燠 火 (7)
* * * 13 * * *
真白き世界を見据えていた女王は、その瞳に何を映していたのだろう。
容赦ない吹雪に華奢な身を晒し、紅の髪を弄られながらも、毅然と立っていた隣国の若き王──。
延王尚隆は、白い闇に心を残す景王陽子の手を引き、小屋へと戻る。玄関の土間で身体に積もった粉雪を払いつつも、尚隆は伴侶に声をかけられずにいた。
「──ほんのちょっとの時間だったのに、雪だるまみたいになっちゃったね」
同じく雪を払いながら、伴侶はくすりと笑う。心配のし甲斐がないなんとも暢気な言に、尚隆は少し顔を蹙めた。それから、伴侶の背に残る雪を落としながら応えを返す。
「笑い事ではないぞ。隣の物置に辿りつけずに遭難することもあるのだからな」
「──確かに、こんなに何も見えないなら、ありえるよね」
被っていた帽子を脱ぎ、伴侶は真顔で頷く。それから大きく息をつき、感慨深げに続けた。
「北国ではみんな、この厳しい冬に耐えているんだね……」
「それは、お前が雪のない冬を知っているからではないか?」
尚隆は軽く笑ってそう返す。遥か昔、雁に来たばかりの頃は、尚隆もそう思った。それから長い時をかけて、気候温暖な瀬戸内とは違う雁の四季に馴染んでいったのだ。
「ここではこれが当たり前だ。冬には雪が降るから、その前に準備をするのだ」
雁の民は、雪に塗りこめられる前に、薪を集め、炭を買い求め、食糧を用意する。ずっと、そうやって生きてきたのだから。
「──そうだね。窓に紙を貼って耐えられる冬じゃないものね」
目を見張っていた伴侶は、王の顔をして笑う。慶でも里家の客庁の窓に玻璃が入っていた、と伴侶は嬉しげに語っていた。
冬にも雪に閉ざされぬ国からやってきた女王は、初めて体験する雪国の冬に驚きを隠さない。そして、雪があるのが当たり前の国の常識を、楽しみつつ学んでいるのだ。
尚隆は伴侶に笑みを返した。伴侶は屈託なく笑い、無邪気な願い事をする。
「じゃあ、今度は薪割りをしてみたいな」
「──普通、女は布を織ったり籠を編んだりするものだぞ」
いくら剣を持ち慣れてるからといって、薪割りをしたいとは。尚隆は呆れて渋い顔をした。しかし、伴侶は悪戯っぽい貌をして尤もなことを言った。
「だって、あなたは機織や籠作りを教えられないでしょう?」
「──確かにそうだな」
言って尚隆は破顔した。それから入り口の土間に置いてあった鉈を取り上げ、好奇心いっぱいに見つめる伴侶の前で薪を割ってみせた。その後、伴侶はへっぴり腰で薪割りをし、尚隆を大いに笑わせてくれたのだった。
「不恰好でもちゃんと燃えるよね」
「燃えてしまえば分からないぞ」
「──もっと他に言いようがあるじゃないか」
自分で割った薪を大事そうに抱えた伴侶は、尚隆の揶揄に不満げに抗議する。その顔が可愛らしく、尚隆はまた笑った。
そんなふうに、伴侶と過ごす冬の日々は楽しく過ぎていった。窓の外を見やると、吹雪が断続的に続いていた。
吹き荒れる風はいたるところに吹き溜まりを作っている。きっと、昨日歩いた小道も消えているのだろう。明日は小屋から直行したほうがよいかもしれない。そう思い、隣で窓の外を眺めていた伴侶に目をやった。暗くなりかけてもまだ白い外を、玻璃に額を付けた伴侶は目を輝かせて見つめている。尚隆は微笑して声をかけた。
「ずいぶん気に入ったようだな」
「家の中からだったら、気が済むまで眺めてもいいよね」
昨夜、洗い髪で外に飛び出した無謀な伴侶は、尚隆を見上げて笑顔で訊く。尚隆は苦笑して頷いた。
「──少しは学習したようだな」
「少しじゃないよ」
伴侶は澄ましてそう答えた。そしてまた、飽かず美しい雪明りを眺めたのだった。
* * * 14 * * *
尚隆は気が済むまで雪明りを眺めた伴侶と一緒に夕食を作り、楽しく食した。それから伴侶が淹れてくれた茶を手に、暖炉の前に坐った。
膝を抱えて丸くなる伴侶は、暖炉の火に見入っている。そんなに珍しいのだろうか、と思うと笑いが込み上げた。そのまま燃え盛る炎を映す翠の宝玉を見つめ続ける。
