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黎 明 (21)

* * *  61  * * *

 陽子はふと近づいてくる気配に気づく。尚隆の動きは陽子よりも更に素早い。待って、と声をかける暇もなく、尚隆はあっという間に姿を消した。背後に人が現れたときには、呆気に取られた陽子だけがその場に残されていた。

「陽子、こんなところにいたの」
桓魋かんたいが捜しているわ」
 鈴と祥瓊の声に、陽子はゆっくりと振り返る。唐突に現れ、風のように去っていったひとのことは、また後で考えよう。
「どうしたんだ?」
「──明郭に戻るのですって」
 祥瓊が少し顔を曇らせた。鈴が陽子を肘でつつく。くすくす笑う鈴に、陽子は怪訝な顔を向ける。それを見て祥瓊は頬を染めて鈴を睨む。
「──鈴、陽子に余計なこと言わないで」
「何も言ってないじゃないの」
 鈴はますます笑い、祥瓊はもっと頬を紅潮させる。訳が分からない陽子は首を傾げて目で問うた。が、鈴は小さな声で後でね、と囁いただけだった。

 陽子が戻ると、桓魋と二人の部下はすかさず叩頭して王に礼を示す。陽子は深い溜息をついた。肩を並べ、一緒に戦った仲間だというのに。

 国主景王という称号は、これほどまでに人の心を隔ててしまうのか。

「──私を捜していたそうだが」
「はい、主上。お暇をいただきたく」
 叩頭したまま桓魋はそう告げた。頭を上げよ、と声をかけ、陽子は頷いた。
「浩瀚によろしく」
「はい、確かに申し伝えます。私の代わりにこちらの二人をよしなにお使いください」
 そう言って桓魋はまた頭を深く下げる。元麦州師帥であった二人も揃って頭を下げた。

 桓魋を見送った後、陽子は鈴に先刻の忍び笑いの意味を訊ねる。鈴は祥瓊に内緒、と言って陽子の耳許に唇を寄せた。
「祥瓊はね、桓魋が明郭に戻ってしまうのが嫌なのよ」
「──ああ、ずっと共に戦った仲間だもんな」
「──もう、陽子ったら」
 鈴の大きな声に、桓魋を見送っていた祥瓊が振り向いた。鈴は舌を出して笑みを向ける。祥瓊はまた頬を朱に染めて怒ってしまった。陽子はまた首を傾げる。鈴が呆れたように囁く。
「鈍いんだから。祥瓊は、桓魋を気に入っているのよ」
「──何よ、鈴だって虎嘯と……」
「祥瓊ったら!」
 今度は鈴が真っ赤になった。ああそうか、と陽子はやっと納得した。微笑ましい口喧嘩を始めた二人に、陽子は笑みを向ける。

 それから陽子は己の伴侶に思いを馳せる。

 いったい、何時から、何処から見ていたのだろう。

 何もかも知っているような口振りだった。神出鬼没の隣国の王は、今も何処かで陽子を見つめているのだろうか。あれだけの存在感を持ちながら、気配を殺すことができるひと。そして、まるで風のように捕まることがない。
 陽子は軽く溜息をつく。固継の門の前で別れてから、どれくらい時が経っただろう。何かあるたびに尚隆の言葉を思い出していた。尚隆が何気なく言っていた言葉は、まさに王の訓戒であると気づいた。離れていても、いつも胸の中に尚隆がいた。
 久しぶりに会えたのに、あまり話せなかった。あっという間に行ってしまった。でも、あのひとが、近くにいる。そう思うと陽子の心は温かくなる。
 鈴と祥瓊は、まだ言い合いを続けていた。陽子は笑みを浮かべ、仲裁に入る。まだ、しなければいけないことが山ほど残っているのだ。

 鈴や祥瓊とともに、陽子も折れて散らばった武器を拾い、怪我人に食事を運んだ。働きながら、陽子は今回の戦いで学んだことを反芻する。雁の王師に守られて偽王軍と戦ったときには考えもしなかったことだ。
 夕暉が作戦を立て、虎嘯が指導者として皆を纏めた。元州師将軍の桓魋は、州師が使う大型武器の対策法を教えた。そして、元公主の祥瓊が宮中の考え方を解説した。鈴が御名御璽の裏書された旅券を示し、街の代表を納得させた。皆の力を借りたからこそ、陽子は禁軍を退らせることができたのだ。

(政は頼りになる官が見つかるまでが苦しい)

 かつて延王尚隆に言われたことが胸に重く残っている。金波宮において、陽子の味方といえる者は景麒のみ。それでは朝を動かすことができない。昇紘の更迭を求めても通らなかったことで、身に染みて分かった。

 己の意を汲む官僚がほしい。心開ける仲間がほしい。

 今、景王陽子は痛切にそう思う。王一人では、国じゅうに命を行き渡らせることはできない。それは黄領である北韋ですら三割である税が如実に物語っている。
 奸臣を退け、酷吏を排し、自ら王の権を揮うためには信頼できる臣が必要だ。己の目で信用できる仲間を選ぼう。そして、一歩ずつ進んでいこう。
 陽子は微笑する。焦っているつもりはなかった。しかし、やはり焦っていたようだ。

