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黎 明 (22)

* * *  64  * * *

 内乱が終結した慶東国和州止水郷郷都拓峰。街は戦の爪痕も生々しいながら明るい雰囲気を醸していた。長く酷吏に苦しめられていた街人は解放を喜び、復興に向けて精を出している。
 焼けた家の残骸を片付け、広途の入り口に積まれた車を撤去する。戦いで滅茶苦茶になった街を、民は明るい顔で眺める。

 麒麟に騎乗した王が天より降臨し、拓峰を救ってくださった。

 その神なる王は、まだ拓峰の郷城に留まり、街の復興を見守ってくださっている。拓峰市民の感謝は深かった。

 郷城から泊っていた舎館に戻りながら、延王尚隆は微笑する。息を潜め、動くことを恐れていた民人が、とうとう立ち上がり、州師を退らせた。そして現れた王師を退らせた王を、敬い崇めている。
 延焼を免れた舎館は活気に満ちていた。人々はそれぞれ焼け出された人の手伝いをし、街の片づけをし、夜に戻ってくる。
「ああ、お客さん、無事だったのかい」
「郷城に行って片付けを手伝っていた」
 舎館の主人が別人のように明るく声をかけてくる。尚隆は笑って答えた。そういえば、と主人は続ける。騎獣はどうしたのか、と。騶虞すうぐがいなくなっているのに気づいたらしい。尚隆は火事のどさくさで逃げられた、と答えた。
「──迎えが来るまで世話になるとしよう」
「とんだ災難だったねえ」
 気の毒そうな顔を向ける主人に、尚隆は笑顔を返す。主人は夕餉の酒を一本奢ってくれた。

 舎館の飯堂で、奢り酒を手酌で飲みながら、尚隆は考える。明郭に赴いた王師はいつ戻ってくるだろう。遠甫の無事を確認するまで、陽子は拓峰を動かないはず。
(あなたは、これからどうするの?)
 陽子はそう問うた。尚隆はほくそえむ。それを知ったら、陽子はどんな顔をするだろう。尚隆を見て、目が落ちんばかりに驚愕した様を思い出す。感情を素直に表す陽子は、本当に可愛らしい。
 内乱は収まった。しかし、陽子の戦いは金波宮に帰ってからが本番だ。尚隆にとっては、そちらを手助けすることのほうが重要だった。そのための手も、既に打ってある。あとは迎えを待つのみ。そう思い、尚隆は不敵に笑う。

 劇的な内乱終結から五日後、舎館の主人は尚隆の房室に客人を案内した。布で頭を隠して現れたその少年に、尚隆は人の悪い笑みを向ける。少年は開口一番に悪態をつく。

「ったく、何やってんだ、こんなところで。血の臭いはきついし。──まあ、妓楼に呼びつけられなかっただけ、ましか」
「何、と言われてもな。着いたらすぐに戦が始まった。妓楼など寄る暇もなかったぞ」
 尚隆は肩を竦め、軽く笑う。六太は腕を組み、尚隆を睨めつける。
「だからって、たまを空荷で帰して寄越すなんて……。大騒ぎになったんだぞ」
「──お蔭で無事に脱出できたのだろう?」
「あのな……」
 渋面を作って捲し立てる六太に、尚隆は大笑いする。六太は顔を顰めて続ける。
「二人でとんずらする気か、って出してもらえねえところだったんだぞ!」
 その言葉を聞いて、尚隆は手を打ち呵呵大笑する。六太は思い切り渋い顔をした。
「しかも──こんなもん、調達するの、大変だったんだからな!」
「お前なら雑作もないことだろうに。──きっと陽子は喜ぶだろう」
「──その陽子は何処なんだよ?」
 陽子の名に反応する六太に、尚隆はほくそえむ。
「郷城に詰めている。まだ全てが終わったわけではないからな」
「お前、まさか……」
 六太は疑わしげに尚隆を見上げる。尚隆はその問いに答える気はなかった。にやりと笑って六太に問う。
「お前も陽子に会えて嬉しかろう?」
「──悪党」
「悪党なものか」
 六太はやれやれと呆れ顔で肩を竦める。尚隆は喉の奥で笑うのみだった。

