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黎 明 (19)

* * *  55  * * *

 景麒は一路空を駆ける。拓峰にて景麒を待つ主のために。

 戦が続く拓峰に近づけば近づくほど、死臭が強まる。拓峰の周りには怨詛の念が淀んでいるようだった。息が詰まりそうになりながらも、景麒は主を捜した。
 午門の箭楼に王気を感じた。歩墻に降り立つと、緋色の髪が駆けてくる。来てくれたか、と駆け寄る主は怪我もなく元気な様子だった。しかし、その辟易するような血の臭い。安堵に気が緩むとともに、景麒は主の顔を見るなり諫言した。

 こんなところにお呼びになるか、と。

 主は苦笑を隠さない。そして相変わらず悪びれもせずに、悪い、とのたまう。無茶はしない、心配するなと言っておいて主はいつもこんな無茶をするのだ。更に諫言する景麒の言を遮り、主は王師の陣へ連れて行けと命じる。

 これだけ心配させられた挙句、騎獣の真似事をせよ、とは。

 景麒は憮然とする。しかし、主は勁い瞳を景麒に向ける。禁軍を出したのはお前の責任だ、と。瑛州師を出せなかったというのに、何故禁軍が出てくるのだ。言外に含まれた言葉に、景麒は黙し、目を逸らす。朝議を欠席するうちに、奸臣が勝手に動いてしまったのだ。それについては言い訳のしようがない。
 いたしましょう、と一言応えを返し、景麒は主を背に乗せる。その際、景麒はそっと囁いた。一命を取り留めた子供のことを。主はそうか、と微笑んだ。

 そして、怒りに燃える女王を背に乗せ、景麒は空を駆ける。禁軍の龍旗の許へ。主の命なく王の軍を率いて現れた者の許へ。
 翻る龍旗の傍で景麒は宙に留まる。主は呆気に取られたように見上げている人物に鋭い視線を浴びせた。禁軍左将軍迅雷。即位式にも、郊祀にも景王陽子の身辺警護のため側近くに仕えた者だ。

 ──その禁軍左将軍が、主である景王ではなく、太宰靖共の命を聞くのか。

 民を守るためではなく、民を虐げるために出陣するのか。主はその怒りを隠すことなかった。
「──迅雷」
 強い口調で呼びかける主に、迅雷は怯んだように一歩退る。己の将の動揺は周りの兵卒にもすぐ伝わった。どよめきとともに兵も後退する。

「誰の許しを得て、拓峰に来たか」
「私は──」
「どこの王の宣下あってのことだ」

 必死の形相で言い訳しようとする迅雷に、主は凄まじい覇気で畳みかけた。怒りに満ちたその声はよく透り、固唾を呑んで見守る兵卒の許へも届いていた。
 緋色の髪はあたかも紅蓮の炎であるかのように靡き、その華奢な身体を大きく見せた。神獣麒麟に跨り、大音声で将軍を叱責するその姿は紛れもなく王。小娘と侮れるものではなかった。
「それとも禁軍の兵は将軍もろとも辞職して私軍になったか」
「……主上。私は──」
 主をその背に乗せた景麒は薄く笑む。真の王の威厳に、禁軍の師士たちは呑まれている。それは左将軍迅雷も同じだった。靖共の命でここまで来たに違いない。主がここにいるとは露知らず。しかもこの男は、まだ主に言い訳をしようとしている。

「お前たちの主はいつから靖共になった! 靖共のために拓峰を攻めると言うなら、禁軍全体を反軍とみなすがよいか!!」

 国主景王の大喝に、左将軍迅雷はなす術もなく立ち尽くす。己の目で真実を確かめた主に、甘言を弄しても無駄なこと。主が王なのだ。呆然と立ち竦む迅雷に、景麒は追い討ちをかけた。
「──何をしている」
 宰輔景麒はひたと左将軍迅雷を見つめる。そして、静かな声で叱責する。

