* * * 62 * * *
慶東国和州州都明郭。この地で一万人もの叛乱民が蜂起したのは、拓峰で乱が起きた四日後未明のことだった。街を守る州師はほとんど拓峰に向かったばかり、寝耳に水の襲撃に明郭は大混乱に陥った。
莫大な税が課された明郭に住む者は、懐の温かい高官のみ。北郭や東郭に追いやられた市民の明郭に対する恨みは深い。躊躇なく戦う叛乱民は、圧倒的に有利な展開で州城に迫っていた。
この日のために身を潜めていた元麦州侯浩瀚は、明郭に姿を現していた。優位に進む戦況をじっと眺めつつ浩瀚は低く呟く。
「さて、いつまでもたせることができるか──」
「拓峰にうまく州師が集まってくれましたが……」
「──うまいことばかり続くわけでもあるまい」
浩瀚は傍に控える柴望に涼しげな笑みを向ける。その言葉に最悪の場合の覚悟を感じ、柴望は口を噤んだ。確かに、呀峰は拓峰以外の地から州師を呼び戻している。しかし浩瀚は柴望の想像を超えることを言ってのけた。
「──禁軍が出てくるかもしれない」
「──まさか」
柴望は愕然と浩瀚を見つめる。王が雁に留学して不在の今、誰が禁軍を動かすというのか。
「堯天には、王を王とも思わない豺虎が巣食っていることを、忘れたか?」
「浩瀚さま……」
涼やかに笑う浩瀚に、柴望はかける言葉を失った。ただし、禁軍は直接攻撃できるわけではないだろう、と浩瀚は続ける。王の私軍である王師を勝手に動かすことは、危険な賭けだ。それはたとえ朝廷の権を実質掌握する者とて同じだろう。王師が街を取り囲んで威嚇し、その間に州師が体制を整える策をとるに違いない。
はたして浩瀚の読みどおり、龍旗を掲げた大軍が現れた。州師は喝采し、叛乱民は絶句する。王師は威嚇だ、そう命を受けて、怯んでいた叛乱民は再び勇気を奮い起こす。
しかし、王師は明郭の街を取り囲み、あまつさえ開門を要求したのだった。州師は歓声を上げて門を開く。叛乱民は今度こそ沈黙した。
一軍を率いて現れた王師の将軍は、、真っ直ぐに州城へと向かう。和州侯呀峰は援軍に喜び、固く閉ざしていた城門を開けた。しかし、禁軍将軍は呀峰に厳然と告げた。国主景王の勅命により和州侯を捕縛する、と。
和州侯呀峰は愕然とし、すぐ将軍に詰め寄った。いったい何の咎で、と。
止水郷長昇紘、和州侯呀峰、太宰靖共を捕縛せよ。麒麟を従えた国主景王の勅命を、将軍は和州侯に断固と告げる。そして、その命を忠実に遂行したのだった。
王師は和州侯の身柄を押さえ、もはや命を受けることない州師は武器を置く。それを確認し、叛乱民も戦いをやめた。明郭の街は、正当なる王の命によって現れた禁軍により、争いから救われたのだった。
意外な結末に、さすがの浩瀚も唖然とする。禁軍は呀峰の要請により靖共が動かしたものではないのか。驚きながらも浩瀚は、捕らわれた遠甫の消息を求めて州城に向かう。そして州城の奥に隠されていた遠甫と再会したのであった。
「──老師、ご無事で何よりです」
「おお、浩瀚、おぬしもじゃ」
「老師、お怪我を……」
身体を軽く庇う遠甫に浩瀚ははっとした。軽く首を横に振り、遠甫は柔らかな笑みを見せる。
「里家で刺された傷がの。まあ、これくらいでは死なん。それより、おぬしは無事に道を示せたようじゃな」
「老師──?」
首を傾げる浩瀚に、遠甫は温かな笑みを返す。それから閭胥遠甫は、今まで明かされていなかった事実を浩瀚に語った。
若く胎果でこちらのことを知らぬ新王は、街に降りて学ぶことを望んだ。主の意を汲んだ宰輔景麒は、遠甫に王の教育を要請した。そして遠甫は王を固継の里家に預かり、教えを施していた。
胎果の女王は、砂に水が染みこむように知識を広げた。清廉な女王は、酷吏の所作に憤り、己の疑問を自ら調べることを厭わなかった。そしてついに。
「──王は、おぬしの示した道を見出された」
厳かに告げる遠甫に、浩瀚は笑みを返す。奸臣に目隠しされていた王は、己の意思で国を見つめることを欲した。そして、見事に王権をその手に戻したのだ。
* * * 63 * * *
国主景王が拓峰と明郭の叛乱を治め、和州に巣食っていた二匹の豺虎を退治した──。長い間虐げられていた和州の民は、とうとう歓声を上げ、解放を喜んだ。