* * *  65  * * *

 明郭に派遣した王師が戻ってきたのは五日後のことだった。待ちかねたその報せに、陽子は自ら城壁に登って確かめる。馬車が一両、拓峰に入ってくるところだった。陽子は正門へ駆け下りた。
 兵士に助けられて馬車を降りる小さな人影がある。その懐かしい姿を認め、陽子は感慨深く呼びかけた。
「──遠甫」
「……元気そうだの」
「ご無事でしたか」
 陽子を振り返って破顔した遠甫に、陽子はやっと安堵の笑みを浮かべた。

 どんなにこの日を待ちわびたことか。

 蘭玉を喪い、瀕死の桂桂を金波宮に送り、行方不明の遠甫を捜して拓峰まで来たのだから。
 陽子の言葉に頷く遠甫の瞳の色は深い。蘭玉と桂桂は、と至極当然の問いに、陽子は胸を貫く痛みを感じた。面伏せて蘭玉は……と一言返すのがやっとだった。
 俯く陽子に虎嘯が声をかける。ご老体に立ち話はないだろう、と。そして、遠甫と二言三言交わし、頭を下げて正門へと歩いていく。陽子は遠甫を促し、中門へと向かう。

 血を流して斃れていた蘭玉を思い出すと、胸に苦いものが込みあげる。陽子がその場にいたら、守ってあげられたかもしれないのに。
 胸の痛みに耐えかねて、申し訳ありませんでした、と口に出した。何を謝るね、と遠甫は静かに問う。私が里家にいればよかった、と俯く陽子に、遠甫は桂桂の安否を訊ねた。その問いは密かな声で、それ故に耳が痛かった。 辛うじて命を取り留めて堯天にいます、と陽子は苦く告げる。そうか、と遠甫はそれだけで理解したように頷く。
 気に病むことはない、目的は己だったのだ、と遠甫は語った。陽子は顔を上げる。靖共が何か、と問う陽子に遠甫は頷く。そして松塾の話をした。

 国府から松塾に使いがあり、靖共が己の府官にと望んだ。しかし、松塾の閭胥だった遠甫は靖共に仕えることは道に悖る、と拒絶を勧めた。その結果、松塾は焼討ちに遭い、多くの者が命を喪った。そう語り、遠甫は自嘲の笑みを浮かべる。

「──わしは道を貫いたつもりじゃった。だが、道とは他者の命を犠牲にするものではあるまい。ならば、わしの貫いたものはなんだったのじゃろうな。……この歳になっても、まだこうして迷う」

 陽子は静かに頷き、遠甫を見つめる。遠甫は独り言のように続ける。道を説くことよりも、田を耕すことや武器を持って戦うことのほうが、意義があるのではないか、と。
「遠甫は民に種を播いてらっしゃるのではないですか」
 陽子は思ったことを素直に述べた。遠甫は陽子を見上げ、なるほどな、と息を吐いて笑った。
 これほど長生きしても、まだ迷い、若造に諭される。人というものはその程度のもの。お前さんが自分を蔑んだり、軽んじたりする必要はない。遠甫は陽子に笑みを向ける。そうでしょうか、と陽子は自信なさげに返す。

