燠 火 (5)
* * * 9 * * *
空をこんなにつくづく眺めたことがあっただろうか。
雪の上に寝転んだ延王尚隆は、仄白い冬空を見つめながら考えた。己はいつも、見下ろすばかりだったような気がする。
蒼穹から地上を、王宮から雲海を、そして、玉座から臣下を──。
年若き女王は当然のように空を見上げ、自国との違いをすぐに指摘した。この柔軟さは、若さなのだろうか。それとも、持って生まれた資質なのだろうか。
帽子からはみ出した紅の髪を扇のように広げ、雪の上に横たわる女王に視線を移す。翠玉の瞳は真っ直ぐに北国の空を見つめ、嬉しげに細められていた。
尚隆はくすりと笑う。王の覇気と少女の無邪気を併せ持つ娘。己の心のままに進み、率直に己の思いを語ることができるこの娘に、尚隆は惹かれて已まない。
「──どうしたの?」
「雪だるまはいいのか?」
尚隆の視線に気づいた伴侶は、不思議そうに問うた。尚隆は微笑して問い返す。伴侶は目を見張って飛び起きた。尚隆は大きく笑って己も身を起こした。
尚隆は伴侶に雪道の歩き方を教えていない。それには理由があるのだった。
北国の人間は、夏と冬とで歩き方を変える。しかもそれは意識的なものではない。新雪と圧雪、氷の上など、状態によっても変わってくる。故にその習得には経験が不可欠だった。尚隆自身も雁に来てから身につけた技であった。
「いいか、走るなよ」
「うん、分かった」
尚隆は伴侶に念を押す。素直に頷く伴侶と手を繋ぎ、ゆっくりと慎重に足を進めた。そして、さらさらの雪に苦労しながら、大きめと小さめの雪だるまを作ったのだった。
「満足したか?」
「うん、楽しかった!」
伴侶は仲良く寄り添うふたつの雪だるまを満足げに眺める。尚隆は笑い含みに問うた。元気よく応えを返しながらも伴侶は口籠もる。
「でも……」
「もう寒いのだろう?」
尚隆は破顔して指摘する。伴侶は驚いたように声を上げた。
「何で分かるの?」
「頬が真っ赤だ」
そう言って伴侶の頬に手を伸ばす。寒風に晒された伴侶の頬は冷たくなっていた。戻ろう、と声をかけると、伴侶は恥ずかしげに頷いた。
「用意ができるまで、火にあたっていろ」
小屋に戻り、伴侶を暖炉の前に促し、尚隆は湯浴みの用意をした。厨房の土間に置かれた盥に湯を張り、桶を横に置き、衝立を移動させる。もうよいぞ、と声をかけると、伴侶は嬉しげに走ってきた。
「──覗かないでね」
「見て欲しいのか?」
身体を拭く布を抱えて心配そうに念を押す伴侶に、軽口を返した。案の定、伴侶は顔を真っ赤にして怒声を上げる。
「覗いたらお湯をかけるから!」
尚隆は暖炉に薪をくべながら、大きく笑う。それから、立ち上がって入口に積まれた薪を暖炉の傍まで運んだ。
衝立の向こうからは、楽しげな湯音が聞こえる。湯殿がないことをも気にかけぬ女王か、と尚隆は笑みを浮かべた。
やがて、湯音が止んだ。何の音もしなくなり、尚隆は眉根を寄せる。もしかして、湯に浸かりながら眠ってしまったのだろうか。見に行こうかと思い、尚隆は首を振る。ほんとうに湯をかけられては堪らない。尚隆は衝立の向こうに声をかけた。
「あんまり長湯すると湯冷めするぞ」
「──もう上がるよ」
慌てた声と、ぱしゃんと湯が跳ねる音。そして、伴侶が立ち上がる気配がした。ややしばらくして、頬を桜色に上気させた伴侶が現れた。湯上りの、匂い立つようなその姿に、尚隆はしばし見とれた。
「どうしたの?」
伴侶は不思議そうに小首を傾げる。その動きとともに、濡れた髪が、はらりと前に落ちた。
「──お前に、見とれていた」
尚隆はにやりと笑って本音を告げた。伴侶は桜色の頬を、更に赤くして黙す。尚隆はそのまま麗しき伴侶を観賞した。
「──冗談はいいから、夕食の支度をしよう」
俯いた伴侶は、小さな声で尚隆を促す。尚隆は笑いを噛み殺しながら頷いた。
二人で並んで厨房に立った。伴侶は洗い髪を紐で括り、手際よく蔬菜を切る。尚隆は思わず目を丸くしてその手許を見つめた。
「──なかなかよい手つきだな」
「これくらい、普通じゃないの?」
「王でなければな」
「そうかな?」
「自覚がないのも困りものだな」
無邪気に見上げてくる伴侶に、尚隆は呆れてそう返す。伴侶は声を上げ、楽しげに笑った。
* * * 10 * * *
二人で作った夕食を、他愛ない話をしながら食べた。それからまた、二人で並んで片付け物をした。一国の王が、二人揃ってすることではないな、と思うと可笑しかった。見ると、伴侶は頬を朱に染めている。
「どうした?」
「な、なんでもないよ」
