滄 海 (6)
* * * 6 * * *
「──どこ行ってたんだよ」
私室の扉を開けるなり、不機嫌な声が響いた。雁州国宰輔延麒六太である。六太はいつものように大卓の上に陣取り、尚隆を睨めつけていた。尚隆は軽く笑って応えを返す。
「答える必要もないと思うが」
麒麟には王気が分かるという。故に、六太は尚隆の居場所を知っていたはずだ。現に、尚隆と一緒に戻った帷湍よりも先にここに来たのだから。案の定、六太は面白くもなさそうに不平を並べた。
「どうせ妓楼だろ。主の素行が悪いと、こっちまでとばっちりを喰っちまう」
「ご挨拶だな。素行の悪さなら、お前も負けていないだろうに」
言って尚隆は唇を歪める。主従揃って朝議に顔を見せることがない、という官の嘆きは、尚隆の耳にも当然入っていた。が、尚隆も六太の行き先に関知してはいない。六太は腕を組み、尊大に応えを返した。
「おれは妓楼になんか行ってない」
「妓楼でなければよいのか?」
「──漉水の堤防の件、お前、約束の刻限にいなかったろ」
どこまでも続くと思われた軽口の応酬が唐突に終わる。六太は、とうとう本題を口にした。
文句を言うからには、六太は今日の朝議に引っ張り出されたのだろう。であれば、その後、待ち構えていた朱衡に捕まったに違いない。尚隆はそう察して尚も軽口を返す。
「已むに已まれぬ事情があればこそ、だ」
「けっ、どんな事情だよ」
六太は大仰に顔を蹙めた。不穏な話は、麒麟である六太を不快にさせるだけだ。それもあって、尚隆に事情を説明する気はない。分かっているからこそ、六太は渋い顔で話を続けた。
「州侯の権を制限したんだ。だったら治水はお前が考えるべきだろ。じきに雨期がくる。早く手をつけねえと間に合わなくなるぞ」
尚隆は軽く吹き出した。一見まともなことを言っているように聞こえる。だがしかし。
「帷湍と朱衡に尻を叩かれたか。だが、お前こそ何も考えてないのだろう?」
「お前が王だからな」
「そうだ、俺が王だ」
だから好きにする。延王尚隆には、その権があるのだ。
言外の言葉を悟り、六太は嘆息する。眉根を寄せた六太が再び口を開きかけたとき、唐突に扉が開いた。
入ってきたのは、帷湍と朱衡と成笙。側近中の側近が揃い、尚隆は諫言という名の説教を聞かされる羽目に陥ったのだった。
律儀に妓楼まで迎えに来て尚隆の借金を立て替えた帷湍が、あれほど恥ずかしい思いをしたのは初めてだ、と詰る。
柔和な口調ながら言うべきことははっきりと言う朱衡が、国の帆たる王がこのありさまでは民に顔向けができない、と嘆く。
滅多に口を開かぬ成笙でさえも、こんな愚王に使われる己までが不甲斐ない、と零した。
そして、無責任に合いの手を入れていた六太も、同罪だ、と三人に怒鳴られたのだった。
矛先が六太に移り、尚隆は一息つく。そして、簡単に主を裏切る六太を揶揄した。そこからまたおちゃらけた舌戦が始まる。優しげでいて案外気の短い朱衡が卓を叩くまで、延々とそれは続いた。
「──分かった」
尚隆は手を上げてそう答えた。日頃の行いのせいか、側近は信用しない。尚隆は重ねて言った。
「西のほうがキナ臭いことでもあるしな。しばらくおとなしく玉座を温めている」
西、と呟いて側近たちは尚隆を見た。元州が出てくる、と尚隆は笑った。人払いしてあるにもかかわらず、帷湍が後ろを振り返る。六太が露骨に顔を蹙めたが、尚隆は気にせずに街で仕入れた情報を披露する。元州師の兵が、妓楼で手にしている大きな荷のことを。
「関弓で何かを仕込んで──?」
帷湍が呟く。尚隆は妓楼で聞いた話を胸で反芻する。目が怖いのだ、と花娘は尚隆に訴えた。何も知らぬ花娘でさえ感じる剣呑さ。連中が妓楼にて受け取る荷の中身は、恐らく武器だろう。尚隆は己の推測を口に出した。
「食料なら問題はないが、武器だったとしたら?」
しかし、と朱衡が首を傾げた。街中の武器を買い漁ればそれこそ噂になるはずだ、と。尚隆は笑みを浮かべて成笙に目を移した。
