滄 海 (10)
* * * 10 * * *
元州が蓄えている兵は、いったいどの程度なのか。
帷湍や成笙は黒備左軍一万二千五百を気にしていたが、凡そ六十万という雁の人口を鑑みれば、それは有り得ない数字だ。真の数を調べるにはどうすればよいか。そんなことは簡単だ、と延王尚隆は一人ごちる。
実際に現地に行って確かめればよい。
元州師は関弓にて大量の武器を仕込んでいる。ということは、それを使う兵卒も相応な数だけ必要なはずだ。ならば、州都頑朴に入りこむことは容易いだろう。元州師は、多少剣が使えるならば、浮民をも雇っているに違いない。
(間諜の真似などせずとも良いのです!)
朱衡の怒声を思い浮かべ、尚隆は苦笑した。知れば朱衡はまた怒るのだろう。しかし、今現在尚隆が動かせる手駒は呆れるほど少ない。しかも、王の半身である麒麟を押さえられているのだ。六太が解放されない限り、結局は元州に赴かざるを得ない。
護衛一人の犠牲で以て宰輔を攫った元州の手並みは見事だった。六太の友人を名乗り、赤子を人質に取り、難なく六太を動かしたのだ。その手際の良さは、麒麟を熟知しているからなのだろう。とすれば。
元州の要求は何なのか。
本気で王を廃する気ならば、事は至極簡単に済む。宰輔延麒を亡き者にすればよいのだ。六太を害されてしまえば、尚隆は確実に玉座を失うのだから。
それをしなかったのは何故なのか。それとも、これからそうするつもりなのか。
ゆっくりと首を振る。いくら頭の中で考えても、それは単なる机上の空論だ。実際どうなのかは調べてみなければ分からない。宮城で己の命を惜しんでいるわけにはいくまい。自ら行くしかないだろう。肚を括り、尚隆は薄く笑った。
「主上、またですか」
乗騎を用意するよう命じられた毛旋は、盛大な溜息をついた。あまりにいつものことなので、尚隆は気にもかけない。その代わり、とばかりに軽口を返す。
「成笙は忙しいから、俺に構っている暇はないようだぞ。大船に乗った気でいろ」
「大僕を忙しくさせているのはいったい誰なんですか。ほんとにもう……」
毛旋は穿ったことを言ってのけた。尚隆は呵々大笑する。出奔を得意とする尚隆も、身辺を警護する成笙を忙しくさせないと、玄英宮を自在に抜け出すことは難しいのだ。
「成笙が忙しいほうが、お前にとばっちりが来ないだろう」
「忙しいと、大僕はますます怒りっぽくなるじゃないですか」
「それでは、お前に大過ないよう、知恵を絞ることにしよう」
「主上、またそんなことを……。死んだ後じゃ嬉しくありませんからね」
ぼやきながらも毛旋は乗騎を用意した。そんな毛旋に笑みを送り、尚隆は騎獣に跨る。毛旋の恨み事は瞬く間に聞こえなくなった。
そうして尚隆は今日もひとり玄英宮を後にした。行先は元州州都。頑朴周辺の地形はしっかり頭に入っている。近郊の閑地の林にて身を窶し、騶虞を隠す。それから尚隆は頑朴に向かったのだった。
頑朴へと続く街道は、賑わっていた。様々な人々がそれぞれの荷物とともに忙しなく行き交う。その中には武人風な者もいれば、商人風の者もいる。無論、地元の農民風の者もいた。雑多な群れを見つめ、尚隆は、元州は人口が増えているのだ、という奏上を思い出した。
「──兄さん、いい身体してるねえ」
後ろから声を掛けられて、尚隆は振り返る。人懐こそうな若者が笑みを向けていた。尚隆もまた笑みを返しながら軽く答える。
「そうか? 褒められるのは久方ぶりだな」
いつも側近に罵倒され続けているだけに感慨深かった。尚隆のしみじみとした応えを聞いて、若者は朗らかに笑う。
「どこから来たの?」
「関弓だ。仕事を探して王都に行ったのだがな……」
飄々と、見つからなかったのだ、と続ける。すると、若者はくすりと笑った。そして、尚隆が帯びる剣を見て少し得意げに応えを返した。
「剣が使えるなら、お城へ行ってみなよ。兵士を募集しているから」
「頑朴では兵士を募集しているのか?」
関弓では新たな兵を徴集してはいない。兵士を集めるよりも、土地の開墾のほうが急務だからだ。尚隆の問いに若者はしたり顔で頷く。
「元州は豊かだから、それを狙ってくる奴らがいるのさ。自己防衛は必要だろう?」
「ほう……」
兵を募るために、尤もらしい理由をつけている。確かに、地道に荒地を開墾するよりも豊かな地を襲うほうが手っ取り早いと思う者もいるのだろう。尚隆は感心してみせた。それに、と若者は声を潜める。
「──大きな声では言えないけれど、堤を補強するためにも人手はいるんだよ。王が手を打ってくれないから、卿伯は苦労しているんだ」
「なるほど」
驚いた振りをしながらも、尚隆は納得する。漉水に密かに作られた堤防を昨日確認したばかりだった。堤を築くためには、それなりに人手が必要だ。人を集めるには良い理由なのかもしれない。そして、若者は呟くように続けた。
「──新王が登極して、天候も落ち着いたし、妖魔も現れなくなった。人も増えたし、これからどんどん豊かになっていくと思っていたのに」
「元州は豊かだろう?」
関弓よりも。
言外に籠めた言葉を、どう取るだろう。この若者は、首都州よりも豊かな元州を誇りに思っている。
「もっと豊かになるはずなんだ、王が州の自治権を取り上げなければ!」
若者は語気鋭くそう断じる。尚隆は足を止めて若者を見やった。若者は真っ直ぐに尚隆の目を見返す。
「だって、そうだろう? いくら頑張っても、王がいない時代は、じりじりと沈んでいくのを止めることはできなかった。王が登極したから、荒廃は収まったんだ。それなのに……」
若者は視線を足許に落とす。後に続く言葉を予想することはできた。が、尚隆は敢えて若者が口を開くのを待った。やがて、若者は顔を上げる。そして、おもむろに言葉を継いだ。
「元州は、それほど変わってはいないんだ」
言い終えて、若者は悔しげに唇を噛む。予想どおりの答えに、尚隆は若者の肩を軽く叩いた。そして、大らかに笑った。
「きっと、お前さんのような者が、この国を変えていくのだろうよ」
若者は目を見開いて尚隆を見つめた。尚隆は若者に礼を言って頑朴の門を潜ったのだった。
2009.12.31.
長編「滄海」連載第10回をなんとか年内にお送りできました。
捏造必至でございますが、どうぞお許しくださいませ。
しばらく頑朴のお話になるかもしれません。
行き当たりばったりの連載ではございますが、どうぞ来年もよろしくお付き合いくださいませ。
19万打、ありがとうございました!
2009.12.31. 速世未生 記