訝しげに訊ねると、伴侶は慌てて首を振る。胡乱に思った尚隆は、伴侶をじっと見つめた。伴侶は手が冷たくなった、と言い訳をして暖炉の前に坐りこんだ。
外は次第に暗くなる。しかし、暖炉の火は赤々と燃えて、辺りを明るく照らしていた。静かな小屋の中で聞こえるものは、薪が爆ぜる音のみ。燃え盛る炎を眺め、伴侶は小さく呟いた。
「綺麗……」
伴侶の向かいに腰を下ろし、尚隆はくすりと笑う。そして、無防備に炎を見つめる伴侶を眺めた。
翠の瞳は暖炉の炎を映し、煌いていた。そして、長い緋色の洗い髪は炎に照り映え、本物の焔のようだった。その様を見つめていると、身の内から熱いものが燃え上がる。
顔を上げた伴侶は、いま初めて尚隆を見たかのように目を見開く。そして、怯えたように小さく息を呑んだ。もしかすると、尚隆が抱く熱を感じているのかもしれない。尚隆は薄く笑み、翠玉の瞳を捉える。柔らかな沈黙は、張りつめた緊張に取って代わった。
やがて伴侶はいきなり立ち上がり、身を翻した。そして、驚いた尚隆が手を伸ばす間もなく褞袍を羽織り、外へと飛び出した。
「──陽子! まだ、髪が濡れている」
尚隆は大声を上げる。北国の夜の厳しい寒さを、伴侶は知らない。濡れた髪など、瞬時に凍る。そして、身体は芯から冷え切るのだ。
いくら神籍に入っているとはいえ、湯上りに外へ出たりしたら──。
己も褞袍を引っ掛け、尚隆は急いで伴侶の後を追った。扉を開ける前に思い返し、大きな布を手に取る。それから尚隆は外に駆け出した。
「──う、わぁ……」
凍てつく星空の下に、感嘆の声が響く。伴侶は小屋の前で立ち尽くしていた。洗い髪は凍りつき、星明りに照らされた雪原とともにきらきらと光っている。尚隆は苦笑交じりに声をかけた。
「──無茶をする」
そう言いながら、伴侶の頭に布を被せる。伴侶は尚隆を振り返り、興奮したように語りかけてきた。瞳は星を宿したように輝いている。
「──尚隆、雪が星を映しているよ!」
「ああ、雪明りというのだ。見たことがないだろう?」
「うん、綺麗……。夜なのに、こんなに明るいなんて、不思議」
そう呟いて、伴侶はうっとりと青白く浮き上がる雪原を眺める。そして、縫いとめられたようにその場を動かない。このままでは凍えてしまうというのに。焦れた尚隆は、後ろから伴侶を抱きしめた。
「──そのままだと、凍死するぞ」
笑い含みにそう言うと、伴侶は身震いをした。忘れていた寒さを、ようやく感じたらしい。尚隆は伴侶を促した。
「戻ろう」
伴侶は雪原を見つめ、小さく溜息をつく。尚隆は、ゆっくりと踵を返した伴侶の手を取った。伴侶は名残惜しげに振り返る。そんな伴侶を急き立てて歩き出すと、きゅっきゅっと雪鳴りが響いた。伴侶はまた目を丸くした。
「──なんだか、可愛い音がするよ」
「これは雪鳴りだ。寒いときにしか聞こえない」
可愛い音か、と尚隆は笑った。北国では雪の状態で冬の深まりを知る。雪鳴りは厳冬にしか聞こえないものだから、可愛いなどと思うことはない。
「へえ……」
伴侶は感慨深げに尚隆を見上げた。尚隆は笑みを湛えて伴侶を見下ろす。そして、繋いだ手に力を籠めた。
小屋に戻ると、凍っていた髪の氷が融けて雫が垂れた。伴侶は不快そうに顔を蹙める。尚隆は苦笑を隠さなかった。
「無茶ばかりするからだ。これでも飲んで、身体を温めろ」
尚隆は急いで白湯を用意し、伴侶に差し出した。湯気の立つ湯呑みを手にし、伴侶は不平を言った。
「──お茶の方がいいのにな」
「無茶な奴にやる茶はない」
茶など用意する暇はなかった。とにかく内から身体を温めなければ、と思ったから。伴侶は恨めしげな視線を浴びせた。
「そんなこと言って……。面倒なだけでしょう?」
「よく分かったな」
尚隆は大きく笑いながら、伴侶の濡れた髪を拭く。ゆっくりと白湯を飲む伴侶の動作が、だんだんと緩慢になっていく。尚隆はこっくりと揺れ始めたその身体を抱き寄せた。
「こんなところで寝たら、いくらお前でも風邪を引くぞ」
声をかけても、返しはない。尚隆は苦笑し、伴侶の軽い身体を抱き上げる。そのまま臥牀へと運び、己も一緒に横になった。
「──おやすみ」
眠れる伴侶の耳に囁いて、尚隆は瞼を閉じた。
2008.02.06.
長編「燠火」連載第5回をお届けいたしました。
如何でしたでしょうか。
雪明りに感動する陽子ですが、尚隆は気が気じゃありません(苦笑)。
けれど、伴侶の素直な反応を楽しみにしていたのだから、仕方ないですよね。
既に原稿用紙50枚を超えてしまいました。
ほんとに何にも起こらなくて申し訳ございません……。
2008.02.06. 速世未生 記
背景画像「工房 雪月華」さま