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滄 海 (4)

* * *  4  * * *

 雁州国王都関弓は賑わっていた。新王が践祚して早二十年。天災は格段に減り、妖魔が現れることも少なくなった。他国に逃れていた民人が戻り、荒れ果てていた雁は、少しずつ復興している。
 凌雲山の麓に扇状に広がる関弓の街は、堅牢な隔壁に守られている。その隔壁の外を取り巻くものは、豊かな緑の農地だ。
 新王が発布した初勅は「四分一令」。公地を四畝開墾した者にそのうちの一畝を自地として与える、というものだった。

 王が地の実りを恵んでくださる──。

 荒廃に疲れていた人々は、再び鍬を手にした。掘れば瓦礫が出てくる荒れ地を、黙々と耕し続けた。そうして大地には緑が戻り、子供の声も聞こえるようになったのだ。
 無論、荒廃の爪跡が全て払拭されたわけではない。が、少なくとも関弓周辺には活気が満ちている。以前は閑散としていた街中の広途にも、粗末ながら小店が立ち並び、行き交う人々の顔は明るかった。

 これが、天命受けし王の御座す国。理不尽な天災や跋扈する妖魔に襲われずにすむ国。

 王なき長い時を何とか生き延びた人々は、今日より豊かな明日が来ると信じられる幸せを噛みしめていたのだった。

 そんな関弓の繁華街。鮮やかな緑色に塗られた柱に彩られた店に入っていく者がいる。さっぱりとした身なりの男たちは、注目を浴びていた。
「──元州の連中だよ」
「関弓の妓楼に出入りするなんて、随分と羽振りがいいんだねぇ」
「元州は豊かだというからね。頑朴は関弓より大きいそうじゃないか」
 街の者が羨ましげにそう言った。それを受け、博識を誇る者がしたり顔に語り出す。辺りの者はそれに耳を傾けていた。

 元州は王都関弓がある靖州の西に位置する。先帝の暴虐に唯々諾々と従った元州侯は、虐げた領民の報復を恐れ、宮城の奥深くに隠れたという。後を引き継いだのは、元州侯の息子で令尹を務めていた斡由だった。
 王なき時代、荒廃が雁を席巻した。折山の荒に曝され、呑まれていく国土の中で、元州だけは辛うじて踏み止まっていた。切れ者の令尹斡由の統制で、秩序を保ち続けていたのだ。

 元州は豊かだ。頑朴は夢のようだ。

 じりじりと沈みつつ持ち堪えていた元州を通り、靖州を抜ける民人が、そんな噂を流しながら国外へ逃れていった。

「──ほう、元州はそんなに豊かなのか」

 のんびりとした声に、人々は振り返る。背の高い男が笑っていた。語っていた者は、男に向かって大きく頷きつつ話を続けた。
「そうらしいが、これからは関弓も負けないはずだ」
「そうだ。関弓は、王のお膝元だからな」
「今年の麦は豊作だというし」
 豊かな元州を羨ましがっていた者たちが誇らしげに同意した。その意気だ、と男は笑い、ゆっくりと去っていく。街の者たちは尚も話を続けていた。

 身を窶した延王尚隆は、街を見回しながらのんびりと歩く。街の者たちが話していたとおり、王都関弓は活気に満ちていた。

 これからもっと良くなっていく。

 そう語る民の顔は明るい。尚隆は、そんな期待をよく理解できた。騎獣の上から見渡した緑野は、豊かに実っている。緑は、昨年より確実に増えているのだ。

 王が玉座に在るだけで天災が減る。跋扈していた妖魔が現れなくなる。海に映る月影を潜ってやってきた国は、尚隆の知らない理に支配される奇妙な世界だった。

「ほんとうにそんなことがあるのか?」
「さあな。そう言われているんだから、そうなんだろうよ」

 半信半疑で訊ねると、宰相であるはずの六太は気のない返事を寄こした。実感はなかったが、伺候する諸官は、ぴたりと天災が已んだ、と称した。下界へ降りると、民が口々にそう言って喜んでいた。そして、人々の言葉どおり、年々緑が増えていったのだった。

 緑とともに人も戻ってきている。特に、肥沃な平野が多い元州に集落が増えている、との奏上があった。先帝が堤を切ったために無人だった土地が、帰国した人々によって開拓されている、と。
 黒海に面した沿岸部一帯は、季節ごとに氾濫を繰り返す大河、漉水によって作られた肥沃な土地だった。地の恵みを齎す漉水は、同時に流域の里廬を襲う脅威でもある。人口が増えた村落を守るための漉水の治水工事については度々奏上されていた。元州侯には治水の権限がないからである。尚隆はひとりごちた。

