうするの、と袖を引く。州師にさえあんなにてこずったのに、禁軍に立ち向かえるとは思えない。
陽子は眉を顰める。州師の空行師は十五。禁軍は、三軍全部が出てくれば三卒三百。その他にも騎獣を持った兵士が相当数いる。陽子の説明に、鈴はそんな、と絶句する。しかし、陽子は翠の瞳に勁い色を浮かべて言った。
「……私に無断で勝手なことはさせない」
陽子が紅の炎を纏ったように見えて、鈴と祥瓊は思わず息を呑む。これが、王の威厳というものなのだろうか。陽子は低い声で使令を呼んだ。
「──班渠」
「ここに」
陽子の足許からくぐもった声が聞こえ、鈴と祥瓊は肩を寄せ合った。景王陽子はそんな二人に構わず班渠に命を下す。
「話は聞いたな。全ては靖共の仕業だ。景麒に伝えよ。至急、ここに参れ、と」
「──御意」
班渠の気配が消えた。鈴と祥瓊は、今のは何、と聞くこともできずに黙して陽子を見つめる。静かに怒りを燃やす、慶東国国主景王その人の姿を。
2006.03.16.