燠 火 (3)
* * * 5 * * *
延王尚隆は夜半に掌客殿を訪った。夜着に着替え、髪を下ろした伴侶が、艶然と出迎える。金波宮で見るときとはまた違った、その寛いだ様子。尚隆は微笑を返し、伴侶の朱唇に軽く口づけた。
卓子の上には茶器が置かれている。相変わらず、女王は御自ら茶を淹れて飲んでいたらしい。尚隆は笑みを浮かべ、茶杯に残された茶を飲み干す。尚隆の手に酒瓶がないことに気づいた伴侶はくすりと笑った。
「──珍しいね、今日は、飲まないの?」
「今宵は、酒よりも、お前に酔いたい」
伴侶の華奢な身体を引き寄せて、耳許で囁く。見る間に頬を染めた伴侶が更に笑った。どうしちゃったの、と訊ねるところをみると、尚隆の本音を軽口と取ったようだ。尚隆は伴侶の視線を捉え、おもむろに告げた。
「──よく来たな。ずっと、待っていた」
そう、雪の便りが届く度に、思い出していた。小雪の降る中で伴侶と交わした、あの小さな約束を。そして、その約束が果たされるときを、ずっと待ち続けてきたのだ。
「尚隆……」
伴侶はそう呟いたきり、何も言わなかった。約束を忘れたことを恥じているのか、輝かしい瞳が次第に潤んでいく。尚隆はその様を微笑して眺めた。
「──待たせて、ごめんね」
尚隆の胸に額をつけて、伴侶は小さな声で詫びる。すまなそうな様子が頼りない少女に見えた。それは、武断の女王が昼には決して見せない姿だった。尚隆は笑みを浮かべ、伴侶を抱き上げた。
「まあ、よい。これから、たっぷりと埋め合わせをしてもらうとしよう」
昼間は六太にお前を譲ったからな、と続けると、伴侶は再び頬を朱に染めた。陽子が訪れてからの六太を思い起こし、尚隆はにやりと笑う。
明日から玄英宮に残される六太は、尚隆への恨み辛みを隠さなかった。ここぞとばかりに陽子に纏わりつき、傍から離れようとしない。しかも、尚隆を寄せつけようとしなかったのだ。
伴侶は小さく息を呑み、困ったように目を見開く。言い訳をしようと開かれた朱唇を甘く塞ぎ、尚隆は伴侶を臥室へと運んだ。
伴侶を抱えたまま牀に腰を下ろす。そのまま、つくづくと美しい顔を眺めた。休暇を取ってやってきた女王は、翌日の朝議を気にする必要もない。故に、いつも刻まれている眉間の皺もない。それを確かめて、尚隆は笑いを零す。伴侶は不安そうに小首を傾げて問うた。
「──何かついてる?」
「ついているぞ」
「えっ、何が?」
伴侶は目を見張り、素っ頓狂な声を上げる。それから慌てて頬をこすった。それは、尚隆の意に適う反応だった。
「目と、鼻と、口が」
尚隆は低く笑いながら、伴侶の瞼に口づける。伴侶は首を振ってそれに抗ったが、尚隆は気にもせず、鼻の頭、朱唇へと順番に口づけを落とした。
「──もう、びっくりさせないで!」
顔を真っ赤にして憤然と言い返す伴侶は可愛らしい。眉もついているか、と告げて、そのまま押し倒した。再び唇を封じると、伴侶はもう抗わなかった。
華奢な身体をしっかりと抱きしめた。遠慮がちに背に回された細い腕が、繰り返される愛撫に熱を帯びていく。そして、何度も交わされる口づけ。唇を離すと、伴侶は甘い喘ぎを漏らす。尚隆は、伴侶のしなやかな身体をじっくりと味わったのだった。
小さな溜息の気配。尚隆はふと目を覚ました。辺りはまだ薄暗い。腕の中の温もりをそっと抱き寄せると、伴侶が身動ぎをし、すまなそうに呟いた。
「ごめんね、起こしちゃったかな……?」
「──眠れなかったのか?」
「うん……」
子供みたいでしょ、と伴侶は苦笑じみた声で応えを返す。子供なのだろう、と笑い含みに答えた。子供じゃないもん、と伴侶は拗ねて横を向く。
「そんなに楽しみにしてもらえるとは、俺も嬉しいぞ」
頬に口づけて髪を撫でる。伴侶は尚隆に向き直り、はにかんだ笑みを見せた。少し眠れ、と囁く。伴侶は小さく頷き、やがて寝息を立て始めた。尚隆は微笑し、己も瞼を閉じた。
* * * 6 * * *
「──尚隆」
