黎 明 (20)
* * * 58 * * *
拓峰午門に近い隔壁に、国主景王を乗せた神獣麒麟がふわりと舞い降りた。景王赤子の髪がその名のとおり紅に輝き、宰輔景麒の金の鬣がまばゆい光を放つ。その、この世のものとも思えぬ光景に、拓峰の民は息をするのも忘れて見入っていた。
麒麟の背から降りた景王は、血を厭う神獣に労りの言葉をかける。二言三言短く交わすと、優美な獣は再び舞いあがり、蒼穹に消えていった。その姿を見送り、景王はおもむろに振り返る。
遠巻きに囲んだ人垣は、誰も動かない。国主景王の思わぬ来訪に驚愕を隠せぬ人々は、ただ沈黙をもって王を迎えたのだった。
延王尚隆はその静まり返った人垣の後ろから景王陽子を見守った。景麒とともに王師二軍を退らせた陽子は晴れやかな笑みを見せた。その笑みに引かれ、若い娘二人が陽子に駆け寄る。紺青の髪と黒髪の娘。尚隆もまた笑みを浮かべる。それは郷城で街人を説得した例の娘たちだった。
三人の娘たちは和やかに談笑する。その様を、「殊恩」の指導者である大男が身を硬くして見つめている。それは大軍を率いてきた援軍の将も同じらしい。尚隆は軽く吹き出す。大の男が二人、呆然と立ち尽くす姿は、傍目には可笑しかった。
娘たちが笑みを浮かべて話しかけ、男たちはようやく緊張を解した。そして、そのうちの一人が、この場に最も相応しい反応をしてみせた。景王陽子に主上、と呼びかけ、膝をついたのである。
周囲の者は慌ててそれに倣い、膝をつく。陽子は不本意そうに少し顔を顰めた。その中で「殊恩」の指導者だけがぽかんと立ち尽くしている。頭を下げつつその様子を盗み見た尚隆は、喉の奥でくっと笑う。
「兄さん、ちゃんと叩頭して」
「いや、しかし……でも」
大男の弟が兄を諫めている。「殊恩」の指導者兄弟のやり取りに、眉根を寄せていた陽子がくつくつと笑った。そんな必要はない、立ってくれないか、と陽子は言った。誰も反応しない。それは無理もないことだ。王には叩頭し、礼を示す。それがこちらの常識なのだから。
陽子は構わず話を続けた。不甲斐ない王で済まない、と民に詫び、立ち尽くす「殊恩」の指導者に礼を述べる。ますます困惑する大男に、陽子は笑いかけた。それから、ぱらぱらと顔を上げた人々をゆっくりと見渡す。
「桓魋たちにも、心から感謝する。──お礼がしたい。望むことがあったら、言ってくれないか」
桓魋と呼ばれた者がはっと顔を上げた。本当によろしいか、と念押しした男は、改めて手を突き、叩頭した。そして、麦州侯の復廷を願ったのである。陽子は大きく目を見張った。
明郭で内乱を企てていたのは麦州侯だったのか。
なるほど、頭が切れるわけだ、と尚隆は納得する。堯天の奸臣に嫌がられるはずだ。豺虎に尾を振らず、道を貫こうとする者など、今の金波宮にはいられないだろう。だからこそ、新王の力となれる。
桓魋は名乗りを上げた。己は元麦州州師将軍の青辛だと。従えた部下とともに麦州侯の復廷を望む男に、陽子は感嘆の溜息を漏らした。
こんな愚かな王でも仕えてくれる気があるのなら、堯天を訪ねてほしい。そう告げて陽子は微笑んだ。桓魋は、確かに承りました、とまた頭を下げた。その言葉に軽く頷いた陽子は、再び「殊恩」の指導者を仰ぎ見る。
「虎嘯は望みがないのか?」
虎嘯と呼ばれた大男は、考えたことがなかった、と苦笑する。元州師将軍の桓魋と違い、「殊恩」の指導者虎嘯は生粋の市井の者らしい。欲がないなと笑う陽子に、俺は処分されないのかと訊ねる。それを聞いて、尚隆は笑いを堪えるのに苦労した。陽子は苦笑し、虎嘯が罰を受けるなら己も受けなければならない、と説明する。
そりゃそうだ、と納得した虎嘯は、思い出したように願いを言う。弟が瑛州の少学に入れるよう口を利いてくれ、と。陽子が王だとまだ気づいていないような虎嘯の口ぶりに、娘たちが笑い出す。陽子も呆れたような顔をし、苦笑した。
またもや困惑する虎嘯に、名前を出された弟が懇々と説明する。その様子が可笑しいと、「殊恩」の連中が笑い出す。そして、その笑いは王の訪れに緊張していた人々の心を解した。沈黙に支配されていた歩墻の上に、陽光の笑みが満ちてゆく。それは、拓峰の解放を祝う笑みでもあるのだと思い、延王尚隆は微笑した。
* * * 59 * * *
拓峰に巣食っていた豺虎は退治された。新王が街を救ってくれた。息を潜め、萎縮していた人々は、とうとうその顔を上げ、解放を喜び、王の訪れを寿いだ。
