燠 火 (4)
* * * 7 * * *
雪に包まれた王都関弓を見下ろし、東の国の女王は感嘆の溜息をつく。延王尚隆は笑みを浮かべ、景王陽子に訊ねた。
「陽子は、雁の冬について、どのくらい知っている?」
「雪は少ないけれど、条風が吹くから寒いって。祥瓊がそう言っていたと思う」
伴侶は小首を傾げ、思い出しながら答える。北方の芳極国出身の女史祥瓊が教えたのか、と尚隆は納得した。冬支度を手伝う女史と伴侶が交わした微笑ましい会話を想像すると、知らず笑顔になる。
「雁でも、北方の山沿いは存外に雪が降るのだぞ」
にやりと笑ってそう言うと、伴侶はまた首を傾げた。尚隆は説明を続ける。
「北東の虚海の冷気を吸った条風は、山に突き当たる度に雪を落とす。そして、関弓に来る頃には、風は乾いているのだ」
「へえ……だから関弓は雪が少ないのか」
伴侶は素直に驚く。そして、山に近づくにつれて増える雪を見て、ますます目を見開くのだった。
慶にはあまり見られない針葉樹の林が多くなる。背の高い木々も白い衣を纏い、陽光に輝いている。
「珍しいか?」
笑い含みに訊ねると、伴侶は声なく頷いた。
やがて、目的地の廬が見えてきた。廬の者は気紛れな貴人の所作には関知しない。それでも、尚隆は目立たぬよう、廬の外れの小道に騎獣を降ろした。続いて降りた伴侶が不思議そうに訊ねる。
「冬なのに、どうして廬に人がいるの?」
「牛を飼っている者は、通年廬にいるものだ」
作物は枯れるが、牛は生きているからな、と続けると、陽子は納得して笑った。
「さあ、行くぞ」
尚隆は伴侶を促す。伴侶は恐る恐る足を踏み出す。尚隆は雪道に慣れていない伴侶を気遣い、ゆっくりと歩き始めた。
牛飼いが住むその廬は、ほとんどが牧場で占められる。小道に巡らされた柵の内側には、何頭もの牛がのんびりと歩いていた。それが珍しいのか、伴侶は小首を傾げて問う。
「冬なのに、牛が外にいるんだね」
「運動不足になるから、昼は外に出すんだ」
へえ、と答えながら、伴侶は少し顔を引き締めた。珍しい景色を堪能しながらも、陽子は景王の目で雁の廬を見ているのだと分かる。若き女王の瞳にはいったい何が映っているのだろう。それをともに見てみたい。尚隆はそう思い、笑みを浮かべた。
小道は次第に登り坂になり、脇にも針葉樹が増えてきた。雪を載せた葉が風にそよぎ、さらさらと音を立てながら雪を振り撒く。伴侶は顔を上げて感嘆した。
「ここの雪は、まるで粉砂糖みたいだね」
「そう美味いものではないぞ」
女王の顔を見せたかと思うと、まるで童女のようなことを言う。我が伴侶は、ほんとうに退屈させない女だ。尚隆は笑いながら軽口を返した。案の定、伴侶は膨れっ面を見せる。
「食べたことなんて、ないくせに」
「あるぞ」
「──嘘」
「ほんとうだ」
そう答えて落ちてくる雪を掌に取り、舐めてみせる。伴侶は目を見張り、己も雪に手を伸ばした。
「──確かに、あんまり美味しいものじゃないね」
味がしない、と顔を蹙めて答える伴侶を見て、尚隆は大笑いした。もう、と言いつつも、伴侶は楽しげに笑った。
「どこまで行くの?」
「もう少しだ」
坂を上り、息を切らした伴侶が訊ねる。そろそろ疲れてきたのだろう。伴侶は雪の中をこんなに歩いたことはないだろうから。尚隆はやがて見えてきた小さな丸太小屋を指す。
「あそこだ」
細く立ち上る煙を認めると、火が燃えてる、と伴侶は歓声を上げた。気が逸るのか、ゆっくりだった歩調が速くなっていく。
「そんなに急ぐと転ぶぞ」
尚隆はそう声をかけて伴侶に手を差し伸べた。伴侶はほんのりと頬を染め、尚隆の手を取った。
* * * 8 * * *
丸太小屋に辿りつき、扉を開けると、暖かな空気が流れ出す。暖炉には赤々と火が燃え盛り、厨房では竈にかけられた大鍋が湯気を立てていた。伴侶はそれを見て目を輝かせる。
