滄 海 (3)
* * * 3 * * *
何から話そうか。
尚隆は最初、そんなことを考えていたように思う。しかし、石段に伴侶と並んで腰掛けて、左に温もりを感じているうちに、その居心地のよさに身を任せてしまった。
見上げると、雲が流れる高い空。耳に入るのは、松枝を吹き抜ける爽やかな風の音。そうして、緩やかに時が流れていく。穏やかな秋の一日だった。
霄山でそんなことを感じたことが、今まであっただろうか。
ここに来る度に、自問自答を繰り返してきた。胸に蟠る苦い想いを飲み下していた。斃れた者は、もう、何も語らない。分かっていながら、目の前の墓標に問うたこともあった。それなのに。
隣にある温もりが、そんな緊張を和らげる。長い沈黙をも楽しむ術を知っている伴侶が、身も心も寛がせてくれる。
見せたいものがある、とだけ告げ、何も報せずにここまで連れてきた。雁の者ではない伴侶には、ここがどこかも分からないだろう。ただ、墓所のある凌雲山故に、禁苑だと理解してはいるだろうが。それでも、伴侶はただ静かに尚隆の傍にいてくれている。
「──何も訊かないのだな」
尚隆は敢えて伴侶の顔を見ずにそう言った。伴侶は小さく笑う。その声には、不安も不満も感じられない。何も言わぬ伴侶に、視線を前に向けたまま、おもむろに問うた。
「訊きたいことはないのか?」
「──昔、べそをかいていた私に、何も訊かなかったのは何故?」
伴侶は笑い含みにそう訊ねた。尚隆は思わず首を巡らせた。伴侶の顔を、穴が開くほど見つめる。小さな身体で尚隆を包容する心大きな伴侶は、慈愛に満ちた笑みを浮かべ、尚隆を見つめ返した。
昔、景王陽子はよく泣いた。王は泣いてはならぬ。そう教えたのは尚隆だ。迷い、惑う王についてくる民はいない。
だから、泣くならここで泣け。
伴侶はその言葉に素直に従った。声を殺し、己の小さな手を見つめ、涙を流した。尚隆はそんな女王に訳を問うことはなかった。
臣の前では泣かぬ女王が、陽子に戻って涙を零すとき、尚隆は、ただ、傍にいた。ただ、抱きしめていた。己と戦う者にしてやれることは、それくらいしかなかったのだから。
輝かしい瞳は深みを増し、今や涙滲むことは稀になった。出会った頃から変わらないのは、臆せず見つめ返す、その勁さ。
尚隆はゆっくりと唇を緩めた。にやりといつもどおりの笑みを浮かべて応えを返す。
「何も訊くな、と顔に書いてあったからだ」
「もう少し、まともな答えを期待したんだけど」
伴侶は肩を落とし、深い溜息をつく。尚隆は遠慮なく大笑いした。そして本音を告げる。
「俺は大真面目なのだがな」
たちまち口を尖らせる伴侶の滑らかな頬に口づける。そして、細い肩をそっと抱き寄せ、尚隆はゆっくりと語り始めた。
「昔な、雁には何もなかった。食うものがなくて、妖魔でさえ飢えて死んでいた」
やせ細った国だ、と六太は言った。荒廃し、人心が惑った国だ、と。実際に降り立った雁は、六太が言ったとおり、荒みきった国だった。
雁には鉱山も森林もなかった。荒れ果てた土地を開墾して地の実りを得る他にできることはない。が、それには人手もいるし時間もかかる。他国に逃れた民を呼び戻す必要があり、早急な対策が求められていた。
当座を凌ぐために、尚隆は直ぐにできることが何かを考えた。そして、王宮に残るもので売れるものは全て売ることにしたのだ。
御物を、調度品を、それこそ玉座を飾る宝玉さえも剥がして売った。不要な建物も取り壊し、木材や石材として売り払った。
「──昔、私もそれをやろうとしたけれど、大反対されたよ」
景王陽子はぼそりと呟いた。尚隆は思わず笑いを零す。波乱の国と呼ばれた慶ではあったが、王宮を空にしなければならないほど貧しくはなかったはずだ。
「非常時だったからな。雁には三十万の民しか残っていなかった」
「三十万……」
「そうだ」
伴侶はそう呟いて絶句した。一国の人口は数百万ともいわれている。それなのに、尚隆の登極当時、雁には僅か三十万の民しかいなかった。
先帝の暴虐により数多の民人が喪われた。その後の王なき数十年に耐えられず、多くの民が命を落とし、或いは雁を逃げ出していったのだ。
「まあ、官吏たちも、首を切られ、私財を没収されるよりはましだったのだろうよ」
尚隆はそう言って笑った。そして話を続けた。
天勅を受けた後に赴いた玄英宮は、壮麗な宮城であった。そして、伏礼する諸官は皆、仰々しいほど立派な身なりをしていた。そして、それが国の威儀なのだと信じているようだった。しかし。
国が疲弊し切っているときに、威儀だなんだと見栄を張る余裕などなかろう。
ただでさえ少ない人口を断罪で喪うわけにはいかなかった。逃げ出した民を国に呼び戻さなければならかった。そのためには、纏まった財が必要だったのだ。
呆気にとられ、渋っていた諸官も、最後には従った。何しろ、新王の勅命だったからだ。
が、そこまで話しても、伴侶は納得いかない、というように眉を寄せる。尚隆はにやりと笑った。
「昔……俺は、お前が玉座に就かぬと国が滅ぶ、と言ったな」
「──言ったね」
「あれは、脅しだ」
尚隆は、塙王に追われ、雁に逃げてきた景王を保護した。当時、戴と巧が荒れていた。もう一つの隣国である柳の様子もおかしかった。隣接する慶には早く落ち着きを取り戻してほしかった。
が、景王陽子は、玉座を拒んだ。尚隆は、頑固な陽子の説得に難儀したものだった。
「──脅し?」
案の定、景王陽子は訝しげに訊き返す。尚隆は人の悪い顔をして先を続けた。
「国が完璧に滅ぶことなど有り得ん。国が完璧に整うことがないようにな」
「──?」
伴侶は小首を傾げた。王のいない国は荒れる。隣国の女王は、救いようのないような荒廃を何度も見てきた。故に、その疑問もよく分かる。しかし。
王が如何に暴虐の限りを尽くそうと、民を全て殺すことはできない。梟王に虐げられ、王なき数十年に辛酸を舐めた雁にも、三十万の民が残っていたのだ。延王尚隆は隣国の女王を見つめ、微笑を返した。
「折山の荒、亡国の壊と言われた雁にも、なんとか暮らしている州があったのだ」
2009.09.18.
4周年記念長編「滄海」連載第3回、今回は「延景対談」をお送りいたしました。
新婚旅行のはずなのに、ちっとも甘くなくてごめんなさい。
2009.09.18. 速世未生 記