* * * 53 * * *
拓峰の街を取り囲んだ禁軍の旗は、市民を激しく動揺させた。そんな様子をつぶさに見た延王尚隆は、無理もない、と呟く。州師とはわけが違う。市民にとって龍旗は王そのものであり、国そのものを背負っている。
──王師が討伐に来た。
街に絶望の声が流れる。例え投降したとしても、厳しい処罰があるだろう。もしかしたら一人として許されないかもしれない。街の人々は浮き足立つ。
やはり王は昇紘を保護していたのだ、という声があった。昇紘に反旗を翻すなど間違っていたのか、という不安の声があった。
いずれにしても、「殊恩」は逆賊となったのだ。
──王師を見た市民がそんな反応を示すのは当然のことだった。
一軍が揃い、更に後続、二軍目の旗が見えて、拓峰市民は門扉に殺到する。王師に投降するのだ、と。郷長昇紘に睨まれてさえ、あれほど悲惨な目に合ってきた。それが、国に、王に逆らったのなら、いったいどんな目に合うか分かったものではない。
恐慌に包まれた拓峰の街を見やり、延王尚隆は溜息をつく。
堯天の豺虎め、大胆なことをする。
王に無断で王師を動かすなど、とことん性根が腐っている。朝廷を牛耳る狡猾な奸臣は、なんと思い上がっているのだろう。ここまで王を軽んじ、王権を侵すなど。景麒はいったい何をしているのだろう。今や冢宰を兼ねる宰輔にすら、この非常識な王師の出陣を止められぬとは。
──陽子、正当な女王たるお前が、これほどまでに蔑ろにされるとは。
お前はその細い身に、ここまで荒んでしまった国を背負っているのか。紅の光を纏う鮮烈な己の伴侶を思い、尚隆は瞑目する。
「殊恩」は、そして陽子はどうするのだろう。
尚隆は目を上げる。街を取り巻く禁軍は、威嚇に過ぎない。王の裁可なしに動いた王師は、攻撃を仕掛けることはないだろう。陽子はそれに気づくだろうか。今、陽子の周りにいる連中で、そこまで考えつく者がいるのだろうか。
「殊恩」の動向を知りたい。そう考え、尚隆は郷城に向かう。郷城の正門が見えた、そのとき。
「鈴、祥瓊、虎嘯たちを頼む。なんとか時間を稼いでくれ。私は午門へ向かう」
「分かったわ」
「やってみる」
朱雀門の前で声をかけあう三人の娘がいた。その内の二人が郷城に駆けこんでいった。そして、今一人、広途を午門に向けて駆けていく娘。
尚隆は見た。紅の髪を靡かせて走り去る、華奢な娘を。郷城正門から南の午門へ向かって駆ける、景王陽子の姿を。陽子、と呼びかけそうになり、尚隆は咄嗟に気配を殺す。ここで陽子に気づかれるわけにはいかないのだ。
尚隆は小さくなっていくその後ろ姿をじっと見つめた。そして口許に微笑を浮かべる。陽子は仲間に時間を稼いでくれと言っていた。そして南の午門へ向かった。それは、景麒のいる金波宮の方角。
景王陽子は乱を治める手を打っている。
延王尚隆はそう確信した。王師は威嚇だと気づき、景麒が来るまで王師に屈せぬよう仲間に頼んだ。
陽子、この戦乱の中で、お前は信頼できる仲間を見つけたのだな。背後を任せることができる仲間を。
尚隆は踵を返し、郷城に向かう。今や、郷城には恐慌した市民が殺到していた。皆、口々に「殊恩」の首謀者を詰っている。謀反に参加したつもりはない、余計なことをしてくれた、と。門を開けよ、と求める者もいた。しかし、門を開ければ全てが終わる。王師は、「殊恩」が投降するのを待っているのだから。
やがて、街の代表と名乗る連中が現れ、街人の解放を要求した。「殊恩」の指導者らしき大男は悄然と息を吐く。それを叱咤したのは、先ほど陽子と一緒にいた娘たちだった。
王は敵ではない。
娘たちは声を揃えてそう告げる。王は止水郷長昇紘、和州侯呀峰、元冢宰靖共という三匹の豺虎を一気に捕らえるつもりだと。更に、景王を知っていると言う娘たちに、周囲の男たちは嘘をつくなと詰め寄った。小娘が王に面識を得るわけがない、と。
しかし、紺青の髪を持つ娘が揺るぎない声を上げる。我は先の峯王が公主である、一国の公主が景王と面識あるはおかしいか、と。街の代表の連中はもちろん、「殊恩」の連中までが呆気に取られていた。誰もが信じられない、と首を振る。そのとき、黒髪の娘が駄目押しをした。
御名御璽が押印された旅券を示した娘は高らかに語る。才国采王のお達しにより慶国景王を訪ねた者である、と。呆然としていた男たちは今度こそ絶句した。男たちを黙らせた娘たちは晴れやかに笑う。
景王を信じてお待ち、と。
街の連中は納得して去っていった。