「わあ、すぐお風呂に入れそう!」
「冷えすぎた身体をもう少し温めてからにしないと、温い湯でも熱く感じるぞ」
よっぽど寒かったのか、伴侶は嬉しげに声を上げた。そんな伴侶に、尚隆は忠告を忘れない。伴侶はまた目を見張って驚いていた。尚隆は笑みを浮かべて言った。
「暖炉にあたってこい」
伴侶は素直に暖炉の前に坐りこんだ。それを確認し、尚隆は厨房で探し物をする。伴侶の明るい声がした。
「手が温まったら、お茶を淹れるね」
「──俺は酒の方がよいな」
「明るいうちはお茶じゃないと駄目だよ」
「──お前は硬すぎる」
尚隆が嘆息すると、伴侶は声を立てて笑った。きっと手ずから楽しげに茶を淹れてくれるのだろう。そう思い、尚隆も笑った。
「──何をしてるの?」
探し物を見つけて厨房の土間に運んでいると、伴侶が不思議そうに訊ねてきた。尚隆は片眉を上げて問う。
「湯を使いたいのだろう?」
そして、見つけてきた盥と桶を指差す。湯殿のない市井の家では湯浴みに必須のものであった。
「これがないとな」
「ありがとう」
伴侶は朗らかな笑みを見せて礼を述べる。そして、己も厨房に降りて、茶を淹れた。それから、六太に持たされた弁当を卓子に広げたのだった。
「ああ美味しかった、ご馳走さま」
ささやかな昼餉を食べ終わり、伴侶はお腹がいっぱいと微笑んだ。そして、湯浴みの用意をしようと立ち上がった尚隆の袖を引く。見ると、伴侶は上目遣いで尚隆を見つめ、小さな声で言った。
「雪だるまを作りたいな」
「湯を使うのではなかったのか?」
「だって、今は身体が温まったんだもの」
「しょうがないな」
生真面目な女王が我儘を言うことなど滅多にない。尚隆は苦笑しながらも、その小さな望みを叶えるべく準備をした。
再び褞袍を着込んで外へ出た。伴侶は楽しげに駆け出す。まるで子供のようなその姿。尚隆は慌てて声をかけた。
「陽子、あんまり走ると……」
が、尚隆が言い終わる前に、伴侶は転んで尻餅をついていた。
「だから言ったのに」
膨れっ面をする伴侶に、尚隆はくつくつと笑って手を差し伸べる。伴侶はにやりと笑い、その手を思い切り引っ張った。
「わっ!」
思わず尚隆は雪の中に膝をつく。伴侶は得意げに笑って言い返す。
「人のこと笑うからだよ」
「こいつ!」
仕返しとばかりに伴侶の額を小突いた。目を見開いた伴侶がゆっくりと雪の中に倒れる。そしてそのまま目を閉じて動かなくなった。
「──大丈夫か?」
心配になって覗きこむと、伴侶はおもむろに目を開ける。そして、雪を色付かせるように鮮やかな笑みを見せた。感嘆のあまり、その朱唇に口づけを落とす。伴侶は再び目を閉じてそれを受け入れた。
深く甘く口づけて、それから唇をゆっくりと頬にずらしていった。伴侶の頬は、もう既に冷たくなっていた。
「冷たいな」
尚隆の呟きに、伴侶は輝かしい瞳を開く。そして、ああ、と小さく溜息をついた。
「──空の色が、違う」
「どう違うのだ?」
「晴れてるのに、雁の空はどこか白い。まるで雪を映しているみたいだ。慶で見る空とは、全然違うよ」
同じものを見ていても、視点がこんなにも違う。
尚隆は微笑し、そうか、と答えた。そして、伴侶と同じものを見るべく、己も雪の上に寝転んだ。
2008.02.03.
長編「燠火」連載第4回をお届けいたしました。
「雪明」で省いた二人の会話を書くと、なんだか終わる気がいたしません(溜息)。
けれど、初めての「雁での公認休暇」ですから、二人がはしゃいでも仕方ないですよね。
なんにも起こらなくて申し訳ございませんが、もうしばらくお付き合いくださいませ。
2008.02.03. 速世未生 記
背景画像「工房 雪月華」さま