* * * 68 * * *
拓峰最後の日。
雁国主従を見送ってからも、陽子は箭楼で街の様子を眺めた。陽が昇ると、街も目覚める。門が開き、旅人が出入りする。街の民は起き出して朝餉の支度をする。煮炊きの煙も上り始めていた。
足許で、郷城も目覚めているのが分かる。今日も皆は朝餉の支度、街の片付けに精を出すのだろう。
──そろそろそんな街の暮らしともお別れだ。少し胸が痛い。粗末な着物に粗末な食事。それでも、気の合う仲間たちとの暮らしは楽しかった。
金波宮に戻れば、景王として暮らさなければならない。官との拮抗が、また始まる。それでも。陽子は己が王であることを自覚した。
慶東国の王として、善い国を作りたい。
今、心からそう思う。市井の民は神なる者として、王に期待している。己が神とは思わないが、民の期待に応えたいと思う。罪なき人々が命を落とすことのない国にしたい。街を眺め、取りとめもなく思いを巡らせる。
やがて、鈴と祥瓊が息を切らして箭楼に上がってきた。陽子は振り返り、笑みを向けた。
「──陽子」
「行ってしまったかと思った……」
「何も言わずに行ったりしないよ」
心配そうに声を上げる二人に、陽子は軽く笑う。そのまま二人とともにまた拓峰の街を眺める。忘れない、胸に誓い、箭楼を降りる。
朝餉も終えて落ち着いた頃。陽子は共に戦った「殊恩」の仲間、明郭からやってきた
桓魋の手の者たちに別れを告げる。恭しく叩頭する人々に、陽子は苦笑を見せ、それでも己の言葉を素直に語った。
「遠甫の無事を確認できた。そろそろ金波宮に戻ろうと思う。
──私は至らない王だ。それでも、私を王と思ってくれるなら、どうか、頭を上げて聞いてほしい」
陽子は叩頭する人々を見渡す。ぽつぽつと頭が上がった。陽子は微笑して続ける。
「私は今までわけも分からずに、ただ玉座に座っていた。街に降りるまで、和州に豺虎がいることも、その黒幕が私の膝元にいることも知らずにいた。黄領の北韋でさえも、税が三割であることを知って愕然とした。
──そして、私は王でありながら、起こると分かっていた内乱を止めることができなかった。……そのために、多くの仲間を喪った。本当に申し訳ないと思っている……」
景王陽子の真摯な言葉に、次第に顔を上げる者が増えてきた。そんな一人一人の顔を眺めながら、陽子はゆっくりと語りかける。
「──街へ降りて、皆と共に戦って、沢山のことを学んだ。少しはましな王になれるような気がする。でも、私一人では、慶を善い国にすることはできない。だから、皆に協力してもらいたい」
鈴と祥瓊が大きく頷いた。虎嘯は破顔した。遠慮がちに顔を上げていた夕暉も、感慨深げな顔をしていた。そして、遠甫は深い笑みを刷き、何度も頷いた。
「一人でも多く、王宮で手助けをしてほしい。浩瀚と桓魋と、そして、柴望にもそう伝えてくれないか」
「──確かに承りました」
「──必ず申し伝えます」
元麦州州師師帥の二人も、顔を紅潮させてそう答えた。陽子は大きく頷き、立ち上がった。
「──皆も立ってくれ。立ち上がって、頭を上げて、私を見送ってくれ」
「陽子……」
鈴と祥瓊が駆け寄り、陽子にしがみつく。その瞳に浮かぶ涙。陽子は笑みを浮かべ、そっと囁く。金波宮で待っているから、と。二人は涙を滲ませながらも、笑顔で頷いた。
それを合図に「殊恩」の仲間も陽子の傍にやってきた。虎嘯を始めとして、口々に話しかける。頑張れよ、しっかりやれよ、官に負けるなよ、と。陽子も笑顔を返す。
「和州の州侯や、止水郷長に豺虎が立たないように、頑張るから」
「期待してるぞ」
「そんな奴は、また追い出してやるから心配するな」
陽子の言に、皆は軽く答え、場に笑い声が満ちた。陽子は大きく頷き、それからゆっくり歩き出す。郷城の院子で立ち止まり、足許に声をかける。
「班渠」
使令が姿を現した。その背に跨り、陽子は共に戦った仲間に手を振る。班渠はふわりと舞い上がった。拓峰に降臨した神なる王の後ろ姿を、街人は見えなくなるまで見送ったのだった。