「主上の御前にあって、なにゆえ許しもなく頭を上げるか」

 神獣麒麟の発する言葉に屈し、迅雷はとうとう膝をついた。そんな将軍に倣い、兵卒が次々と膝を折って叩頭していった。
「──迅雷、勅命をもって命ずる。禁軍を率いて明郭に赴き、和州侯呀峰を捕らえ、州城に捕らわれた遠甫という瑛州固継の閭胥を助けよ」
 主は景王として堂々と命を下す。厳然と響く国主景王の声に、左将軍迅雷は頭を地に摺りつける。
「畏まりまして」
「一軍を堯天に戻らせ、靖共の身柄を押さえろ。無事靖共、呀峰を捕らえ閭胥を救命すれば、今回のことは不問に処す。禁軍兵士も、和州州師もだ」
「確かに、承りました──!」

 正当なる国主景王の前に、左将軍迅雷は畏まって叩頭した。王の足許に、将軍を筆頭とし、王師二軍は等しく平伏する。宰輔景麒はそんな様子を誇らしげに見つめた。
 景麒、と主は微かな声で呼ぶ。主の意を汲み、景麒は拓峰午門に引き返す。主を背から降ろした景麒は恭しく頭を下げる。
「──お見事でございました、主上」
「今の今まで、私の勅命は効力をなさなかったんだぞ」
 苦笑を浮かべた主は小さく首を横に振る。景麒は温かい目で主を見つめた。

「──いいえ、主上こそがこの国の王です」

 そう断じる景麒に、主は翠玉の瞳を大きく見開く。そしてゆっくりと、主らしい鮮やかな笑みを浮かべた。

* * *  56  * * *

 蒼穹を滑るように駆けるものがあった。妖魔でも騎獣でもない獣。鹿に似た体躯に雌黄の毛並み、金の鬣の意味が分からぬ者は、この国にはいない。

 拓峰の人々は呆然と空を見上げる。神獣麒麟が蒼穹から舞い降りてきたのだ。歩墻にいた人々は驚愕し、おろおろと足踏みをする。
 そんな中で、臆せず優美な麒麟に駆け寄る者がいた。陽光に照り映える紅の髪がまばゆく輝く娘。歩墻の上にその姿を認め、延王尚隆は微笑する。拓峰の門は守られた。

 景麒は間に合ったのだ。

 やがて麒麟はその背に紅の髪の娘を乗せ、再び空に舞い上がる。陽子、と高い声が響いた。先ほど陽子とともにいた二人の娘が大きく手を振っている。その声が届いたかどうかは定かではなかった。麒麟は一路龍旗を目指して閑地に向かった。
 二人の娘はそのまま午門の歩墻を駆け上っていった。多くの者が麒麟の姿を求めて歩墻に上っていく。尚隆もその後に続いた。

 閑地の端に展開した軍勢は、軍旗に駆け寄る麒麟の姿に、明らかに動揺していた。龍旗の傍で宙に留まる麒麟を見上げる将軍は何を思ったろう。尚隆は薄く笑む。
 禁軍は王を守るために存在する。即位式、郊祀と大きな行事が続いた。禁軍将軍がその主たる景王を知らぬはずがない。

 慶東国は波乱の国。玉座に就いた王は在位短く次々に斃れ、奸臣が朝を恣にしていた。官の中には、前国主予王より前からいる者も多いという。そんな腐敗した朝に慣れ親しみ、権を揮う豺虎の命を甘んじて受けていたのだろう。
 将軍は大司馬に命ぜられれば、否とは言えない。しかも、朝廷を実質的に握る者の名をちらつかされれば尚のことだ。せっかく手にした将軍の地位をふいにしたくはないだろう。
 景王陽子を胎果の小娘と侮っていたに違いない。確かに金波宮にいたときはそうだった。陽子は官に萎縮し、本来の闊達さを失い、覇気がなかった。しかし市井に降り、自らの目で民の現実を確かめた陽子は、王の顔になっていった。
 里家を襲う妖魔と戦い、民を虐げる酷吏に憤る。そしてついには内乱を起こす民とともに蜂起し、剣戟を振るったのだ。豺虎に尾を振るような卑屈な者が、清廉な王に敵う道理もなかろう。

 紅の髪は鮮烈な炎の如く風に靡き、華奢な女王の身体を大きく見せる。そして、遠くから眺めても分かる、その有無を言わせぬ覇気。それは将軍に膝を折らせるには充分だった。
 王の許しなく禁軍を率いてやってきた将軍は、正当なる国主の前に頭を摺りつける。それを合図に王師二軍は全て景王陽子の前に平伏した。
 いったい何が起こるのか、と固唾を飲んで見つめていた歩墻の上の人々が一斉にどよめいた。拓峰の街を包囲していた禁軍が、麒麟に騎乗する娘に屈したのだ。神獣麒麟を従え、王師を率いる将軍を跪かせる人物は、この国にはただ一人しか存在しない。