「関弓には王師の武庫があるな」
尚隆の指摘に、先帝の時代に禁軍将軍を務めた成笙は、黙したまま目を細めた。
梟王が武庫に集めた膨大な数の武器は、国庫の足しにするために売り払った。あまりに大量に出回った武器は、後にほとんど値がつかなくなった。故に、武庫には今なお武器が山と積まれたままなのだ。
しかし元州侯は、と朱衡がまたも首を傾げる。帷湍がそれに頷いた。そう、元州候は、先帝の勘気を恐れ、先帝登遐後は民の報復を恐れ、現在は新王である尚隆の罷免を恐れ、内宮の奥から出てこない。気を病んでいるとの噂もある。
が、思い詰めた者のほうが怖い。そして、元州には切れ者の令尹がいるのだ。元州候の息子、斡由が。
尚隆が淡々と説明すると、帷湍が瞬いた。よく知ってるな、と妙に感心したように続ける。この男はこういうところが単純で可愛らしい。尚隆は吹き出しそうな内心を押し隠し、民の噂話とは侮ったものではない、と告げた。しかし。
朱衡は騙されなかった。間諜の真似などしなくて良い、と朱衡は怒声を上げる。尚隆は、やれやれ、と天井を見上げた。そのとき。
不機嫌な顔をした六太が席を立つ。尚隆は、答えが分かっていながら、敢えて六太に問い質した。
「──どうした、六太」
「おれには向かない話になってきたから、出てる」
六太は退出しながら振り返り、捨て科白を吐く。血を厭う麒麟の言に、尚隆は苦笑して頷いた。
「──台輔にはお辛い話でしょうね」
「だが、今までよく保った」
六太を見送り、朱衡と帷湍が漏らす。聞いて成笙も頷いた。貧しい雁には、くすねる利がなかった。荒れ地を黙々と耕した民のお蔭で、ようやく蓄えができつつある。税の半分以上が奸臣の懐に消えていてさえも。
「最近、妙な動きをする者が増えましたね」
朱衡はそう言って尚隆を見やる。尚隆は軽く頷いた。朱衡は朝士。位は高くないが、外朝を監督する官だ。朱衡の奏上により、奸臣の把握はある程度できている。しかし。
裏をかこうとする者が、必ず現れる。そして、後ろ暗い企みのために結託しようとする者どもが。危うい均衡はそろそろ崩れるだろう。奸臣に預けておいた財を一気に返してもらうとすれば、尚更だ。
「内乱は、避けられぬ」
言って尚隆は側近たちを見据える。三人は気を引き締めた貌で首肯した。
「成笙、さりげなく武庫を調べろ。数を確認するだけでよい」
成笙は頭を下げて退出した。その背を見送り、帷湍は緊張した面持ちを見せる。二十年もの間、戦など起こらなかったのだ。その反応は、当然ともいえる。しかし、通らずには済まされぬ道であることは確かだ。尚隆は唇を緩め、榻に横たわった。
「話は済んだ。お前たち、下がってよいぞ。俺はひと眠りする」
途端に帷湍が蟀谷に青筋を立てた。拳を握って震える帷湍を宥め、朱衡がにっこりと笑む。
「主上、そんなにお暇であれば、拙がお仕事を差し上げましょう」
そう言って、朱衡は懐から書物を取り出した。太綱の天の巻である。
「一巻には天子と台輔の心得が書いてございます。反省の証として書写なさいませ」
やれやれ、と尚隆は半身を起こす。ずいと差し出された書物の受け取りを拒否しつつ、唇を歪めて応えを返した。
「その分仕事が遅れるぞ」
「台輔にも申し上げましたが、いまさら一日遅れたところで大差はございませんよ。明日検めにまいります」
朱衡は書物を尚隆に押しつける。そして、文句のつけようのない天晴な笑顔でもってそう言い切った。その尻馬に乗り、帷湍が口を出す。
「そののんきな頭に天子の心得を叩きこむんだぞ」
言うだけ言って、朱衡と帷湍は退出していった。置き去りにされた書物を摘み上げ、尚隆はしばし思案する。その後、笑みを湛えて書卓に向かったのだった。
2009.10.24.
長編「滄海」連載第6回をお送りいたしました。
雁の方々は書いていて楽しいです。
皆さまにもお楽しみいただけると嬉しく思います。
2009.10.24. 速世未生 記