(何も急ぐことはない。どうせ寿命は長いのだからな)

 そう言って笑った己の伴侶。あのとき納得できなかったその言葉に、景王陽子は大きく頷いた。

* * *  62  * * *

 慶東国和州州都明郭。この地で一万人もの叛乱民が蜂起したのは、拓峰で乱が起きた四日後未明のことだった。街を守る州師はほとんど拓峰に向かったばかり、寝耳に水の襲撃に明郭は大混乱に陥った。
 莫大な税が課された明郭に住む者は、懐の温かい高官のみ。北郭や東郭に追いやられた市民の明郭に対する恨みは深い。躊躇なく戦う叛乱民は、圧倒的に有利な展開で州城に迫っていた。

 この日のために身を潜めていた元麦州侯浩瀚は、明郭に姿を現していた。優位に進む戦況をじっと眺めつつ浩瀚は低く呟く。
「さて、いつまでもたせることができるか──」
「拓峰にうまく州師が集まってくれましたが……」
「──うまいことばかり続くわけでもあるまい」
 浩瀚は傍に控える柴望に涼しげな笑みを向ける。その言葉に最悪の場合の覚悟を感じ、柴望は口を噤んだ。確かに、呀峰は拓峰以外の地から州師を呼び戻している。しかし浩瀚は柴望の想像を超えることを言ってのけた。

「──禁軍が出てくるかもしれない」

「──まさか」
 柴望は愕然と浩瀚を見つめる。王が雁に留学して不在の今、誰が禁軍を動かすというのか。
「堯天には、王を王とも思わない豺虎が巣食っていることを、忘れたか?」
「浩瀚さま……」
 涼やかに笑う浩瀚に、柴望はかける言葉を失った。ただし、禁軍は直接攻撃できるわけではないだろう、と浩瀚は続ける。王の私軍である王師を勝手に動かすことは、危険な賭けだ。それはたとえ朝廷の権を実質掌握する者とて同じだろう。王師が街を取り囲んで威嚇し、その間に州師が体制を整える策をとるに違いない。

 はたして浩瀚の読みどおり、龍旗を掲げた大軍が現れた。州師は喝采し、叛乱民は絶句する。王師は威嚇だ、そう命を受けて、怯んでいた叛乱民は再び勇気を奮い起こす。
 しかし、王師は明郭の街を取り囲み、あまつさえ開門を要求したのだった。州師は歓声を上げて門を開く。叛乱民は今度こそ沈黙した。
 一軍を率いて現れた王師の将軍は、、真っ直ぐに州城へと向かう。和州侯呀峰は援軍に喜び、固く閉ざしていた城門を開けた。しかし、禁軍将軍は呀峰に厳然と告げた。国主景王の勅命により和州侯を捕縛する、と。
 和州侯呀峰は愕然とし、すぐ将軍に詰め寄った。いったい何の咎で、と。
止水郷長昇紘、和州侯呀峰、太宰靖共を捕縛せよ。麒麟を従えた国主景王の勅命を、将軍は和州侯に断固と告げる。そして、その命を忠実に遂行したのだった。

 王師は和州侯の身柄を押さえ、もはや命を受けることない州師は武器を置く。それを確認し、叛乱民も戦いをやめた。明郭の街は、正当なる王の命によって現れた禁軍により、争いから救われたのだった。
 意外な結末に、さすがの浩瀚も唖然とする。禁軍は呀峰の要請により靖共が動かしたものではないのか。驚きながらも浩瀚は、捕らわれた遠甫の消息を求めて州城に向かう。そして州城の奥に隠されていた遠甫と再会したのであった。

「──老師、ご無事で何よりです」
「おお、浩瀚、おぬしもじゃ」
「老師、お怪我を……」
 身体を軽く庇う遠甫に浩瀚ははっとした。軽く首を横に振り、遠甫は柔らかな笑みを見せる。
「里家で刺された傷がの。まあ、これくらいでは死なん。それより、おぬしは無事に道を示せたようじゃな」
「老師──?」
 首を傾げる浩瀚に、遠甫は温かな笑みを返す。それから閭胥遠甫は、今まで明かされていなかった事実を浩瀚に語った。

 若く胎果でこちらのことを知らぬ新王は、街に降りて学ぶことを望んだ。主の意を汲んだ宰輔景麒は、遠甫に王の教育を要請した。そして遠甫は王を固継の里家に預かり、教えを施していた。
 胎果の女王は、砂に水が染みこむように知識を広げた。清廉な女王は、酷吏の所作に憤り、己の疑問を自ら調べることを厭わなかった。そしてついに。

「──王は、おぬしの示した道を見出された」

 厳かに告げる遠甫に、浩瀚は笑みを返す。奸臣に目隠しされていた王は、己の意思で国を見つめることを欲した。そして、見事に王権をその手に戻したのだ。

* * *  63  * * *

 国主景王が拓峰と明郭の叛乱を治め、和州に巣食っていた二匹の豺虎を退治した──。長い間虐げられていた和州の民は、とうとう歓声を上げ、解放を喜んだ。

 そんなとき、拓峰の乱を援護しに行った桓魋かんたいが戻ってきた。靖共が動かした王師はまず拓峰に現れたのだ、と桓魋は説明した。そして桓魋は楽しげに語る。
「浩瀚さまの仰るとおりでした」