「王だ──」

 誰かが呟いた。その呟きは次第に歩墻中に広がる。国主景王が拓峰の叛乱を治めに現れ、麒麟とともに禁軍を鎮めた。しかし、そのざわめきが歓声に替わることはなかった。

 信じられない──人々は動かない。いや、動けないのだ。

 短い間に次々と王が替わっていく。そして、領主が替わるたび、その機嫌を損ねないように頭を下げてきた。下手に動くことは、命を危険に晒すこと。長年の圧政は、民人をそんなふうに押さえつけてしまっていた。

 畢竟、虐げられた人々は、動くことを恐れている。

 息を潜め、身を縮め、目立たぬようひっそりと暮らしてきた哀れな人々。踏みつけられ、虐げられ、搾り取られても全てを甘受し続けてきた民。どんなに救いを求めても報われることがなく果てていく。救いを受けたことがない者は差しのべられた手を取ることができないのだ。
 神である王に賢治を望みながら、王による救済を信じられぬか。権を揮い続けた豺虎が民に施したものは、それが全てだったのか。延王尚隆は深い溜息をつく。
 陽子、お前が背負う国はここまで荒んでいる。お前の輝かしさをさえ、素直に受け入れることのできぬ国。

 お前はどうやってこの国を、民を救うのだろう。

 ──沈黙が支配する歩墻の上で、尚隆はそっと呟く。麒麟に跨り紅の光を放つ伴侶を見守りながら。

* * *  57  * * *

「こんなところに呼びつけて済まなかった。ありがとう、景麒」

 午門の隔壁に降り立った景王陽子は、神獣麒麟に晴れやかな笑みを見せる。景麒はその紫の瞳に穏やかな色を浮かべ、静かに頷く。そして、おもむろに問いかけた。
「──まだ宮城にお戻りにならないのですか」
「うん、もう少し。遠甫の無事を確認してからにしたい」
 景麒はそんな陽子の応えを予想していたようだった。もう一度ゆっくり頷く。
「──お早いお戻りを、お待ち申し上げております」
「分かった。桂桂をよろしく」
「承知いたしました」
 そして優美な獣は蒼穹に舞いあがる。その姿をしばし見送り、陽子は踵を返した。

 目を上げると、陽子を遠巻きにして人垣ができあがっていた。誰もがどう対応してよいか分からない、といった風情だった。その中に鈴と祥瓊を見つけ、陽子は笑みを向ける。
「──もう、大丈夫だ」
 緊張した面持ちの鈴と祥瓊は、やっと安堵の笑みを浮かべた。そして陽子の傍に駆け寄る。二人は口々に、本当に、王師は、と問うた。王師は明郭に向かわせる、絶対に呀峰を捕らえてもらう。力強くそう答えた陽子に、二人はよかった、と声を揃えた。
 しかし、他の人々はまだ呆然と立ち尽くしている。虎嘯と桓魋かんたいさえ、まだ硬直していた。その様子に陽子は苦笑を零す。鈴と祥瓊が話しかけて、ようやく大の男二人は緊張を解してみせた。そして。

「──主上」

 そう呼びかけ、真っ先に桓魋が膝をついた。それを見て周囲の者が慌てて膝をつく。陽子は少し眉根を寄せる。ずっと一緒に戦ってきた仲間も、やはりこうなるか。当然といえば当然の結果だが。
 その中で、虎嘯だけがぽかんと立ち尽くしていた。しっかり者の夕暉が声をかける。兄さん、ちゃんと叩頭して、と。しかし虎嘯は困惑するのみだった。大らかな虎嘯らしい。陽子は心和ませて、くつくつと笑った。