そんなとき、拓峰の乱を援護しに行った
桓魋が戻ってきた。靖共が動かした王師はまず拓峰に現れたのだ、と桓魋は説明した。そして桓魋は楽しげに語る。
「浩瀚さまの仰るとおりでした」
王を信じよ、官に怯え政を放棄した前国主と新王は違う。
浩瀚は繰り返し配下の者にそう諭し続けた。その言葉を、実は桓魋も信じきれずにいたのだった。しかし。
拓峰で蜂起した「殊恩」の中に景王がいた。質素な袍を身に纏った紅の髪の若い娘。その戦い慣れした剣戟、それなのに敵に止めを刺すことを避ける。甘い、と指摘すれば苦笑を返す。敵の士気が落ちればそれでいい、と。只者ではない、そんな印象を与える娘だった。
誰もいないのに誰かと話しているような気配。独りごとを言う癖があるらしい、と嘯き、娘は不敵な笑みを見せる。そして隙のない身のこなしで、何故か妙に無用心な態度を取る。陽子がそんな様子を見せるときには危険がないのだ、と虎嘯がそっと教えてくれた。
後で宰輔景麒から借り受けた使令と話していたのだと分かった。桓魋は嬉しそうに続けた。
「主上は、俺が半獣であると知っても、『どうりで尋常でない怪力だと思った』と笑っただけでした」
桓魋の報告に、柴望は心底驚いていた。浩瀚は遠甫とともに笑みを見せる。桓魋が語る王は、生き生きとし、清廉で闊達だった。
拓峰の街に火がかけられたときも、王は躊躇わず街人を救いに走ったという。そのときのことを桓魋は苦く語った。
(街の連中を起こして火を消そう)
(だめだ!)
「殊恩」の指導者虎嘯に、桓魋は即答した。虎嘯の弟である「殊恩」の参謀夕暉も同意した。火は囮だ。外に出れば州師が待っている。袋叩きになるのは必至だ。
(見殺しにしろてえのか!?)
それでは単なる人殺しだ、と虎嘯は激昂した。対立する桓魋と虎嘯に、誰も口を挟むことはできないようだった。そんなとき。
(行こう)
王は一言声をかけ、虎嘯を促した。静まり返っていた場の中から虎嘯を支持する声が上がった。まだ引き止めたそうな夕暉も、ようやく納得し、作戦を立てた。
拓峰の街には州師騎馬軍があちこちに潜んでいた。街人を避難させる「殊恩」の者たちは、伏兵にやられて次々と斃れていった。しかし、堅牢な郷城を出て民を守る「殊恩」と、拓峰市民は次第に一体になっていった。
拓峰の街全体が州師を退らせた。そしてその後現れた禁軍を、麒麟に騎乗した王が退らせた。そのとき初めて、王は自らの身分を明らかにしたのだった。そう報告を締めくくると、桓魋は真顔になって浩瀚に恭しく拱手した。
「浩瀚さま、主上からのご伝言でございます」
桓魋は、ゆっくりと、噛みしめるように、国主景王から託されたその言葉を浩瀚に告げる。王の口から発せられた、そのときを再現するかのように。
(ありがとう。こんな愚かな王でも仕えてくれる気があるのなら、ぜひ堯天を訪ねてほしい)
その場が柔らかな沈黙に包まれた。浩瀚も言葉を失っていた。慶東国が紅の鮮やかな光で照らされていくのを感じた。そして、暖かな陽光の如き慈悲で包まれていく様を、浩瀚は確かに感じたのだった。
戦いに踏みにじられた明郭の街も明るい雰囲気に包まれていた。そんな中、戦の後片付けを手伝う浩瀚の元に、禁軍の兵士がやってきた。景王により、瑛州固継の閭胥遠甫の救出を命ぜられた、使者は述べる。
浩瀚は遠甫を振り返る。遠甫は穏やかに微笑した。浩瀚は遠甫に新しい住まいを確保すると約した。王に伝えることはないか、と問う遠甫に、浩瀚は首を振る。そして、笑顔で遠甫を送り出した。
ありがとう、と王が臣に礼を言うか。
浩瀚は微笑する。そういえば、放っておくと王宮の奚にまで礼を言って回る。そう王を蔑む官の声を聞いたことがあった。
奚に礼を言う王は、易々と臣に頭を下げる。王の威厳を気にする頭の固い連中にはそう思えるだろう。しかし、卑屈になることなく、相手の功を素直に認めて礼を取る。その心延えのなんと気高いことか。
王の感謝の礼に、直接応えたい。
堯天へ行こう。力を尽くして新王に仕えよう。そう思い、浩瀚は微笑した。
2006.04.15.