滄 海 (8)
* * * 8 * * *
尚隆は言葉を切った。秋風が、松の枝を揺らしている。さらさらと耳に心地よい音を立てているのは、松枝だけではない。尚隆は、視界の端で揺れる赤い色に、ゆっくりと視線を巡らせた。
風に髪を靡かせる美しい横顔が目に映る。少し顔を俯けて、伴侶は膝の上に組んだ己の手を見つめていた。もっと大きければいいのに、と溜息をつきつつ見ることが多い、小さな手を。
黙して尚隆の語りに耳を傾けていた伴侶。その胸に過るものを聞いてみたい。尚隆は、空いている右手をそっと伴侶の手に重ねた。
「二十年も内乱なしに過ごしたんだ……」
面を上げることなく、伴侶がぽつりと呟く。見ると、伴侶は王の貌をしていた。景王陽子は己の登極当時を思い出していたのだ。尚隆は、左手で抱き寄せている伴侶の肩を軽く叩き、軽く笑った。
「雁には何もなかったと言ったろう。戦をする金も、暇も、人すらもなかったのだぞ」
「でも、凄いことだと思う。六太くんは、幸せな麒麟かも」
登極してすぐに自ら内乱を鎮めた女王は、自嘲の笑みを見せる。あのとき、景王陽子は戦場に景麒を呼び寄せ、血に濡れた己を背に乗せろ、と命じた。戦を終わらせるためとはいえ、血を厭う麒麟に与えたその命を、景王陽子は今でも気に病んでいるのかもしれない。
「──陽子」
名を呼ぶと、伴侶は躊躇いがちに顔を上げた。輝かしい翠の瞳は、憂いに翳っている。そして、その瞳に映る尚隆は、穏やかな貌をしていた。
「お前のような主を得た景麒は、十二分に幸せだと思うぞ」
「尚隆……」
「そして、そんなお前を得た俺も」
小さく首を横に振る伴侶に優しく口づける。伴侶は頬を染めて再び首を振った。大きく見張られた目とともに、その仕草は見かけどおりの少女のよう。尚隆は目を細めて笑いを零した。伴侶は少しだけ頬を膨らませ、不満を表す。が、尚隆が重ねた手に力を籠めると、肩を竦めて苦笑した。
それから、伴侶は不意に悪戯めいた貌をして尚隆を見上げた。そのまま、ゆっくりと重ねられた手を解く。怪訝に思って見つめると、伴侶は鮮やかに笑って立ち上がった。
「少し待ってて」
そう言い残し、伴侶は軽やかに走り去る。何も言えずにその背を見送ると、左の寒さが身に沁みた。
伴侶の温もりを知らなかった頃、己はどうやって過ごしていたのだろう。
伴侶を得てからの時間は、その髪のように鮮やかな色彩を保っている。その前は、墨一色で描かれた絵のように味気ない。尚隆は遠い昔に想いを馳せ、苦笑を浮かべた。
膝の上に頬杖をつき、目を閉じる。髪を靡かせる風も、暖かな秋の気配も、あの頃と変わりない。それなのに、ここに伴侶が居る、と思うだけで、空気が和らぐ。ずっと抱き続ける苦い想いすらも。
やがて、伴侶は茶器を乗せた盆を持って戻ってきた。手ずから淹れられた熱い茶の馥郁とした香りが快い。そっと茶杯を差し出して、伴侶は淡い笑みを見せる。
「話の腰を折ってごめんね」
そう詫びて、伴侶は再び尚隆の左に寄り添う。その確かな温もりと、心尽くしの熱い茶に心癒され、尚隆は笑みを返した。
「六太は、主の温情を理解する麒麟ではなかったな」
そう漏らすと、伴侶は小さく笑った。そして、話の続きを促すように尚隆を見つめる。尚隆は軽く頷き、おもむろに口を開いた。
「──友に会う、と言って出掛けたきり、六太は深更になっても戻らなかった」
何も言わずに姿を晦ますことが多い六太ではあったが、己の立場は弁えている。もし抜け出すとしても、夜半から早朝にかけてで、周囲の者を心配させるほど遅い帰城はなかった。
外の闇を見つめつつ、尚隆は考えを巡らせる。戻ってこない、ということは、戻れない理由があるのだろう。六太には使令がついている。六太が抵抗すれば、必ずその身を使令が守るのだから。