景王陽子は「殊恩」の人々とともに隔壁を降り、郷城に向けて歩きだした。その姿を認め、拓峰の街の者は駆け寄ってきては平伏する。
「──そんなこと、しなくてもいいよ」
胎果の陽子には、こちらのそんな常識は馴染めないものだった。しかし、眉根を寄せて直接言葉をかける王に、平伏した人々はますます畏まる。辟易した様子の陽子に、祥瓊が笑みを零す。
「──陽子、みんな、王の顔を見ることもしないのよ」
「そうだよ、王にこんな口を利くなんて、本来許されないことなんだ」
夕暉もそう言って苦笑した。「殊恩」の連中は、虎嘯が鷹揚な性質であったから、すぐに元に戻ってしまった。しかし道を知る夕暉は、少し抵抗があるようだった。桓魋ら元麦州軍の者たちは、完璧に態度が改まってしまった。主上、と呼び、膝をつく。
陽子は苦笑する。街の人々は復興のためにすることが山ほどあるというのに、これでは仕事が進まない。郷城から出ないほうがいいようだ。小さく溜息をつく陽子は、足許から聞こえる忍び笑いに気づいた。
「──笑うな、班渠」
「御意」
微かな応えとともに、使令の笑い声は途絶えた。陽子は再び苦笑した。
郷城に戻ってから、人々は忙しく働き始めた。戦に晒され、火までかけられた拓峰の街。しなければいけないことが山積みだった。鈴や祥瓊も貴重な女手として雑事に駆りだされた。陽子はひと気のない場所に向かい、使令に声をかけた。
「──班渠、驃騎、冗祐、みんな。ご苦労だった」
隠形していた使令たちが静かに姿を現し、陽子に礼を取った。この数多の者たちのお蔭で、陽子は拓峰の内乱を手伝うことができた。
「──本当に、ありがとう。お前たちのお蔭で酷吏に立ち向かうことができた」
「礼には及びません」
いつも陽子の側近く仕える班渠が代表して声を上げた。陽子は微笑して首を横に振る。激しい戦いだった。使令とて、不死身ではない。冬器で斬られれば怪我もするのだ。忘れてはいけないことだった。
「いや、心から礼を言う。
──班渠と冗祐を残して、金波宮に戻ってくれ。ゆっくり休んでほしい」
王の礼に、使令は恭しく頭を下げ、再び姿を消した。馴染んだ数多の気配が消えていく。ありがとう、陽子はそっと呟く。そのときだった。
不意に視線を感じた。そして気づく。懐かしい、際立つ気配に。
──そんなはずはない。こんなところにいるはずがない。
陽子は恐る恐る振り向いた。はたしてそのひとはそこにいた。驚愕に目を見開き、陽子は小さく呟いた。
「──うそ……」
「そんなに見開くと、目が落ちるぞ」
暢気な声でそう言ったのは、粗末な袍を着た延王尚隆そのひとだった。陽子は驚きすぎて動けなかった。
「──こんなところで何をしてるの」
「──何も」
尚隆はくすりと笑った。陽子は二の句が継げなかった。尚隆は立ち尽くす陽子にゆっくりと近づく。
「──よくやったな」
尚隆は陽子の頭に手を置き、そう言って笑った。何故、知ってるの。どこから見ていたの。訊きたいことは沢山あった。が、言葉にはならなかった。瞳に涙が滲むのを感じ、陽子は慌てて目を逸らした。気を緩めている場合ではないのだ。
明郭に向かわせた禁軍が遠甫を連れて戻ってくるのを待たねばならない。撒かれた血糊の中で息絶えていた蘭玉を思い出す。桂桂はなんとか一命を取り留めた。遠甫の無事を確認しなければ、拓峰に来た意味がないのだ。
「本当に、よくやった」
もう一度声をかけられた。見上げると尚隆は優しい眼をして陽子を見つめていた。陽子は二、三度瞬きをして涙を鎮めた。
隣国の偉大な王に労われ、景王陽子は晴れやかに笑みを返す。景王として踏み出した一歩を、どこかで見守ってくれていたひとに。
* * * 60 * * *
拓峰の街を取り囲む隔壁の上を、陽光のような笑みが包みこんでいく。「殊恩」の連中は歓声を上げ、虎嘯に向かって走る。腕を、背中を叩かれ、困惑していた虎嘯も破顔した。
「陽子、門を開けよう。そして、郷城に戻ろう」
虎嘯は普段の調子で景王陽子に声をかける。夕暉は嫌な顔をしていたが、周囲の者は頓着しなかった。当の陽子が嬉しげに頷いたからだ。
そんな陽子の様子を眺め、尚隆は笑みを浮かべる。金波宮で豪奢な衣装にくるまれていたときとは別人のようだ。己が何を知り、何を知らないかさえ知らず、萎縮していた姿は、もうない。簡素な男物の袍を纏う陽子は、仲間を得て光に包まれていた。
