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滄 海 (7)

* * *  7  * * *

 太綱の一巻、天の巻。一に曰く、天下は仁道をもってこれを治むべし。著名な一文である。延王尚隆は、書卓に太綱と紙を広げ、腕組みをして考えこんでいた。
 反省の証に天の巻を書写せよ、と朱衡に命じられた。天子の心得を頭に叩きこめ、と帷湍にも言われた。が、蓬山にて天勅を受けたときに、太綱の内容は頭に書きこまれている。

 民を虐げてはならぬ。戦を嗜んではならぬ。税を重くし、令を重くしてはならぬ。民を贄にしてはならぬ。民を売り買いしてはならぬ。公地を貯えてはならぬ。それを許してはならぬ。道を修め、徳を重ねよ。万民の安康をもって国家の幸福とせよ。

 尚隆はすらすらと続きを諳んじた。太綱は当たり前のことを謳っている。が、その当たり前を当たり前に行うことは、存外に難しい。
 人はそれぞれに思惑があり、頭数が増えれば増えるほど、ぶつかりあうものだ。梟王によって間引かれ、数をかなり減らした玄英宮の官吏たちも、未だ覇権争いに忙しい。
 そこまで考えて、尚隆は唇を緩める。おもむろに筆を取り上げ、一文を書き綴った。一に曰く、天下は金勘定をもってこれを治むべし。
 この痴れ者が、という帷湍の怒鳴り声が聞こえてきそうだ。朱衡はにこやかに笑み、更なる仕事を言いつけるのだろう。そして成笙は、眉根を寄せて口を引き結ぶだろうか。
 筆を置き、黒々と書かれた文字を見つめ、尚隆はひとり悦に入る。この調子で内容を書き換えていくのも一興だ。尚隆は再び腕を組んで考えに耽った。

 梟王から位を買った諸官は、口では登極を祝福しながらも、尚隆の動向を注視していた。解任を免れた奸臣たちは、安心したように税をくすねている。天領などは、尚隆が玉座に就いてから、上納があった例が一度もないほどだ。
 側近らは憤るが、そういう輩も財を蓄えているのだ、と思えばそれなりに役立ってはいた。要するに、国が富めばそれでよいのだから。
 そんなことを口にすれば、側近たちにさぞや嘆かれるだろう。だが、奸臣といえど、延王尚隆が治める雁の国民であることに変わりはないのだ。
 とはいえ、何十年も美味しい思いをしてきた者たちに、もっと国の役に立ってもらう術を考えなければならない時期が到来した。連中にも己の金勘定だけでは国は回らないのだ、ということを理解させる必要がある。
 尚隆はそんなことを取りとめもなく考えていた。そんなとき、唐突に聞き慣れた声がしたのだった。

「生臭い話は終わったか?」
「まあな」
 尚隆は顔も上げずに応えを返した。近づいてきた六太は、書卓に広げられた太綱を見て、どちらが主か分からない、と苦笑する。そして、尚隆が書いた一文を目にし、呆れ声を上げた。
 ひとしきり軽い舌戦を繰り広げる。相も変わらず一国の王と宰輔が交わすとは思えない会話だ。が、下界の荒廃と蓬山の安寧の差異に蟠りを感じていた六太は、素直に本心を述べることが苦手なのかもしれない。
 軽口の応酬の挙句、尚隆の拳を躱した六太は大卓の上に飛び乗って胡坐をかく。そして、そのまま尚隆に背を向けた。尚隆は小さな背を見つめる。六太はぽつりと問うた。

「──内乱になるか?」
「なるだろうな」
「たくさん、人が死ぬ」

 尚隆が肯定すると、六太は呟くように続けた。至極当たり前のことを今更言うか。そう思うと笑いが込み上げてくる。
 国などないほうが民のため。王がなくても民は立ちゆくが、王は民なくば立ちゆかない。民が働いて収穫したものを、王は掠め取る。その代わりに、王は民一人一人ではできぬことをやる。尚隆の言に、六太は首肯した。

「畢竟、王は民を搾取し、殺すものだ。だから、できるだけ穏便に、最小限を搾取し、殺す。その数が少なければ少ないだけ、賢帝と呼ばれる。だが、決してなくなりはせぬ」

 薄く笑い、尚隆はそう断じる。あちらでもそうだった。他国に攻め入られることがないこちらの世界でも、それに変わりはない。しかし、聞いた六太はむっつりと黙りこんだ。
 麒麟は戦を嫌い、血を厭う。そういう生き物だ。だから、戦は王である尚隆が引き受ける。が、六太は戦の話を聞くことすらも厭うのだ。
 皮肉なことに、そんな麒麟が首都州の州侯と決まっている。靖州侯でもある六太に、兵だけを寄こして宮城に隠れていろ、と諭せば、民は戦を望んでいない、と切り返す。麒麟は民意の具現なのだ、と。軽口の応酬のようで、内容は重い。
 無論、市井の民は戦を望んではいまい。しかし、不満のない者はいない。現に、戦を望み、その準備をしている輩がいるのだ。そして、その者たちも須らく雁の国民なのだということを、六太は忘れている。

「殺すまいと無理をして、のちに万殺すよりも、今ここで百殺して終わらせてしまったほうがましだろう」
 笑みを湛え、尚隆は説得を続けた。戦など、避けられるものならば避けたい。現に、これまでの二十年はそうしてきた。しかし、此度の戦は、避けては通れぬ類のものだ。が、言外に含むものをも、六太は拒絶した。

「お前なんか滅帝で充分だ」

 六太は大卓から飛び降り、捨て科白を吐いて出ていこうとした。尚隆は書卓に向ったまま声をかける。

「任せておけ、と言ったろう」

 振り返る気配がした。初めてこの地に降り立ったとき、六太は尚隆に言ったのだ。一言、頼む、と。荒廃した国を背負う者に切なる願いを託され、尚隆は笑みを返したのだ。
「嫌なら目を瞑って耳を塞いでいろ。これは通らずにはすまない道なのだからな」
 尚隆は重ねて声をかけた。向けた背に視線を感じた。しばらくして、六太は再び踵を返した。

「──おれは知らない。お前に任せた」

 頑なな応えを返し、六太は出ていった。尚隆は唇を歪め、小さく息をついた。

 翌朝、宣言通り朱衡が書写を検めにやってきた。尚隆はにやりと笑って書卓を指差す。書写を取り上げた朱衡は、予想に違わず大きな溜息をついた。
「主上、今日はお遊びの時間を差し上げるわけにはまいりませんね」
「洒落の分らん奴だ」
 尚隆の悪態を無視して朱衡はさっさと尚隆を先導した。どうやら見張りをするつもりらしい。尚隆は朱衡と成笙に挟まれて朝議の間へと連行された。同じく帷湍に見張られて現れた延麒六太とともに、久しぶりの朝議に挑んだ。

 退屈な朝議を終えてから、六太の許に取り次ぎの官がやってきた。久しぶりに友が訪ねてきた、と六太は嬉しげに出掛けていった。そして、そのまま姿を消したのだった。

2009.10.31.
 長編「滄海」連載第7回でございます。
 相変わらず、ちっとも新婚旅行じゃなくてごめんなさい〜。 そのうちきっと陽子が御題で登場することでしょう……。

2009.10.31.  速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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