「──元州、か」

 官の口にも民の口にも元州の話題が上る。実際、関弓を元州の者が闊歩しているという。それが、何を意味しているのか。己の目で調べる必要があった。
 瀬戸内にいたときも、尚隆は軽装で城下を歩き回った。乱世だったあの頃、屋形に閉じ籠っていては情勢が掴めなかった。それは今も同じ。
 何もかもが違うこの世界で、国をどう興していくか。民が何を求めているか。玉座に坐り、諸官の話を聞くだけでは理解できなかった。ならば、求めるものは、己で探す。尚隆は元州の者が時折現れるという妓楼に足繁く通っていた。
 初めてその妓楼を訪れたときに出迎えたのは愛想のよい女将。尚隆は一番良い房室を借り受け、幾人もの芸妓を集めた。金離れのよい客を、女将が歓迎したのは言うまでもない。何度か通ううちに、尚隆はすっかり上客となっていた。

「いらっしゃいませ、風漢さま」
「世話になる」
 満面の笑みで迎える女将に応えを返し、騶虞すうぐを預ける。そうして尚隆は、いつものように一番良い房室に芸妓たちを集め、くだらない賭博に興じた。
「──風漢さまの負けですわね」
「有り金を全部摩ってしまったな」
「それでは騶虞すうぐをいただきますわ。それでも足りないかもしれない」
「では、下働きでもして返すとするか」
「良いお覚悟ですわね」
 女将は楽しげに笑い、尚隆を促す。囃し立てる芸妓たちに見送られ、連れて行かれたところは妓楼の院子。そこで箒を渡された。
「お望みどおり、下働きをお願いいたしますわね」
「庭掃除をすればよいのだな」
 にっこりと笑う女将に同じくにっこりと笑みを返し、尚隆は素直に庭掃除を始めたのだった。

「風漢さま」
 声をかけられて顔を上げる。馴染みの花娘が回廊から見下ろしていた。片手を挙げて応えると、花娘はゆっくりと院子に降りてきた。
「──ほんとうに庭掃除なんかさせるなんて、女将さんときたら」
「賭けに負けたのだから仕方あるまい。お前はこんなところで油を売っていてよいのか?」
「ちょっとくらい息抜きしたっていいでしょう。これから、楽しくないお座敷なんだもの」
 花娘はそう言って眉間に皺を寄せた。尚隆は覚束ない手つきで箒を動かしながら軽く笑う。
「客に愚痴を言ってよいのか?」
「だって、今は下働きなんでしょう? 愚痴くらい聞いてくださいな」
 花娘はそう言って深い溜息をつく。尚隆が笑って頷くと、花娘は問わず語りを始めた。

 月に何度か訪れる武人風の客がいた。武人の格好はしていないが、剣呑な気配は隠し切れていないのだ。何人かで数多の芸妓を借り受け、風采の上がらない小役人風の男を接待させる。その後、彼らは大きな荷を持って妓楼を出ていくのだ。

「知らぬ振りをしておもてなしをするのがあたしたちの仕事だけどね、楽しくないのよ」
「どうして楽しくないのだ?」
「──目がね、怖いの」
 そう続けて花娘は己の肩を抱き、少し身を震わせた。そして、不安げに尚隆を見つめる。
「──わざわざ元州から関弓の妓楼に来て、何をしているのかしらね」
「知らぬ振りをして客をもてなすのがお前の仕事なのだろう。余計なことは考えぬほうがよいのではないか?」
「──そうね」
 尚隆の感想に、花娘は小さく溜息をつく。そのとき、回廊から花娘を呼ぶ声がした。花娘は顔を蹙めてそれに答え、尚隆を振り返る。
「あたしは風漢さまのお座敷が好きよ。何も考えなくていいから」
「お言葉だな」
「また来て、あたしを呼んでね」
「また来るためには一度帰らなければならぬが、帰れるかどうか分からぬな」
 おどけた答えを返すと、花娘は大笑いした。それから、仕事が終わればいつかは帰れる、と慰めにもならないことを言って去っていった。

 賭けに負けた甲斐があったな。

 尚隆は庭を掃除をしながら唇を緩める。客として妓楼にいるだけでは知ることができない情報を手に入れた。

 妓楼では、後ろ暗いことが行われているものだ。元州の者が、豊かさを見せつけるためだけに妓楼で遊ぶわけではあるまい。花娘の華やかな接待を供する代わりに何を手にしているのか。尚隆はそれを知りたかったのだ。

 元州師が暗躍している。ならば、手にした荷の中身は知れている。

 玄英宮に帰ったら、早速成笙に調べさせよう。尚隆はくつくつと笑ってひとりごちた。

「──そろそろ迎えが来る頃かな」

 それからまもなく、妓楼に帷湍が現れたのだった。

2009.10.09.
 長編「滄海」連載第4回をようやくお届けできました。
 さて、序章が終わり、本編突入でございます。 楽しく後半を書きました。 が、書き終えるまでに書き流した御題や拍手は何本でしょうね?  数えないほうがよいですね……。
 次回も気長にお待ちくださいませ。

2009.10.09.  速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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