お前は豪華な衣装よりも、その身を包む鮮烈な紅の光のほうがよく似合う。
景王陽子を見守る延王尚隆は感慨深く呟く。
陽子は「殊恩」の者たちとともに歩墻を降り、拓峰の午門を開けた。そして、郷城へ戻っていく。戦乱に晒された痛々しい街の広途を見つめながら。多くの者がそれに従って歩いた。尚隆はその人々に紛れこみ、陽子の後を追った。
そろそろ陽子に声をかけてもよい頃だろう。
尚隆を見て驚く陽子の様を想像すると笑みが漏れる。尚隆は陽子の周りからひと気がなくなるのを待った。
郷城に戻った「殊恩」の連中は忙しく働き始める。常に陽子とともにいた二人の娘も駆り出されていった。陽子は一人で郷城の奥へと向かった。尚隆は気配を殺し、陽子に続く。
広い庭院につくと、陽子は足許に声をかけた。すると遁甲していた数多の使令が姿を現して王に礼を取る。使令を労い、礼を述べると陽子は微笑んだ。
王の身を守り、手足のように働く使令に、当たり前のように礼を述べるのが陽子らしい。尚隆は微笑する。使令たちが消えたとき、尚隆は己の気配を曝した。
陽子なら、これで充分分かるはず。
はたして陽子は振り返る。恐る恐る、といった風情は隠せない。尚隆の姿を認めた陽子は、予想通りの反応を示す。輝ける翠玉の瞳をいっぱいに見開き、陽子はうそ、と小さく呟く。したりとばかりに尚隆は人の悪い笑みを見せて揶揄する。
「そんなに見開くと、目が落ちるぞ」
「──こんなところで何をしてるの」
「──何も」
当然といえば当然の問いに、尚隆は微笑した。そして、驚愕のあまり動けないらしい陽子に、ゆっくりと歩み寄る。やっと声をかけることができる。ひとつの試練を乗り越えた伴侶を労うことができる。
「──よくやったな」
陽子の頭に手を置き、万感の思いを込めてそう言った。陽子は瞳に涙を滲ませた。よく頑張った伴侶を、このまま抱きしめてしまいたい気持ちに駆られた。しかし、まだ全てが終わったわけではない。それは慌てて目を逸らした陽子も分かっているようだった。
禁軍を明郭に派遣した。陽子が拓峰を訪った本来の目的は、まだ果たされていない。固継の閭胥遠甫の救出がまだなのだ。瞬きをして涙を我慢する伴侶は、誇らしげに顔を上げ、王の笑みを見せた。
「本当に、よくやった」
そう、お前はその小さな掌で、王の権威を掴み取った。お前の覇気は禁軍の将軍を跪かせた。お前は王として膝元で起きた内乱を平定した。
お前がこの国の王なのだ。
「──ありがとう」
陽子はそれだけ言ってまた笑みを見せた。言葉に尽くせぬ思いがあるだろう。しかしそれを聞くことは、あとのお楽しみに取っておこう。そう考え尚隆は笑みを返す。
「王師はどうした?」
「明郭に向かわせた。呀峰を捕らえて遠甫を救出してもらう」
「そうか」
「──あなたは、これからどうするの?」
陽子は上目遣いにそう問うた。尚隆は意地の悪い笑みを返す。
「──お前は、どうしてほしい?」
「──私が訊いてるんだけど」
憮然とする陽子に尚隆は破顔する。そのとき、後から人の気配が近づくのを感じた。尚隆は陽子に向かって片目を瞑ると素早く身を翻した。待って、と声をかけたそうな陽子を残してその場を去る。
先ほどの娘たちが陽子を迎えに来たようだった。苦笑を浮かべ、諦めたように立ち去る陽子を眺め、尚隆はくすくす笑う。
景王陽子のお手並みを、もう少し拝見させてもらおう。
騶虞を玄英宮に帰してしまった尚隆は、どうせしばらく拓峰を動けない。
陽子の戦いはこれで終わりではない。
寧ろ、金波宮に帰ってからが本当の戦いになるだろう。朝廷には長く豺虎が巣食っていた。一匹の豺虎が退治されても、王が権威を示さぬ限りまた同じことが起こる。景王陽子はこの気に乗じて王権を王の手に取り戻さねばならないのだ。
奸臣を排し、王の意を汲む臣を、己で選べ。
お前にはもう分かっているはず。独りで悩むことはない。お前の周りには光が溢れている。
小さくなる景王陽子の背を見つめ、延王尚隆は揺るぎない笑みを見せた。
2006.04.07.
長編「黎明」連載第20回をお届けいたしました。
とうとう20回になってしまいました。ああ、これくらいで終わるだろ〜と思っていたのに!
ごめんなさい。まだ金波宮にも戻っていないし……。
もうしばらくお付き合いくださいませ!
2006.04.07. 速世未生 記