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滄 海 (5)

* * *  5  * * *

「──そんな所で何をしているんだ」

 不意に聞き慣れた男の声が回廊から降ってきた。その、怒りを無理に押し殺したような声色。来たな、と胸で呟いて、延王尚隆は唇を緩めた。
「見て分からぬか? 庭掃除だ」
 尚隆は箒で院子を掃きながら、顔も上げずに応えを返す。さて、短気なこの男が、どこまでこんな会話に付き合うか。それを確かめるのも一興だ。尚隆は内心ほくそ笑む。はたして、男は苛立たしげに問い質した。
「──なんで妓楼の庭掃除などしてるんだ。客だろうが」
「賭けで大負けして、有り金を全て摩ってしまったのだ。騶虞すうぐをやってもまだ足りぬそうだからな。身体で返すしかなかろう」
 顔を上げて、にっこりと笑みを送る。そこまで言ったところで、ついに男は青筋を立てた。そろそろか、と思い、尚隆は男をじっくりと観察する。握った拳がわなわなと震え、とうとう男は怒声を上げた。
「いったい何を考えてるんだ! そんなことをしている場合ではなかろうがっ!」
「借金を払わなければ帰ることなぞできないだろう。踏み倒せというのか?」
 尚隆は飄々と続ける。が、言い終わる前に、男はくるりと踵を返して姿を消した。きっと女将の許に交渉しに行ったのだろう。相変わらず気短な男だ。そう思い、尚隆は苦笑した。

 男の名は帷湍。尚隆の側近の一人である。尚隆が登極したばかりの頃、玉座の檀上に戸籍を投げつけて王を罵った兵であった。
 臆せず物を言う帷湍を気に入って、地官の一である遂人に取り立てて側に召した。その際、猪突猛進な行動に因んで「猪突」という字を下賜したのだった。
 帷湍はあの頃から少しも変わらない。尚隆の行状に怒り、思うままに王である尚隆を罵る。我ながら良い字を付けたものだ。尚隆が一人感心していると、帷湍が戻ってきて手を振った。
「帰るぞ」
「しかしな」
「金は払ってきた。さあ、帰るぞ」
 予想どおりの答え。帷湍は怒りを堪えつつ、渋る女将に言い値を払ってやったのだろう。強かな女将の満面の笑みが目に浮かぶ。
「──帷湍」
「なんだ」
「お前、金持ちなのだな」
 箒を置いた尚隆は、にっこり笑ってそう告げる。すると、帷湍は更に青筋を立てた。
「くだらんことを言っている場合かっ! とっととしろ!」
 院子に帷湍の怒号が轟いた。何事か、と顔を出す花娘たちに片手を挙げて愛嬌を振り撒き、尚隆はゆっくりと院子を後にした。

 尚隆は怒りに震える帷湍とともに妓楼を出た。そして、帷湍の諫言を聞き流しながら玄英宮に戻った。禁門に到着し、尚隆を門卒に託すと、帷湍は降りたばかりの騎獣に再び跨った。
「ここから一緒に入った方が早くはないか? お前にはその権があるはずだが」
 そう、側近である帷湍には、様々な特権を与えた。即ち、帷湍は王と宰輔しか使えない禁門を使用し、王の臥室に立ち入り、内宮の奥まで騎乗することができる。そして、王の前でいちいち平伏しなくてもよいのだ。
「正門に戻っても、内宮にて衣服を改めている間に充分追いつける」
 帷湍は低くそう言ってなおざりに頭を下げ、さっさといなくなった。成程、内宮にて確実に衣服を改めよ、ということか。帷湍なりに釘を刺したつもりなのだ。
 己の主を怒鳴り、罵倒する割に、帷湍は頭の固いところがある。与えられた特権に驕ることなく、職務を遂行しようとする。今日のところはそんな実直な側近に敬意を表してみようか。尚隆はそう思い、素直に軽装を改めたのだった。

 私室に戻ると、取り次ぎ役の下官が扉の前で待っていた。尚隆を見るなり下官は平伏する。そんな下官を促すと、冢宰が面会を求めている、という。尚隆はにやりと笑って答えた。
「王は不在だと伝えよ」
「──畏まりまして」
 いつもの答えに、下官は軽く溜息をつく。それから、慇懃に礼をして下がっていった。

 六官の長たる冢宰は、さぞや立腹することだろう。何しろ、王である尚隆が出席した今月の朝議は、ただ一度きりなのだ。

 無論、登極当時は毎日朝議に顔を出したものだ。何しろ、来たばかりで何も分からなかったのだから。
 尚隆は、玄英宮の流儀と朝議に参加できる高官の為人を冷静に観察し、詳細に分析した。それを把握してからというもの、尚隆の朝議出席回数は激減した。
 登極したばかりの王朝には、情理が通用しない。専横する官は、私腹を肥やすことばかり考える。もう既に、国庫は空同然だというのに。
 言を弄する奸臣の、中身の薄い話など聞く気にもなれない。だから、毎日開かれるはずの朝議を三日ごととしたのだ。
 尚隆は、諸侯諸官を解任して新官を登用することをしなかった。雁はただでさえ人口が少ないのだ。そして、それに割かれる時間も惜しかった。専横していた官吏たちが、新王の出方を見守り、鳴りを潜めていたせいもあった。

 それから、尚隆は気儘に宮城を歩いた。そして、少しずつ心ある官を拾っては側に召していった。
 まず、檀上に戸籍を投げつけた猪突猛進な帷湍。その他には、興王か滅王、どちらが好みの諡号か、と尚隆に迫った無謀な朱衡。そして、先帝に諫言して捕らえられ、王の命なくば出ないと言い放って石牢で五十年を過ごした酔狂な成笙などであった。

 財を預けておくと考えるが良かろう。派手に使っている者だけを取り締まり、私腹を肥やす者は放っておけ。時至れば一気に返済してもらう。

 尚隆は、奸臣に憤る側近たちにそう命じた。そして、内政が落ち着きつつある今、官吏を整理する時が近づいている。

 梟王に任ぜられた諸侯諸官は、延王尚隆の臣ではない。尚隆は専横を放置する代わりに州侯の権力を制約した。官吏を解任せずに、厳選した側近のみで凌いできた。故に、今は微妙な均衡を保っている。が、改めて罷免するときには、猛烈な抵抗があるはずだ。
 そして今や、国土に緑が戻りつつあり、民にも余裕が見えてきた。先見の明ある者は、もう水面下で動き始めているはず。そう、元州のように。尚隆は小さく呟いた。

「──元州、か」

 切れ者の令尹は、何をするつもりなのか。豊かさを武器に、良からぬことを考えているのか。

 長い冬が終わる。土の中で蠢く者は、いつ、どんな行動を起こすのだろう。これから、動乱の時が始まる。

 六太は、どれだけ嫌がるだろう。

 血を厭う麒麟の顔を思い浮かべ、延王尚隆は唇を歪めたのだった。

2009.10.16.
 長編「滄海」連載第5回でございます。
 軽い前半に引き替え、何やら重い後半……。 ギャップが大きいかもしれません。ご勘弁くださいませ。

2009.10.16.  速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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