「そんなことをする必要はない。みんな、立ってくれないか」

 陽子を国主景王と認めた者たちは、それでも誰も顔を上げない。虎嘯だけが困ったような顔をして立っていた。
 陽子は構わず続ける。不甲斐ない王が民に心配をかけて済まなかった、と。そして陽子は虎嘯を見つめる。王がしなければいけなかったことをしてくれてありがとう。そう礼を述べる陽子に、虎嘯はますます困惑していた。
 軽く笑んで、陽子はぱらぱらと顔を上げる人々を見渡す。お礼がしたい、望みを言ってほしい。そう告げた陽子に、桓魋がはっとしたように、顔を上げた。
「……本当にお願いいたしても、よろしゅうございましょうか」
「──構わない」
 陽子は笑みを浮かべたまま頷く。では、と桓魋は両脇の二人に視線を投げて陽子を見上げた。改めて手を突き、叩頭する。

「──元麦州侯浩瀚さまの大逆の疑いをお晴らしになり、今一度の復廷をお許しください……!」

「浩瀚──。桓魋──お前、麦州の者か……」
 陽子は目を見開く。そんな陽子に桓魋は名乗りを上げる。己は元麦州州師将軍の青辛である、と。そして傍らの二人は師帥であった。真っ先に偽王軍に下って申し訳ないと詫びる二人も、揃って麦侯のために頭を下げた。

 なるほど、と陽子は納得する。桓魋は只者ではない、と思っていた。その戦いぶりも、知識も卓越していた。そして五千もの大軍を率いてやってきた男は、己のことよりもかつての上司の複廷を願う。従えた部下とともに。
 そうか、と感心した陽子はふと思いついたことを桓魋に訊ねてみた。和州に集まるように命じたのは浩瀚か、と。さようでございます、と桓魋は肯定した。陽子は再び納得する。
 民に慕われていたという麦州侯浩瀚。陽子は即位祝賀の際に一度会っているはずの浩瀚を覚えていない。しかし、その為人はなんとなく想像できた。桓魋のような者を従える人物なのだ。そんな麦侯を罷免した己の愚かさに、陽子は小さく息をつく。

「……桓魋から、浩瀚に礼を言ってほしい。こんな愚かな王でも仕えてくれる気があるのなら、ぜひ堯天を訪ねてほしいと」
 陽子は笑みを浮かべ、桓魋に応えを返す。桓魋は頭を上げ、一瞬陽子を仰いで、確かに承りました、と再び叩頭した。陽子は頷き、まだ困惑している虎嘯に歩み寄る。
「門を開けよう。……もう必要ない」
 ああ、と言って虎嘯は大きく破顔する。陽子は虎嘯を見上げ、望みはないのか、と訊ねてみた。虎嘯の望みをこそ叶えたい、と思う。本来であれば、王である陽子がしなければならないことをしてくれた虎嘯。酷吏昇紘の膝元で、諦めず投げず、道を正してくれたのだから。
 考えたことがなかった、と虎嘯は笑う。昇紘がちゃんと罰されればそれでいい、虎嘯はそう続けた。欲がないなと返し、陽子は微笑む。
 そんな陽子に、虎嘯は逆に訊ねる。俺は処罰されないのか、と。陽子は軽く吹き出し、何故、と問う。乱を起こしたから、と言う虎嘯に、陽子は苦笑する。虎嘯が処分されるなら、同じ刑を陽子も受けなけれならなくなる。そう告げると虎嘯は納得して、そりゃそうだと笑った。
 それから、虎嘯は思い出したように、陽子を見つめた。頼まれてほしい、と。何、と首を傾げる陽子に、虎嘯は口籠りながら言った。
「お前、偉いんだから、上のほうにも顔が利くんだろ。それを生かしてだな、瑛州の少学に夕暉を入れてやってくれないかなあ」
 傍らで二人を見守っていた鈴と祥瓊がとうとう吹き出した。陽子は呆れ顔をした。未だ陽子が王だと気づいていないとは。そして虎嘯らしい、とまた笑う。
「え? ──なんだ」
 そう言って困惑する虎嘯を、鈴がからかい、祥瓊が笑みを零す。呆れた夕暉が懇々と説明する。そんな様子が王の訪れに緊張していた人々の笑いを誘った。重い沈黙に支配されていた隔壁の上が、笑みで満たされていく。王の名の如く明るい、陽光の笑顔で。

2006.04.01.
 大変お待たせいたしました。長編「黎明」連載第19回でございます。
 とうとう件の場面までまいりました。感無量でございます。 ──収束に向けて、ここからがまた長いかもしれません。 何卒お見捨てにならずお付き合いくださいませ。

2006.04.01. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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