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黎 明 (18)

* * *  52  * * *

 和州止水郷郷都拓峰にて、叛乱民蜂起──。

 その報せは慶東国首都堯天の金波宮にも届けられた。国主景王が隣国雁に遊学していない、この時期に起きた内乱。官吏は眉を顰めた。
 そして、和州州師が拓峰の叛乱を治めに出立した後、今度は州都明郭にて乱が勃発した。内乱に誘発され、更に内乱が続く。和州侯呀峰からは、禁軍の出陣要請が出された。

 しかし、禁軍を動かしうる肝心の王が、現在玉座にいない。

 緊急時なのだから王の裁可なくとも禁軍を出すべきだ、と叫ぶ者があった。そして、王の私軍を王の許可なく出すのは言語道断、と異を唱える者があった。そもそもそんな内乱が何故起こったのか調査をすべきだ、と声を上げる者があった。王も宰輔も出席しない朝議は、当然のことながら紛糾に紛糾を重ねる。
 宰輔景麒は未だ朝議を欠席している。留学中の景王を訪ねて雁に行ったはずの宰輔が、転変して王宮に戻った。しかも、その背には瀕死の子供が乗せられていたという。血を厭う麒麟の背に、血を流している者が乗せられていたのだ。
 その後、宰輔は一度出席した朝議で、止水郷長更迭を求めた。王の勅命である、と御名御璽を押印された書簡を提示したのだ。未だ姿を見せぬ王の勅命に、官は皆仰天しその命を拒んだ。勅命を拒まれた宰輔は、更に瑛州師を動かそうとした。そしてその直後に起きた、止水郷都拓峰の叛乱。宰輔は、何かを隠している。そんな囁きが、金波宮内に広がり始めていた。

 新王が即位したというのに、なかなか国が落ち着かない。

 それは王が玉座を離れたせいだ、そんな声が官の中で囁かれていた。王はいつ戻ってくるのだ、もう戻らないつもりなのか。下界で起きた内乱により、王宮内にも不安の声がざわざわと満ちる。

 それを承知の上で、宰輔景麒は朝議出席を避けていた。景麒の姿を見れば、官吏は必ず説明を求めるだろう。太宰靖共は景麒に不審の目を向けている。靖共に知られるわけにはいかない。

 拓峰の内乱に、雁に留学したはずの国主景王が加担していることを。

 拓峰の内乱が起きる前は、景麒は使令を差し向け、朝議の内容を把握していた。しかし、孤立無援の主のために、動かせる使令を全て拓峰に派遣した。今ここにいるのは景麒の身を常に守る芥瑚だけだ。情報を耳に入れるのが遅くなることは否めなかった。
 そんな中で、瘍医から桂桂の容態が峠を越えた、との連絡が入った。緊張を強いられる毎日の中で耳にしたこの明るい報せに景麒の心は和んだ。拓峰から報せが来たのはそんなときだった。

 現れた班渠の酷い血の臭いに、景麒は顔を顰める。しかし、そんなことに構っている余裕はない。班渠の報告は切羽詰ったものだった。
「台輔、拓峰に禁軍が二軍現れました」
「なんだと」
 驚愕に景麒は声を荒げる。拓峰で内乱が起きてから、禁軍を派遣するかどうかで朝議は揉めていた。しかし、禁軍は王の私軍である。王が玉座にいない今、禁軍を動かすことはできない。そういう意見が大勢を占めていたはずだった。しかも、王は拓峰にいるのだ。
 王の留守中に、王師が勝手に動くなど、非常識すぎる。いったい誰がそんなことを許したというのだ。

