滄 海 (9)
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延王尚隆は宣言どおり玉座を温めている。成笙に六太捜索の指揮を執らせた。朱衡に元州の調査を命じた。手を打ってしまえば、尚隆にできることは、待つことだけだ。
相変わらず中身の薄い朝議に出席し、決済すべき書簡に御璽を押印した。そして、空いた時間は、朱衡が極秘の仕事を滞りなくできるよう与えた後宮の一室に詰めていた。
元州に牧伯として送った驪媚とも国遣の官とも連絡が取れない。やはり、疑わしいのは元州だ。が、尚隆は敢えて口を開かなかった。そして、側近たちは険しい顔で働き続けた。
手掛かりが見つかったのは、六太が消えてから三日後のことだった。元州夏官射士に駁更夜という者の名が見つかったのだ。側近たちは色めき立ち、軍備について討論し始めた。
元州師は黒備左軍一万二千五百だと成笙が告げる。それに対し王師は、禁軍一軍七千五百、靖州師一軍五千、併せてもやっと元州師と同数だ。そう言って帷湍は顔を蹙める。
榻に寝そべって話を聞いていた尚隆は、それははったりだろう、と異を唱えた。が、その言に耳を傾ける者はない。尚隆は構わず一人ごちた。
「辛うじて黄備七千五百、民を懲役して一万というところだと思うがな……」
雲海を見やり、尚隆は考えを巡らせた。この世界には太綱がある。他国に攻め入ることは、敵面の罪という。王も麒麟も数日のうちに斃れる大罪とされる。故に軍備は内政のためだけに用意され、その数は最小限に留まるよう定められている。
常備の兵は、本来ならば、王師六軍に七万五千、各州師に最大四軍三万。州侯の叛乱など問題ではない。逆に、八州が手を結べば最低でも十二万。乱心した王を討てる仕組みとなっている。しかし。
本来三百万人はいるべき成人が、尚隆登極時には三十万しかいなかった。二十年経って多少増えたとはいえ、その数は倍の六十万にすぎない。王師に一万二千五百いるのが不思議なほどだ。故に。
「黒備左軍はありえない……」
尚隆は呟く。しかし、その言葉はまたも黙殺された。王である尚隆を無視して話し合いは勝手に進む。元州の仕業という確証がほしい、と帷湍が力説した。宰輔の身の安全を鑑みれば一刻を争うのでは、と朱衡が提言する。そんな意見を踏まえた成笙が断言した。
「王師の準備を進言する」
聞いて尚隆は首肯する。確かに王師の準備は必要だろう。しかし、どこにどの程度の軍を配備すべきか。それが問題なのだ。
元州師は関弓にて大量の武器を仕入れている。が、馬や車を仕込んだとの話はない。故に、連中は関弓に攻め入る気がない、ということになる。頑朴にて一万の兵で王師一万二千五百を迎え討ち、勝機を見出している元州の真意は何か。
──全軍を出して、がら空きの関弓。
それに気づいて尚隆はにやりと笑う。では、やはり此度のことは元州の単独行動ではない。恐らく、どこか他州との密約が存在する。
そこまで考えて、尚隆は立ち上がる。待つ時間は終わった。こちらが動く時機が到来したのだ。朱衡に見咎められたが、尚隆は構わずに房室を出た。去り際にさりげなく命を下して。
「ああ、──そうだ、勅命を出しておけ。六官三公を罷免する」
どこが出てくるかは分からない。だがしかし、元州に同調し、関弓の隙を狙う州侯は確かに存在する。元州はどうやってその州侯を懐柔したのだろう。
元州には生憎なことかもしれないが、王には強い権がある。己の欲を満たすために動く輩が垂涎するような、甘い餌を与える権が。
朱衡と帷湍が血相を変えて追いかけてきた。尚隆はそのまま帷湍の怒号を聞き捨てる。そして、当然の如くついてくる成笙に命じた。
「連中の顔は見飽きた。──成笙、冢宰に伝えて明日朝議を召集しろ」
「正気か」
「俺が王なんだろう? 俺の勝手にさせてもらう」
さすがの成笙も吐き捨てるように非難の声を浴びせる。尚隆は唇を歪めて言い放った。朱衡は深い溜息をつき、帷湍はまたも怒声を上げる。それをいつものように聞き流し、尚隆は後宮を出た。
王の身辺を守る大僕成笙に命を下して体よく追い払い、尚隆は代わりに後に従う小臣に声をかける。騎獣を用意するよう命じると、毛旋という名の小臣は嘆息して抗った。が、頭の固い成笙の部下にしては洒落が分かる毛旋は、左遷を気にしながらも最後には尚隆に従う。
そろそろ毛旋にもいい目を見せてやってもいいか、と思いつつ、尚隆は笑って玄英宮を飛び立った。
頑朴は関弓の西、徒歩で一月の距離がある。が、空から行けばそう遠くはない。しかも、尚隆が愛用する騎獣は騶虞。空を飛ぶものとしては、麒麟を除けば最も脚が速い。
収穫期が近い麦の穂が揺れる農地を見下ろしながら頑朴へと向かう。二十年前は一面焦土だった。ようやくここまで広がった緑野を踏み躙りたくはない。が、宰輔を攫われては戦を避けられるわけもない。ならば、被害をどの程度に抑えられるか。
(そういう話をおれにするな)
言って尚隆を睨めつけた六太の顔が脳裏に浮かぶ。尚隆は苦笑した。亦信を喪い、赤子を盾にされ、六太は頑朴城でどう過ごしているのだろう。虜囚になったとはいえ、人望厚いと慕われる元州令尹に手荒に扱われてはいないとは思うが。
その元州に近づいていた。元州は豊かだ。頑朴は夢のようだ。関弓の街で聞いた噂のとおり、やがて見えてきた頑朴は、関弓よりも整備された大きな街だった。周辺の緑も関弓よりも多い。
水量豊かな大河に囲まれた肥沃な土地。豊かな農地に点在する廬。そして、蛇行する漉水には、切られずに残った堤の他に新たな堤防も見受けられた。州侯から治水の権を取り上げて久しい。業を煮やし、密かに築堤工事をしていたらしい。
奏上しても王が聞き入れてくれないならば、と逸る気持ちは分からなくもない。が、大河は漉水だけではないのだ。そして、元州よりも復興が遅れている州は幾つもある。
治水ひとつにしても、どこを優先すべきか論争になりがちだ。しかも、論点は民や国の益ではなく、奏上する官の面子なのだ。
王には寿命がない。遠大な時間を与えられたからこそできることもある。信頼おける官を少しずつ集め、各地に配し、己の目で確かめつつ政を進めてきた。焦る必要はない。今もそう己に言い聞かせている。
現実の問題点を把握しつつ、対策を考える。今やらねばならないこと、それは相手を知ること。尚隆は頑朴周辺の地形を頭に刻む。漉水の現状をも。ひととおり調査し、尚隆は帰途についた。
2009.11.14.
長編「滄海」連載第9回をお送りいたしました。
だんだん硬いお話になっていくようでございます。
そして、この先はまた捏造必至になってまいります。
よろしくお付き合いくださいませ。
2009.11.14. 速世未生 記