伴侶の密やかな声で再び目が覚めた。既に空が白んでいる。まだ早いぞ、と眠そうに声をかけると、早くないよ、と苦笑交じりの応えが返ってきた。尚隆は欠伸をしながら答えた。
「ここは雁なのだぞ」
「──延王!」
きつく抱きしめると、伴侶は身を捩り、棘のある声で号を呼ぶ。どうやら、生真面目な女王を本気で怒らせてしまったらしい。今度は尚隆が苦笑する。それでも、抗う伴侶を引き寄せて口づけを落とし、尚隆は身体を起こした。
見ると、伴侶の頬が赤い。それは、怒りのためか、それとも羞恥のためか。己も起き上がって拳を振り上げるところをみると、怒っているようだ。小さな拳を胸で受けとめて、赤い頬に唇をつけた。
「気が済んだか?」
「──早くお戻りください、延王!」
「随分つれないな」
「──夜が明けてしまうでしょう」
伴侶は女王の顔で促す。尚隆は肩を竦めて身支度を整える。伴侶はその様子をじっと見守る。名残を惜しむ余地もない。尚隆は軽く息をつき、片手を挙げて臥室を出た。
伴侶の心が解けるのはまだまだ先だな、と思うと溜息が漏れた。尚隆も、女王の恋を厭う慶の国では、伴侶の気持ちを慮り、気を遣っている。しかし。
破天荒な国主に慣れ切った雁の官吏たちは、隣国の女王の訪れを喜ぶ。陽子が来ると尚隆の仕事が格段に捗るからだ。故に、主の伴侶が隣国の王と聞いても大して驚きはしないだろう。
(らしくねえな、そんなに焦るなよ)
六太の諌める声が聞こえたような気がして、尚隆は苦笑する。お前は気が長いのが取り柄だろ。六太なら、きっとそう言うに違いない。くすりと笑い、尚隆は自室で寝直した。
朝食の席に向かうと、六太が客人と楽しげに話しているところだった。尚隆が姿を見せると、六太は露骨に嫌そうな顔をした。それと対照的に、陽子はにっこりと笑う。
「遅ようございます、延王」
「──遅ようとはご挨拶だな」
「待ちくたびれましたよ」
笑顔のままで責める女王に、尚隆は苦笑を返した。六太が口を尖らせて呟く。
「もっと寝ててもよかったのに」
「出発が遅れるではないか」
「そんなの、おれには関係ねえよ」
「──私が困るよ」
拗ねた口調の六太に、陽子が笑顔で答えた。六太は少し反省したらしく、朝食後に陽子の冬支度を手伝う、と約束した。
尚隆はその遣り取りに肩を震わせる。六太は尚隆を睨めつけ、元はお前が悪いんだぞ、と悪態をついた。陽子はまた、勘弁してください、と笑った。
六太は尚隆が過保護だと呆れるほど、こまごまと陽子の世話を焼く。陽子も楽しげにそれを受け入れた。そして、尚隆は万全に冬支度を整えた陽子を連れて禁門へと向かった。
「陽子、気をつけてな。尚隆、いいか。陽子を虐めるなよ」
「人聞きの悪いことを大声で言うな」
留守居を命じられた六太は、禁門の外でまでそんなことを言い続ける。尚隆は顔を蹙めて応えを返した。それには麗しき女王だけでなく、禁門の門卒までもが肩を震わせていた。
土産話を楽しみにして、と笑う女王に宥められ、六太はようやく口を閉ざす。名残惜しげに手を振る六太に苦笑を残し、尚隆は陽子とともに蒼穹に舞い上がった。
雲海の下の空気は真冬のものだった。北国の冬を知らない伴侶は、冬支度をしているにも拘らず、寒風に肩を竦める。
「──寒いか?」
「うん……。でも、真っ白で綺麗!」
伴侶はそれでも眼下の景色に感嘆を隠さない。尚隆はそれを見てにやりと笑った。
「──まだまだ、こんなものではないぞ」
伴侶は翠玉の瞳を見開き、それから大きく頷いた。
2008.01.31.
長編「燠火」連載第3回をお届けいたしました。
気づけば我が家の玄関が雪に埋もれておりました……(溜息)。
「雪明」では、冬の情景を陽子の驚きとともにお伝えいたしました。
「燠火」では、かの方の語りにとことん付き合う所存でございます。
さてさて、かの方の胸の内や如何に? よろしくお付き合いくださいませ。
2008.01.31. 速世未生 記
背景画像「工房 雪月華」さま