 この国の王権は、どこまで貶められていくのか──。

 景麒の身体が怒りで震えた。
「台輔、どうやら太宰靖共が密かに禁軍を動かしたらしいのです。主上が台輔に、至急拓峰に参れ、と」
「──主上はご無事か」
 主はいつも無理をする。それに、班渠のこの血の臭い。それは拓峰の激しい戦いを如実に物語っている。
「はい、今のところは。しかし、禁軍が姿を見せ、拓峰市民は動揺しております。主上は、このままでは内乱の首謀者が嬲り殺しになりかねない、と」
 景麒は班渠の言葉に主の強い意志を感じた。己の私軍であるはずの禁軍を見たときの主の驚きが如何ほどか想像に難くない。王を守る役目を持つ王師が王の意に逆らい民を攻撃するなど、主が許すはずもない。主は今こそ王の権を揮おうとしている。そして、そのために宰輔景麒を必要としている。

「──至急拓峰に参る」

 班渠の言葉を聞き終わるとともに、景麒は転変した。この世で最も速い脚を持つ麒麟は空を駆け抜ける。主の待つ拓峰の街へと。

* * *  53  * * *

 拓峰の街を取り囲んだ禁軍の旗は、市民を激しく動揺させた。そんな様子をつぶさに見た延王尚隆は、無理もない、と呟く。州師とはわけが違う。市民にとって龍旗は王そのものであり、国そのものを背負っている。

 ──王師が討伐に来た。

 街に絶望の声が流れる。例え投降したとしても、厳しい処罰があるだろう。もしかしたら一人として許されないかもしれない。街の人々は浮き足立つ。
 やはり王は昇紘を保護していたのだ、という声があった。昇紘に反旗を翻すなど間違っていたのか、という不安の声があった。

 いずれにしても、「殊恩」は逆賊となったのだ。

 ──王師を見た市民がそんな反応を示すのは当然のことだった。
 一軍が揃い、更に後続、二軍目の旗が見えて、拓峰市民は門扉に殺到する。王師に投降するのだ、と。郷長昇紘に睨まれてさえ、あれほど悲惨な目に合ってきた。それが、国に、王に逆らったのなら、いったいどんな目に合うか分かったものではない。

 恐慌に包まれた拓峰の街を見やり、延王尚隆は溜息をつく。

 堯天の豺虎め、大胆なことをする。

 王に無断で王師を動かすなど、とことん性根が腐っている。朝廷を牛耳る狡猾な奸臣は、なんと思い上がっているのだろう。ここまで王を軽んじ、王権を侵すなど。景麒はいったい何をしているのだろう。今や冢宰を兼ねる宰輔にすら、この非常識な王師の出陣を止められぬとは。

 ──陽子、正当な女王たるお前が、これほどまでに蔑ろにされるとは。

 お前はその細い身に、ここまで荒んでしまった国を背負っているのか。紅の光を纏う鮮烈な己の伴侶を思い、尚隆は瞑目する。

 「殊恩」は、そして陽子はどうするのだろう。

 尚隆は目を上げる。街を取り巻く禁軍は、威嚇に過ぎない。王の裁可なしに動いた王師は、攻撃を仕掛けることはないだろう。陽子はそれに気づくだろうか。今、陽子の周りにいる連中で、そこまで考えつく者がいるのだろうか。
 「殊恩」の動向を知りたい。そう考え、尚隆は郷城に向かう。郷城の正門が見えた、そのとき。

「鈴、祥瓊、虎嘯たちを頼む。なんとか時間を稼いでくれ。私は午門へ向かう」
「分かったわ」
「やってみる」

 朱雀門の前で声をかけあう三人の娘がいた。その内の二人が郷城に駆けこんでいった。そして、今一人、広途を午門に向けて駆けていく娘。
 尚隆は見た。紅の髪を靡かせて走り去る、華奢な娘を。郷城正門から南の午門へ向かって駆ける、景王陽子の姿を。陽子、と呼びかけそうになり、尚隆は咄嗟に気配を殺す。ここで陽子に気づかれるわけにはいかないのだ。
 尚隆は小さくなっていくその後ろ姿をじっと見つめた。そして口許に微笑を浮かべる。陽子は仲間に時間を稼いでくれと言っていた。そして南の午門へ向かった。それは、景麒のいる金波宮の方角。

