燠 火 (6)
* * * 11 * * *
陽の光で目が覚めた。暖炉の火は既に消えているらしく、少し肌寒い。しかし、腕の中には愛おしい温もりがあった。夜が明けきってもこの温もりを手放さなくてもよいのだ、と思うと顔がほころんだ。
微かに開かれた紅い唇が目に入る。口づけを誘うようなその朱唇を前に、尚隆は苦笑した。唇を重ねれば、伴侶は目を覚ましてしまうだろう。無防備な寝顔を、朝の光の中で見る機会など、そうそうないのだ。そう思い、尚隆は寝息を立てる伴侶の美しい顔をじっくりと眺めた。
しかし、やはり輝かしい翠の瞳が己を映すところを見たい。尚隆は伴侶の頬にかかる緋色の髪をそっと掻きあげた。伴侶はゆっくりと目を開ける。尚隆は、朦朧とした翠玉の瞳が己を映し出すまで、笑みを湛えて見つめ続けた。
やがて、翠の宝玉は尚隆を認める。それを確かめて、おはよう、と声をかけると、伴侶は真っ赤になって衾を被った。寝顔を見られたことに羞じらうその様は可愛らしい。尚隆は伴侶を抱き寄せて笑い含みに告げた。
「よく眠れたようだな」
「──うん」
伴侶は小さな声で応えを返す。それを聞き、尚隆は起き上がる。伴侶もつられたように身を起こし、身震いした。尚隆は好奇心の強い伴侶にひとつ提案してみた。
「火を熾してみるか?」
「うん!」
伴侶は二つ返事で元気よく立ち上がった。尚隆は予想通りの反応に笑みを返し、再び問うた。
「熾し方を知っているか?」
「──絵本で見たことがあるような気はするけれど」
伴侶はそう答え、箱から薪を取り上げる。そして、首を捻りながら薪を組み上げようとした。しかしその努力もなかなか実を結ばない。四苦八苦する伴侶に、尚隆は笑いながら声をかけた。
「最初は、そんなに複雑に組む必要はないぞ」
そう言って、尚隆は太い薪を二本取り上げて、暖炉の中に置いた。その際、間には充分隙間を空けておく。伴侶は物問いたげに首を傾げる。そんな伴侶に笑みを送り、尚隆は細めの薪を何本か太い薪の上に渡した。そして、空いた隙間に小枝を沢山詰めこみ、伴侶を促す。
「──木の皮に火を点けて、小枝の上に置いてみろ」
伴侶は子供のように目を丸くし、木の皮に火を点けた。そして、恐る恐る小枝の上に置く。小さな炎はめらめらと燃え上がり、あっという間に小枝を呑みこむ。小枝はぱちぱちと音を立てて爆ぜ、勢いを増した炎は、上に渡した薪に燃え移った。
そこまで確認して、尚隆は暖炉の前を離れる。これでもう火が途中で消えることはない。暖炉を見つめる伴侶が不思議そうに訊ねた。
「大きな薪をくっつけるとどうなるの?」
「勢いよく燃えすぎて暑いぞ」
尚隆が答えると、伴侶はますます目を丸くした。翠の宝玉が、転げて落ちそうだ。尚隆は笑いながら感想を述べた。
「目が落ちそうだな」
伴侶は尚隆の揶揄など気にせずに、そのまま暖炉の前に坐りこみ、大きな薪が燠火になる様を見守っていた。尚隆は笑みを浮かべつつ、厨房の竈にも火を入れる。そして朝食の用意をした。
ささやかな朝食が出来上がった頃、伴侶が慌てて駆けてきた。そして食卓に皿を並べる尚隆に頭を下げた。
「──ごめんね」
「お前を見ているほうが面白かったぞ」
「声をかけてくれればよかったのに……」
言って伴侶は頬を膨らませる。あれだけ真剣に暖炉を観察していたのだから、声をかける気になどなれなかった。
「だが、面白かっただろう?」
「うん……」
「では、それでよいではないか」
尚隆は笑顔でそう断じる。すると、伴侶はようやく笑みを見せ、いただきます、と食事を始めた。
「今日は何をするの?」
「外を見てみろ」
朝食を食べながら、伴侶は期待に満ちた目を向けて問う。尚隆は片眉を上げて窓を指差した。
「あ……」
伴侶は小さく叫んで窓に駆け寄る。外は、すぐ傍の木々が見えぬほど吹雪いていた。
* * * 12 * * *
「昨日はあんなに天気がよかったのに……」