尚隆にとって珍しいのは、向かい合わせに坐るこの距離だ。いつもは互いの瞳が映りあう距離で見つめあう。もしくは、隣り合わせに坐り、触れる肩を抱くのだから。
やがて、視線に気づいた翠の瞳が尚隆を見返す。そして、驚いたように目を見張った。見開かれた瞳は、それでも真っ直ぐに尚隆に向けられていた。
目を逸らせ。
声を出さずに命じ、尚隆は口許に薄く笑みを浮かべる。今宵は、逃がさない。尚隆はそう決めていた。伴侶は、射竦められたように動かない。尚隆はおもむろに声をかけた。
「──どうした?」
まるで呪を解かれたかのように小さく息をつき、伴侶はそっと目を膝に落とす。少し震える細い肩を抱き、頤に手をかけた。もう一度、視線を捉え、低く囁く。
「──怖いか?」
伴侶は安堵したように小さく頷く。尚隆はそんな伴侶に優しい笑みを向ける。そして、肩に置く手に力を籠めた。
「──怖い俺も知っておけ」
見開かれる翠の瞳に薄い笑みを送り、尚隆は伴侶を押し倒した。声なき悲鳴を上げる朱唇を荒々しく塞ぎ、帯を解く。剥き出しになった柔肌は、妖しく炎に染め上げられ、欲情に油を注ぐ。
身動きできぬように縫い留めた華奢な身体を、己の欲求のままに貪った。怯える瞳、震える身体、喘ぐ朱唇。それでも、永の年月に渡って愛しみ、育ててきた女の肢体は男の熱に応える。
嫌、と言わぬ伴侶を、存分に嬲り、弄び、味わう。瞳に滲む涙は、その胸の内を曝している。
お前は、若い。愛が全てを凌ぐ、と思うなど。それならば、その涙は、いったい何だ? 尚隆は昏く笑う。
愛も、憎も、大差ない。その根底にあるものは──ただの執着だ。
その身を、心を求め、己がものにしたいと思う。その身体を抱き、貫き、ひとつになりたい。どんなにそれらしい理屈をこねても、つまるところは、愛という名の欲を満たすため。
閉じることのない翠の宝玉から、涙が零れる。尚隆はいつもの如く、己の唇でそれを拭った。ほろ苦い味が、更なる欲を燃え立たせる。
甘い吐息だけでなく、優しい笑みだけでなく、苦い涙をも味わいたい。お前が抱く、躊躇いも、羞じらいも、胸の奥に秘められた、焔のような憎しみすらも。
陽子。今、このとき、お前が欲しい。この刹那の、お前の全てを──。
震える女の細い手首を掴み、涙を湛える瞳を見やった。小さく喘ぎ、女は華奢な身体を仰け反らす。翠の宝玉は、その身を激しく攻め立てる男を、切なく見つめた。
高まる熱を感じ、男は己を解放する。そして、大きく溜息をつき、女に身体を重ねた。男は強いたことを詫びて、女の朱唇に口づけた。そして、女の手首を離し、そっと指を絡める。──いつも己を優しく抱きとめる腕に拒まれることを恐れて。
女の胸に顔を埋め、男は自嘲する。己の欲のままに求めながら、女の拒絶を恐れるなど。それほど女を想いながら、何故、己の欲を抑えられなかったのか──。
不意に女は息を呑み、身体を強張らせ、男の指を強く握る。男は顔を上げ、女を覗きこんだ。女は甘い溜息をつき、仄かに笑う。潤んだ翠の瞳から、涙が零れた。
その美しい笑みと、清らかな涙。はっと胸を衝かれ、男は女の涙を己の唇で拭う。己の欲で女を汚したことを、心から悔いて──。
潤んだ翠玉の瞳が微笑する。その、慈愛に満ちた、神々しいまでの笑み。全てを赦し、受け入れる伴侶の美しさに、尚隆は胸打たれ、見とれた。
やがて、伴侶は目を閉じ、微かに寝息を立てた。情事の余韻を残しながらも、幼くさえ見えるその寝顔を、尚隆は眺め続ける。それから、小さく息をつき、身体を起こした。
尚隆は脱ぎ捨てた服を羽織り、伴侶の軽い身体を抱き上げて臥牀へと運ぶ。そして、少し震える伴侶を夜着でくるみ、衾を掛けた。
2008.02.12.
長編「燠火」連載第7回をお届けいたしました。
昨年オマケ拍手で連載した「燠」「欲」「悔」、
それから「忍」の途中までが入っております。
勿論コメント不能でございます……(汗)。
2008.02.12. 速世未生 記
背景画像「工房 雪月華」さま