 景王陽子は乱を治める手を打っている。

 延王尚隆はそう確信した。王師は威嚇だと気づき、景麒が来るまで王師に屈せぬよう仲間に頼んだ。

 陽子、この戦乱の中で、お前は信頼できる仲間を見つけたのだな。背後を任せることができる仲間を。

 尚隆は踵を返し、郷城に向かう。今や、郷城には恐慌した市民が殺到していた。皆、口々に「殊恩」の首謀者を詰っている。謀反に参加したつもりはない、余計なことをしてくれた、と。門を開けよ、と求める者もいた。しかし、門を開ければ全てが終わる。王師は、「殊恩」が投降するのを待っているのだから。
 やがて、街の代表と名乗る連中が現れ、街人の解放を要求した。「殊恩」の指導者らしき大男は悄然と息を吐く。それを叱咤したのは、先ほど陽子と一緒にいた娘たちだった。

 王は敵ではない。

 娘たちは声を揃えてそう告げる。王は止水郷長昇紘、和州侯呀峰、元冢宰靖共という三匹の豺虎を一気に捕らえるつもりだと。更に、景王を知っていると言う娘たちに、周囲の男たちは嘘をつくなと詰め寄った。小娘が王に面識を得るわけがない、と。
 しかし、紺青の髪を持つ娘が揺るぎない声を上げる。我は先の峯王が公主である、一国の公主が景王と面識あるはおかしいか、と。街の代表の連中はもちろん、「殊恩」の連中までが呆気に取られていた。誰もが信じられない、と首を振る。そのとき、黒髪の娘が駄目押しをした。
 御名御璽が押印された旅券を示した娘は高らかに語る。才国采王のお達しにより慶国景王を訪ねた者である、と。呆然としていた男たちは今度こそ絶句した。男たちを黙らせた娘たちは晴れやかに笑う。

 景王を信じてお待ち、と。

 街の連中は納得して去っていった。

 郷城正門の箭楼の上でのやり取りを見守っていた尚隆は笑みを浮かべる。陽子の仲間の娘たちは、なかなか見事にその場を収めた。恐らく、先の峯王の公主と名乗った娘が陽子に助言したのだろう。公主であれば、宮廷事情に詳しいはず。
 街に漂った剣呑な気配は薄れつつあった。街の代表を名乗った連中の話が広がったのだろう。しかし、街を包む緊張感は変わらない。王を信じて待つ、というよりは、動くことを恐れている、そんな感じがしていた。
 尚隆は郷城を出て午門に向かう。景王陽子がこの場をどう治めるか、己の目で確かめよう。そして、街がざわめく。人々は空を見上げ、愕然とする。舞い降りてくるその雌黄の毛並み、金の鬣を持つ優美な獣の姿を認めて。

* * *  54  * * *

 そこには紅蓮の炎を纏う鮮烈な女王が立っていた。

 確かな威厳を持つ国主景王は、姿を現さぬ下僕に厳然と命を下す。至急拓峰に参れと景麒に伝えよ、と。御意と短く応えを返し、姿を見せぬ下僕の気配が消える。
 陽子は普段の様子に戻り、祥瓊に目を向ける。元公主である祥瓊の分析は的確だ。陽子は祥瓊の助言を必要としていた。

「驚かせて済まない。今、使令に景麒を呼びに行かせた。祥瓊、王師はどうするつもりだと思う?」
 その威厳に呑まれ絶句していた祥瓊は、景王陽子に問われ、はっと我に返る。それは隣に立つ鈴も同様だった。
「──恐らく王師は威嚇だと思うわ。王の裁可なしに出征させたんだから」
 考えながら、祥瓊は続ける。靖共が大きな力を持てば持つほど反発もあるものだ、と。朝廷は靖共派と反靖共派に二分されている。勝手に禁軍を出して反靖共派が黙っているはずはない。威圧させただけなら乱を鎮圧したとて誤魔化せる。しかし、戦わせてしまったら言い訳のしようがない。