「その程度のものじゃと、知っておくことに意義があるのかもしれんな」

 深い笑みを見せる遠甫に、陽子は俯いた。陽子は王なのだ。王が不甲斐ない自分を、その程度のものだと納得するだけで許されるのだろうか。
 しかし、答えなどすぐ出せるものではない。それだけは理解できる。そして、そう諭してくれる師が、陽子には必要なのだ。陽子は頷いた。
 顔を上げた陽子は、遠甫を真っ直ぐに見つめる。お願いがあるのですが、と切り出した陽子に、遠甫はなんじゃな、と優しい目を向ける。陽子は院子でその足を止めた。
「朝廷にお招きしたいのです。ぜひ太師として、おいでになってもらえないでしょうか」
「このおいぼれを三公の首になさるとおっしゃる」
 遠甫はさもおかしげに笑った。陽子はそんな遠甫に頭を下げる。
「私には師が必要です……」
 そうか、と遠甫は頷く。せっかく麦侯に住まいを探してもらったというに、もう戻っても意味がないな、とまた笑う。
「陽子がわしでもいるというのなら、喜んで参ろう」
「ありがとうございます」

 そして遠甫は今まで語らなかったことを陽子に話して聞かせた。麦州侯浩瀚を教えたことがあること。浩瀚が更迭されてからも連絡を取っていたこと。その使いとして元州宰柴望が何度も里家を訪れていたことなどを。
 浩瀚が罷免されて、その部下柴望も罷免された。その後、金波宮に護送される途中で行方を晦ました浩瀚たちはお尋ね者になってしまった。それ故、柴望は面布をつけて里家を訪れていたのだ。
 遠甫の説明に、陽子ははっとする。かつて虎嘯を怪しいと思っていたように、陽子は柴望をも怪しんでいた。沢山の誤解をしていたのだ。陽子は息を吐く。
 人望厚い元麦州侯浩瀚は、遠甫に学び、桓魋かんたいを従わせる人物。陽子の信頼する二人がその為人を認めている。そして、陽子の半身である景麒も。

 誤解が解けて、本当によかった。

 陽子はしみじみとそう思う。そして、浩瀚が堯天を訪ねてくれるよう、心から願った。そんな陽子を、遠甫は穏やかな笑顔で見守っていたのだった。

* * *  66  * * *

 遠甫の無事を確認し、陽子が拓峰ですることは全て終了した。そろそろ金波宮に戻らなければならない。陽子は街に降りてからの出来事を感慨深く思い返す。

 延王尚隆とともに、初めて見た王都堯天の賑わい。新王即位に期待を隠さぬ都の人々の思いに胸打たれた。必要とされる喜びを噛みしめた。
 里家で暮らすことにより、市井の民の暮らしを知った。そして、酷吏を見逃し、人望厚い州侯を罷免した己の愚かしさを思い知った。
 罪なき人々が簡単に命を奪われていく現実。圧政に耐えかねて蜂起しようとする民。起こると分かっている内乱を止められなかった。義勇の民を守れぬ、無能で権威のないお飾りの女王である己を恥じた。
 何も知らず、知ろうとしても何もさせてもらえず、苦しんでいた王宮での生活。しかし、陽子はそこで目に見えるものしか見ていなかった。街に降りて、初めてそれに気づいた。
 陽子は至らない王だ。だからこそ、そんな陽子を補う数多くの人々が必要なのだ。焦らず急がず一歩ずつ進んでいく。己の信頼できる人々とともに。

 夜になって臥室に集まった鈴と祥瓊に、そろそろ王宮に戻ると告げた。二人は少し残念そうな顔をしてから、そうね、王さまも大変ね、と言った。そんな二人に陽子は問う。これからどうするのか、と。
 鈴も祥瓊も驚いたようだった。陽子は苦笑して続ける。景王にはもう会っただろう、と。二人はその先のことは何も考えていなかったようだ。
 少し考えて、鈴は才に戻って采王にお礼を言わなければ、と言った。祥瓊は、国に戻ってお礼やお詫びを言いたい人はいるけれど叩き出されるだろうと笑った。それから、雁に行って楽俊に報告しなければ、と言った。
 陽子は眉を顰めた。和州の内乱に加担したなどと知ったら、楽俊は呆れるだろう。王さまが自分で出て行ってどうすんだ、と怒るかもしれない。陽子は祥瓊を上目遣いで見て、できればここにいたことは内緒にしてくれ、と頼んだ。祥瓊は分かったわ、と言ってくすりと笑った。
 そういえば。まだ解決していないことがあった。