何かあったのでは、と心配する朱衡の声には、さてな、と応えを返し、尚隆は情報を待った。そこに血相を変えた成笙が飛びこんできたのだった。
滅多に口を開かず、表情を変えることのない男を揶揄すると、ふざけている場合か、と怒号が返ってきた。六太の供をした亦信の死体が見つかった、というのだ。尚隆は成笙の顔を見つめた。
成笙は、表情を強張らせたまま、台輔の行方はしれない、続けた。尚隆は亦信の顔を思い浮かべる。そして、恐らく六太の身を守るために命を落としたであろう亦信のために瞑目した。
「……不憫なことだ。せっかく梟王に殺されずに生き延びたというのに」
朱衡が忠臣に哀悼を表した尚隆を睨めつける。そんなことを言っている場合ではない、と。だが、「そんなこと」ではないのだ。成笙が目をかけて、六太の側に置いた兵が、命を落とした。そして、六太の行方は知れない。
六太はきっと友を名乗った更夜とやらに攫われたのだろう。六太の抵抗を封じ、死体ひとつでそれをやってのけるとは。尚隆の口から六太への苦言が漏れた。
「まったく、六太はもう少し友達を選ぶべきだな。連れ出すたびに監視役を殺されたのではたまらん」
真実の感想は、莫迦者は放っておけ、との帷湍の言葉どおり放置された。帷湍と成笙が話を続ける。六太は更夜という者とともに宮城を出、関弓の外に向かった。ついていった亦信はそこで妖魔に食い殺された。そして、赤子が消えたという訴えがあったという。
子供を盾にされたか。
そう思うと溜息が出る。任せろ、と言い聞かせた。宮城にいろ、と忠告もした。が、六太は人の言うことを素直に聞く可愛げというものを持ち合わせてはいない。
再び六太の無事を気にかける朱衡に、呟くような悪態を返す。三人の側近は無視していたはずの主を一斉に睨めつけた。尚隆は次々に浴びせられる帷湍の怒声を軽く往なす。六太が自ら従ったのならば、心配する必要もない。
誰が、何のために六太を攫ったのか。
麒麟の弱点を衝く鮮やか手際は、裏に周到な計画を窺わせる。兵を蓄えているという元州の仕業である可能性が高い。現に、武庫から武器が消えていたという報告が上がっている。
いま言えることを言って、尚隆は激する帷湍を黙らせる。そして、朱衡に元州の驪媚に連絡を取るよう命じた。同時に、元州の仙籍に更夜という者がいるかどうかの調査をも。
誰が、六太をどう使ってくるか。
赤子を盾にしたからには、これからも人質を取り、六太を動かすかもしれないのだ。尚隆は唇を歪めて外を見る。
「……難儀な餓鬼だ。内乱は嫌だとぬかしながら、自ら火種になるか」
(──おれは知らない。お前に任せた)
六太の捨て科白が胸を過った。尚隆とて、しなくていい戦をするつもりはない。それは、昔も今も同様だ。それなのに──。
戦は嫌だ、と言った六太のために、亦信は血を流した。
六太は、その犠牲をどう受けとめているのだろう。その命の重さ故に大人しく従ったのだろうか。
元州を疑っているのか、と朱衡が問う。尚隆は事実だけを述べた。武庫の武器を調べた成笙が首肯する。こちらが動けば相手も動く、と尚隆は続けた。朱衡は納得する。それには激していた帷湍も黙して頷いた。
尚隆は外の闇に目を向ける。冬の間に土の中で蠢いていたものは、周到な計画の基に動き始めた。元州が単独で動いているとは思えない。
「……さて、実際にはどこが出てくるか。──かなわんな、心当たりが多すぎる」
その呟きに応える者はいなかった。
2009.11.07.
長編「滄海」連載第8回をお送りいたしました。
本編に陽子が登場し、私のほうが驚いてしまいました。
尚隆とともに、皆さまの心を癒してくれるよう、切に願います、
2009.11.07. 速世未生 記