 禁軍は王の私物なのだから。

 なるほど、と陽子は頷く。王師が攻めてこないのなら、なんとかなる。景麒が来るまでの間、時間を稼ぐことができれば。短気を起こして門を開けさえしなければ。王がここにいると知らぬ禁軍は、叛乱民が威圧に負けて勝手に投降してくるのを待っているのだから。

「私は午門で景麒を待つ。鈴と祥瓊は、虎嘯や桓魋かんたいが門を開けないよう、時間を稼いでくれないか」
 勁い目を向ける陽子に、鈴と祥瓊は力強く頷く。三人は角楼を降り、郷城に走った。郷城の正門前で陽子は後事を任せ、二人と別れた。そのまま広途を午門に向けて駆ける。
 陽子は午門の箭楼の上から閑地を見渡した。閑地の向こうの丘陵地、陣を張った軍勢の数は増えている。王師は動いていないが、州師には明らかに動きがあった。
 しかし、陽子が見守っているものは敵ではない。じりじりと陽が中天を越えていく。待ちかねたものを蒼穹に見つけて、陽子は目を見開く。
 歩墻に立つ人々は愕然と空を仰いでいた。あれは、と声を上げ、どよめく人々を陽子は押しのけるように走る。

「──景麒!」

 空から舞い降りてくる、雌黄の毛並みを持つ獣。歩墻の上に降り立つ麒麟に、陽子は真っ直ぐ駆け寄った。
「来てくれたか……!」
「こんなところにお呼びになるか。──しかもひどい死臭がなさる」
景麒は憮然とした声を上げる。陽子は相変わらずのその反応に苦笑する。
「……悪い」
 そう答えた陽子に、景麒は更に諫言を続ける。心配するなと仰ってその有様か、と。しかし、景麒のその諫言を聞いている暇はなかった。
「苦情はあとでいくらでも聞く。王師の陣まで連れていってくれ」
「私に騎獣の真似事をせよと?」
 景麒は更に憮然とする。確かに、神獣麒麟の背に乗せよなど、いくら主といえど無礼な命であろう。
「言わせてもらうが、禁軍を出したのは、お前の責任だぞ」
 陽子は景麒に勁い目を向ける。

 瑛州師を出せなかったというのに、禁軍が勝手に出てくるとは。

 今や冢宰を兼ねる宰輔がそれを阻止できないなど。景麒は一度陽子の目を見て、ふいと視線を逸らした。
「景麒、少しだけ辛抱してくれ」
 戦場に置くべき相手ではないと重々分かっている。陽子を乗せるのは苦痛だろう。あれほどの返り血を浴びた後では。しかし、陽子はこの戦を止めなければならない。

 麒麟を従える、正当なる王として。

「……いたしましょう」
 己の姿の意味を知る景麒は厳かに答える。見事に優美な首が閑地に向かって返される。陽子はその背に飛び乗った。
 陽子、と高い声がした。見下ろした広途で手を挙げる祥瓊と鈴を認める。笑みを返す間もなく景麒は飛翔を始める。そしてその刹那、景麒の密かな声がした。
「あの子供、──命を取り留めました」
 そうか、と陽子は笑みを浮かべる。そして、蘭玉、と心で呟いた。

 陽子は疾走する麒麟の背で、王師に向けて勁い目を注ぐ。王の意に背く禁軍に、怒りの炎を燃やしながら。

2006.0324.
 大変お待たせいたしました、長編「黎明」連載第18回をお届けいたします。
 クライマックス寸前ですね。それ故に、なかなか苦しみました……。 そして、とうとう原稿用紙300枚突破。ああ、いったいどこまで……。 もうしばらくお付き合いくださいませ。

2006.03.24. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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