郷城正門の箭楼の上でのやり取りを見守っていた尚隆は笑みを浮かべる。陽子の仲間の娘たちは、なかなか見事にその場を収めた。恐らく、先の峯王の公主と名乗った娘が陽子に助言したのだろう。公主であれば、宮廷事情に詳しいはず。
街に漂った剣呑な気配は薄れつつあった。街の代表を名乗った連中の話が広がったのだろう。しかし、街を包む緊張感は変わらない。王を信じて待つ、というよりは、動くことを恐れている、そんな感じがしていた。
尚隆は郷城を出て午門に向かう。景王陽子がこの場をどう治めるか、己の目で確かめよう。そして、街がざわめく。人々は空を見上げ、愕然とする。舞い降りてくるその雌黄の毛並み、金の鬣を持つ優美な獣の姿を認めて。
* * * 54 * * *
そこには紅蓮の炎を纏う鮮烈な女王が立っていた。
確かな威厳を持つ国主景王は、姿を現さぬ下僕に厳然と命を下す。至急拓峰に参れと景麒に伝えよ、と。御意と短く応えを返し、姿を見せぬ下僕の気配が消える。
陽子は普段の様子に戻り、祥瓊に目を向ける。元公主である祥瓊の分析は的確だ。陽子は祥瓊の助言を必要としていた。
「驚かせて済まない。今、使令に景麒を呼びに行かせた。祥瓊、王師はどうするつもりだと思う?」
その威厳に呑まれ絶句していた祥瓊は、景王陽子に問われ、はっと我に返る。それは隣に立つ鈴も同様だった。
「──恐らく王師は威嚇だと思うわ。王の裁可なしに出征させたんだから」
考えながら、祥瓊は続ける。靖共が大きな力を持てば持つほど反発もあるものだ、と。朝廷は靖共派と反靖共派に二分されている。勝手に禁軍を出して反靖共派が黙っているはずはない。威圧させただけなら乱を鎮圧したとて誤魔化せる。しかし、戦わせてしまったら言い訳のしようがない。
禁軍は王の私物なのだから。
なるほど、と陽子は頷く。王師が攻めてこないのなら、なんとかなる。景麒が来るまでの間、時間を稼ぐことができれば。短気を起こして門を開けさえしなければ。王がここにいると知らぬ禁軍は、叛乱民が威圧に負けて勝手に投降してくるのを待っているのだから。
「私は午門で景麒を待つ。鈴と祥瓊は、虎嘯や
桓魋が門を開けないよう、時間を稼いでくれないか」
勁い目を向ける陽子に、鈴と祥瓊は力強く頷く。三人は角楼を降り、郷城に走った。郷城の正門前で陽子は後事を任せ、二人と別れた。そのまま広途を午門に向けて駆ける。
陽子は午門の箭楼の上から閑地を見渡した。閑地の向こうの丘陵地、陣を張った軍勢の数は増えている。王師は動いていないが、州師には明らかに動きがあった。
しかし、陽子が見守っているものは敵ではない。じりじりと陽が中天を越えていく。待ちかねたものを蒼穹に見つけて、陽子は目を見開く。
歩墻に立つ人々は愕然と空を仰いでいた。あれは、と声を上げ、どよめく人々を陽子は押しのけるように走る。
「──景麒!」
空から舞い降りてくる、雌黄の毛並みを持つ獣。歩墻の上に降り立つ麒麟に、陽子は真っ直ぐ駆け寄った。
「来てくれたか……!」
「こんなところにお呼びになるか。
──しかもひどい死臭がなさる」
景麒は憮然とした声を上げる。陽子は相変わらずのその反応に苦笑する。
「……悪い」
そう答えた陽子に、景麒は更に諫言を続ける。心配するなと仰ってその有様か、と。しかし、景麒のその諫言を聞いている暇はなかった。
「苦情はあとでいくらでも聞く。王師の陣まで連れていってくれ」
「私に騎獣の真似事をせよと?」
景麒は更に憮然とする。確かに、神獣麒麟の背に乗せよなど、いくら主といえど無礼な命であろう。
「言わせてもらうが、禁軍を出したのは、お前の責任だぞ」
陽子は景麒に勁い目を向ける。
瑛州師を出せなかったというのに、禁軍が勝手に出てくるとは。
今や冢宰を兼ねる宰輔がそれを阻止できないなど。景麒は一度陽子の目を見て、ふいと視線を逸らした。
「景麒、少しだけ辛抱してくれ」
戦場に置くべき相手ではないと重々分かっている。陽子を乗せるのは苦痛だろう。あれほどの返り血を浴びた後では。しかし、陽子はこの戦を止めなければならない。
麒麟を従える、正当なる王として。
「……いたしましょう」
己の姿の意味を知る景麒は厳かに答える。見事に優美な首が閑地に向かって返される。陽子はその背に飛び乗った。
陽子、と高い声がした。見下ろした広途で手を挙げる祥瓊と鈴を認める。笑みを返す間もなく景麒は飛翔を始める。そしてその刹那、景麒の密かな声がした。
「あの子供、
──命を取り留めました」
そうか、と陽子は笑みを浮かべる。そして、蘭玉、と心で呟いた。
陽子は疾走する麒麟の背で、王師に向けて勁い目を注ぐ。王の意に背く禁軍に、怒りの炎を燃やしながら。
2006.0324.