吹雪模様の窓の外を見やり、伴侶は力なく肩を落とす。期待が大きかったのか、かなり残念そうだった。伴侶は玻璃に額を付け、白い世界を眺めている。食事を終えた尚隆は、伴侶に歩み寄り、笑い含みに訊ねた。
「こんな日は何をするか知っているか?」
「──家の中でできることをするんでしょう?」
「そうだ」
胡乱そうに目上げてくる伴侶に軽く応えを返し、尚隆は笑う。そして入口の土間に積まれた大きな切り株を指差した。
「こんなときのために、薪を割らずに置いてあったりするんだ」
「ほんとだ」
警戒していた伴侶は笑みを見せ、肩の力を抜いた。その分かりやすい反応に、尚隆はにやりと笑う。
「それからな、冬は日の出が遅いし、日の入りも早い。だから、さっさと寝てしまう」
そう説明しながら、尚隆は伴侶の細腰をぐいと引き寄せた。昨日の夜、伴侶はそれこそ尚隆を置いて、さっさと眠ってしまったのだ。
「──夜が長いから、お楽しみの時間も長いのだ」
言って尚隆は伴侶に流し目をくれる。外へ出ることができないのならば、昨夜の埋め合わせをしてほしかった。
「ま、まだ、明るいよ……」
伴侶は見る間に頬を朱に染め、及び腰に呟く。尚隆は片眉を上げて更に伴侶を抱き寄せた。
「硬いことを言うな、せっかく二人きりなのに」
尚隆は何か言いかけた伴侶の朱唇を甘く塞ぐ。口づけが深くなる前に、伴侶は慌てたように声を上げた。
「あ、あの……吹雪も体験してみたいんだけど……」
「──本気か?」
「もちろん本気だよ」
反射的に訊ねると、伴侶はにっこりと天真爛漫な笑みを見せる。この邪気のなさが曲者だな、と思うが、口には出せなかった。尚隆は深い溜息をつきつつ頷いた。
それから外へ行く準備をした。褞袍を着込み、帽子を深く被る。扉の外からは唸るような風の音が聞こえていた。それでも楽しげな伴侶を尻目に、尚隆は大きく息をつく。
「こんな日に外へ行きたいなど、酔狂だな」
「だって、吹雪なんて、初めてなんだもの……」
「──分かっているさ」
尚隆は上目遣いに見上げてくる伴侶に苦笑を返す。歳若き伴侶に袖にされて、子供のように拗ねる己が可笑しかった。
「ただし、遭難するからすぐ傍までだぞ」
無邪気な伴侶を覗きこみ、念を押した。その真剣さが伝わったのか、伴侶は素直に頷いた。
扉を開けて外に出た。雪が斜めに降っている。激しく降りしきる雪に、すぐ傍の木々も朧に霞んで見える。そして轟々と唸り、叩きつけるような風。
猛吹雪だった。まるで白い闇に捉えられてしまったように、何も見えない。その中で、荒れ狂う風に靡く伴侶の紅髪だけが色彩を有している。尚隆はその様に魅せられ、立ち尽くした。
容赦なく雪を叩きつける風に肩を竦めていた伴侶は、徐々に視線を上げていく。吹き飛ばされそうに華奢な身体は、それでも激しい風を受けとめて、しっかりと大地を踏みしめる。そのとき、伴侶は、確かに王者の覇気を纏っていた。
逆巻く雪を見上げ、黙して動かぬ女王は、無慈悲な天に戦いを挑んでいるかのように見える。不吉といわれる白い世界にて繰り広げられる情景に、尚隆の背筋は冷えた。そして。
風に弄られる緋色の髪は、血の色に、似ている──。
白い雪の上に撒かれる、夥しい血。そして、ゆっくりと倒れる、細い身体。目の前を過る、そんな鮮烈な情景。
今度は、背に、戦慄が走った。
「──陽子」
尚隆は思わず大声で名を呼んだ。女王は振り返り、名残惜しげな貌をする。それは、見慣れた伴侶の顔だった。尚隆は、ほっと安堵の息をつく。
「そろそろ、中に入ろう」
笑みを湛えてそう促した。しかし、伴侶は再び白い世界に目を向ける。
そちらへ行ってはいけない。
尚隆はゆっくりと首を横に振り、小さな手を引いた。伴侶は微かに頷き、尚隆に従った。
2008.02.09.
長編「燠火」連載第6回をお届けいたしました。
──ちっとも終わる気配がいたしませんね(溜息)。
今回はギャップが激しいですが、どうぞお許しくださいませ。
2008.02.09. 速世未生 記
背景画像「工房 雪月華」さま