 王を信じよ、官に怯え政を放棄した前国主と新王は違う。

 浩瀚は繰り返し配下の者にそう諭し続けた。その言葉を、実は桓魋も信じきれずにいたのだった。しかし。
 拓峰で蜂起した「殊恩」の中に景王がいた。質素な袍を身に纏った紅の髪の若い娘。その戦い慣れした剣戟、それなのに敵に止めを刺すことを避ける。甘い、と指摘すれば苦笑を返す。敵の士気が落ちればそれでいい、と。只者ではない、そんな印象を与える娘だった。
 誰もいないのに誰かと話しているような気配。独りごとを言う癖があるらしい、と嘯き、娘は不敵な笑みを見せる。そして隙のない身のこなしで、何故か妙に無用心な態度を取る。陽子がそんな様子を見せるときには危険がないのだ、と虎嘯がそっと教えてくれた。
 後で宰輔景麒から借り受けた使令と話していたのだと分かった。桓魋は嬉しそうに続けた。

「主上は、俺が半獣であると知っても、『どうりで尋常でない怪力だと思った』と笑っただけでした」

 桓魋の報告に、柴望は心底驚いていた。浩瀚は遠甫とともに笑みを見せる。桓魋が語る王は、生き生きとし、清廉で闊達だった。
 拓峰の街に火がかけられたときも、王は躊躇わず街人を救いに走ったという。そのときのことを桓魋は苦く語った。

(街の連中を起こして火を消そう)
(だめだ!)
 「殊恩」の指導者虎嘯に、桓魋は即答した。虎嘯の弟である「殊恩」の参謀夕暉も同意した。火は囮だ。外に出れば州師が待っている。袋叩きになるのは必至だ。
(見殺しにしろてえのか!?)
 それでは単なる人殺しだ、と虎嘯は激昂した。対立する桓魋と虎嘯に、誰も口を挟むことはできないようだった。そんなとき。
(行こう)
 王は一言声をかけ、虎嘯を促した。静まり返っていた場の中から虎嘯を支持する声が上がった。まだ引き止めたそうな夕暉も、ようやく納得し、作戦を立てた。
 拓峰の街には州師騎馬軍があちこちに潜んでいた。街人を避難させる「殊恩」の者たちは、伏兵にやられて次々と斃れていった。しかし、堅牢な郷城を出て民を守る「殊恩」と、拓峰市民は次第に一体になっていった。
 拓峰の街全体が州師を退らせた。そしてその後現れた禁軍を、麒麟に騎乗した王が退らせた。そのとき初めて、王は自らの身分を明らかにしたのだった。そう報告を締めくくると、桓魋は真顔になって浩瀚に恭しく拱手した。

「浩瀚さま、主上からのご伝言でございます」
 桓魋は、ゆっくりと、噛みしめるように、国主景王から託されたその言葉を浩瀚に告げる。王の口から発せられた、そのときを再現するかのように。

(ありがとう。こんな愚かな王でも仕えてくれる気があるのなら、ぜひ堯天を訪ねてほしい)

 その場が柔らかな沈黙に包まれた。浩瀚も言葉を失っていた。慶東国が紅の鮮やかな光で照らされていくのを感じた。そして、暖かな陽光の如き慈悲で包まれていく様を、浩瀚は確かに感じたのだった。

 戦いに踏みにじられた明郭の街も明るい雰囲気に包まれていた。そんな中、戦の後片付けを手伝う浩瀚の元に、禁軍の兵士がやってきた。景王により、瑛州固継の閭胥遠甫の救出を命ぜられた、使者は述べる。
 浩瀚は遠甫を振り返る。遠甫は穏やかに微笑した。浩瀚は遠甫に新しい住まいを確保すると約した。王に伝えることはないか、と問う遠甫に、浩瀚は首を振る。そして、笑顔で遠甫を送り出した。

 ありがとう、と王が臣に礼を言うか。

 浩瀚は微笑する。そういえば、放っておくと王宮の奚にまで礼を言って回る。そう王を蔑む官の声を聞いたことがあった。
 奚に礼を言う王は、易々と臣に頭を下げる。王の威厳を気にする頭の固い連中にはそう思えるだろう。しかし、卑屈になることなく、相手の功を素直に認めて礼を取る。その心延えのなんと気高いことか。

 王の感謝の礼に、直接応えたい。

 堯天へ行こう。力を尽くして新王に仕えよう。そう思い、浩瀚は微笑した。

2006.04.15.
 大変お待たせいたしました、申し訳ございません。 長編「黎明」連載第21回をお送りいたしました。
 明郭での浩瀚──捏造激しいのですが、あまり深いツッコミはしないでくださいませ! そして、陽子主上はまだ金波宮に戻ってないし……。 もうしばらくお付き合いくださいませ。

2006.04.15. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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