 ──初勅。

 陽子は鈴と祥瓊を見つめて首を傾げる。
「──善い国、っていうのは、なんなんだろう?」
 昇紘みたいな奴のいない国、と鈴があっさり答えた。陽子は苦笑する。それは分かる。けれど、具体的に、どういう生き方がしたいか。そのためにはどういう国であってほしいのか。陽子は改めて訊ねた。二人はしばし考えに沈む。
 やがて祥瓊がぽつりと口を開く。寒いのやひもじいのは嫌だ、と。そして、誰かに辛く当たられたり、蔑まれたりするのは嫌だった、と。昔自分がしていたことを返されたのだから自業自得だと、祥瓊は密やかに自嘲する。
 そうね、と鈴も頷いた。我慢するのを止めればよかったのだ、と。我慢していると、気持ちが小さくなる。そして内側を向いてしまう。
 そう頷きあう二人に、陽子も同感だった。臣はみな陽子に叩頭する。しかし、本当に礼をもって頭を下げているのだろうか。なんと愚かな王だという嘲笑を隠すためではないのだろうか。そんな疑問が胸を離れない。
 頭を下げる者も下げられる者も、互いに儀礼的に接しているだけ。両者の距離は広がるばかりで理解するには程遠い。それでは、礼など意味がない。──そうか。陽子の胸に浮かぶものがひとつあった。

 でも、これって、ぜんぜん答えにならないね。そう謝る鈴に陽子は参考になったと笑顔で返す。鈴はほんと、と微笑んだ。それからどうするのかと訊ねると、二人は顔を見合わせた。勉強したい、と言う祥瓊に、鈴も頷いた。 何も知らないのが恥ずかしかった、と俯く二人に、陽子は笑顔で提案した。金波宮で働きながら遠甫に学ぶのはどうか、と。
 鈴と祥瓊は目を丸くする。戸惑う二人に、陽子は真摯な目を向ける。陽子は今、一人でも多くの手助けが欲しいのだ。虎嘯や桓魋は、と問う二人に、処遇を考えてみると答えた。

「──私にはあの王宮の中で、信じることのできる人が、本当に一人でも多く必要なんだ」
 陽子の真剣な懇願に、祥瓊は息を吐く。鈴は悪戯っぽい目を向けて言う。
「しょうがないわね。行ってあげてもいいわ」
「そうねえ、陽子がどうしても、って言うんなら、助けてあげないでもないかなあ」
「──どうしても」

 陽子は二人に手を合わせ、頭を下げる。鈴がくつぐつと笑う。祥瓊も忍び笑いを漏らす。二人につられたように、陽子もまた笑みを浮かべた。
 そう、心を込めて頭を下げれば、気持ちは相手に伝わるのだ。礼とは形ではない。心なのだ。王だから頭を下げられるのが当然というわけではない。
 共に戦った仲間が伏礼する様を見るのは愉快なものではなかった。だから、鷹揚な虎嘯が変わらず普通に接してくれるのが嬉しい。それは民主主義の国から来た陽子だからこそ感じることなのかもしれないが。

 共に戦った頼もしい仲間を王宮に招こう。

 信頼できる人々に来てもらおう。陽子が王権を揮い、国を治めるために必要な力を集めよう。焦らず、急がず、一歩ずつ。
 夜明けは近い。明るい陽はもうすぐ昇る。その太陽が己であることに、陽子は気づいていない。紅の光を纏う輝かしき女王の目覚めは、もう少し先の話である。

2006.04.22.
 大変お待たせいたしました。長編「黎明」連載第22回をお送りいたしました。
 ──まだ金波宮に帰ってません。どうしましょう。 次には戻れるかしら。──もうしばらくお付き合いくださいませ。

2006.04.22. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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