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「──感動的なお別れでしたね」
「ああ。私は、一生忘れないだろう……」
班渠に言われるまでもなく、陽子は胸がいっぱいだった。このままずっと空を飛んで感慨に浸りたい気分だった。しかし、班渠は拓峰外れの閑地に静かに降り立つ。そのまま陽子をその背から降ろすと、班渠は足許に消えた。
「──陽子」
「
尚隆……」
騶虞を連れた延王尚隆が片手を挙げて笑みを浮かべた。陽子はゆっくりと尚隆の傍に歩み寄る。尚隆はその頭にぽんと大きな掌を置く。
「──よくやったな」
「うん……」
小さく頷くと、封印していた涙が少し滲んだ。そっとその胸に抱き寄せられた。もう我慢しなくていいぞ、と低く優しい声が聞こえた。陽子は何も言えず、ただ頷いた。
──蘭玉。蘭玉……ごめん。あのとき、私がいたら……守ってあげられたかもしれないのに……。
蘭玉を思うと、涙が溢れて止まらなかった。初めてできた、同じ年頃の女友達。こんなに早く喪ってしまうなんて。夥しい血に塗れ、景王御璽を握りしめ、倒れ伏していた蘭玉。
くるくると働き、明るい笑顔を見せる蘭玉はもういない。泣いても二度と戻ってこない。
生きている人々のために、今できることをしよう。
後悔しないように行動しよう、そう思ってきた。泣いている暇などなかった。けれど、全て終わってみれば、思い出すのは、やはり喪ってしまった蘭玉のこと。
喪った者への鎮魂と、己の胸の痛みと。
解放された涙は止め処なく流れる。尚隆にしがみつき、陽子は嗚咽した。抱きしめる腕と頭を撫でる掌の温もりを感じた。生きている人の温もりを、こんなに恋しいと思う。強張っていた心と身体の緊張が解けていく。ああ、こんなに気を張っていたのだ、と陽子は初めて自覚した。
目を上げると愛しむような笑みがあった。何も問わずに、受けとめてくれるこの腕を、愛おしいと思う。その瞳を見つめると、また涙が零れた。くすりと笑う声。そして、涙を拭う唇。瞼を閉じると、その唇が落ちてきた。口づけが甘いものだと、思い出した。
「──落ち着くまで、どこかで休んでいくか?」
「ううん、もう大丈夫……」
労う声に応えを返し、陽子は笑みを見せる。涙を受け止めてくれるひとがいるから、また立ち上がれる。陽子はそれを知っている。尚隆は微笑してひとつ頷くと、もう一度口づけを落とした。
「さて──。延王尚隆と延麒六太から、景王陽子に手向けだ」
「──何?」
尚隆は悪戯っぽい笑みを見せる。渡された包みを開けて陽子は目を見開く。そこには雁では馴染みだった男物の袍衫が一揃い入っていた。
「──これ」
「蓬莱育ちの女王には、襦裙よりも似合うだろう」
「──ありがとう」
陽子は破顔した。金波宮で女御たちに着付けられる煌びやかな襦裙は、どうにも性に合わなかった。まるで着せ替え人形のように扱われるのも気に入らなかった。しかし、誰も陽子に長袍を着ていいとは言ってくれなかった。
「お前は女王なのだから、自分の好きな恰好をしてよいのだぞ」
かなりの戦いになるがな、と尚隆は片目を瞑って楽しげに言った。陽子はその言に大きく頷いた。
粗末な袍子から長袍に着替え、髪をまとめて束髪にした陽子は溌剌としていた。雁の官服に着替えた尚隆は笑みを浮かべてその手を取る。
「いざ出陣だ。金波宮に乗りこむ。景王のお覚悟はよろしいか?」
「いつなりとも」
その声に応じて班渠が再び姿を現し、陽子を背に乗せた。尚隆も騶虞に騎乗し、二人は蒼穹に舞い上がる。陽子はひたと前を見つめる。民の思いを受け取った。もう官に阿ることはしない。
「そう、迷うなよ、お前が王だ」
偽王軍に立ち向かったときと同様に、延王尚隆は激励する。景王陽子は翠の瞳に勁い光を浮かべて頷いた。
2006.04.28.