燠 火 (8)
* * * 15 * * *
疲れ果てて眠る伴侶の寝息が次第に深くなる。その寝顔を見下ろす尚隆は、伴侶の隣に身を横たえることを躊躇った。
華奢な身体の温もりは、尚隆の胸の奥に燻る炎を燃え立たせる。そして、その激しい焔は、まだ稚い伴侶を焼き尽くしてしまう──。
愚かなことを。
ふっと自嘲の息をつき、尚隆は踵を返した。燠火が昏く燃える暖炉に戻り、残った薪を確かめる。そんなとき、吹きこんできた風が、轟と唸りを上げた。すると、ぱちぱちと音を立て、燠火が明るく燃え立った。
掻き立て、薪を足さなければ燃え上がらないはずの燠火を、いとも簡単に燃え立たせる風。尚隆はじっと炎に見入る。もしや、己の胸の燠火も、こんなふうに煽られてしまったのだろうか。
いったい、何が秘めた炎を煽り立てたのだろう。
尚隆は窓の外を見やる。吹雪はまだ続いていた。身支度を整え、褞袍を羽織る。そして、尚隆はひとり外へと向かった。
目の前に白い闇が広がる。廬の灯りはおろか、傍にある木々すら見えない真白き闇。頬を叩きつける風を感じながら、尚隆は降りしきる雪を見上げた。
昼に見た不吉な幻が蘇る。白い雪の上に夥しい血を撒き散らしながら、ゆっくりと倒れる紅の女王の幻が、こんなにも鮮やかに。
これが己の胸に燻る燠火を掻き立てたものの正体か──。
互いに王だ。故に頻繁に会えるわけではない。しかも公認の仲ではない。二人で過ごせる時は短く、夜が明け切る前に別れを告げねばならない。
そんなことは承知の上で、隣国の女王を手折った。会えぬ時間が長いからこそ、こうやって二人きりで過ごす機会を作るために画策した。それすらも楽しんでいたはずだった。
王の責を一時忘れ、素顔を見せる愛らしい伴侶。初めての雪国の冬を満喫する伴侶と二人きりで過ごす時間は、尚隆にとって至福の時だった。それなのに。
幸せな想いに浸れば浸るほど、それを喪うことが恐ろしい。
あの、景王弑未遂を知ったときの胸の痛みが蘇るのだ。これほどまでに喪失を恐れるものができるとは、今まで思いもしなかった。いや、こうなることが分かっていたからこそ、大切な伴侶を作ることを避けていたのかもしれない。
風が雪を容赦なく叩きつけてくる。伴侶はそれを恐れることなく受けとめていた。自然に敬意を払いつつも闇雲に怖がることのない、王と呼ばれし者。
白い闇の中でさえも鮮やかだった紅の髪は、景王陽子が纏うまばゆい光の象徴のようだった。歳若き女王は、尚隆の胸に巣食う昏い闇を暴く。それと同時に、尚隆の果てしない深淵に紅の灯りを点すのだ。小さくとも、優しく温かい灯りを。
陽子、愛している。光と闇をともに抱くお前こそが、ただひとりの伴侶──。
王の足許には常に暗闇がある。光に照らされると影ができるように。光が眩しければ眩しいほど、後ろにできる影は昏く濃い。そしてそれは、隙あらばすぐに王を呑みこもうと待ち構えているのだ。しかし。
まだ、その暗闇に足を掬われるわけにはいかない。
尚隆は低く笑う。その声さえも、吹き荒ぶ風と冷たい雪が呑み込んでいったのだった。
小屋に戻った尚隆は、入口の土間で雪を払う。そして、暖炉に太い薪をくべた。これで今夜は火が消えることはないだろう。
褞袍のまま暖炉の火にあたる。身体は既に冷え切っていた。褞袍が乾いた頃、尚隆はそれを脱いだ。それから尚隆は褞袍を手に取る。そして、横たわる騶虞の温もりに身を預けた。
尚隆は瞑目し、深く息をつく。己の闇と欲を伴侶にぶつけてしまった。初めての雪国の冬を心から楽しんでいた歳若き伴侶に。
尚隆は伴侶に無理を強いたことを悔いた。そして、涙を湛えながらも受け入れてくれた伴侶に、そっと感謝した。伴侶が拒絶していれば、女王の身を守る班渠も黙ってはいなかっただろうから。それでも。
炎に照らされて浮かび上がる肌は美しかった。
思い出すとまた、胸に秘めた燠火が燃え上がる。尚隆は苦笑した。箍が外れぬうちに眠ってしまおう。そう思い、尚隆は意識を手放した。
* * * 16 * * *
騶虞の身動ぎで目が覚めた。が、目を開けずに状況を確かめた。辺りはまだ暗い。すぐ傍で人の気配がした。騶虞は警戒しない。が、尚隆は少し緊張した。
「──たま」
騶虞を宥めるような微かな声がした。そして、伴侶は静かに尚隆の隣に腰を下ろす。それから、そっと尚隆に寄り添い、すぐに寝息を立てた。力の抜けた伴侶の身体が、尚隆に凭れかかる。それに反して尚隆の緊張は増していった。
怖いか、と訊ねた尚隆に、伴侶は小さく頷いた。華奢な身体は震え、瞳は涙で潤んでいた。それでも、尚隆は己の欲のままに伴侶を貪ったのだ。それなのに。
何故──そんなに無防備に眠れる? また、襲われたら、とは思わぬのか?
そんな疑問が頭の中をぐるぐると回った。
尚隆は目を開けてみた。己の身体に凭れて眠る伴侶を起こさぬように、そっと見下ろす。暖炉の燠火が照らし出す伴侶は、いつもと変わらぬ無邪気な寝顔を曝していた。
尚隆と同じように褞袍に包まる伴侶。その、恐れも躊躇いもない、安らかな寝顔を見つめ、尚隆は胸で呟く。
お前は、俺の我儘を許してくれるのか、と。
無論、伴侶は答えない。静かな寝息が聞こえるばかりだった。左に伴侶の温もりを感じながら、尚隆はまんじりともせずに夜明けを迎えた。
白々と明けていく空を眺めていた。吹雪はいつの間にか収まり、眩しい朝陽が昇ってくる。尚隆は体勢を変え、小さく息をついた。
やがて、陽の光に照らされて、伴侶の睫毛が動いた。小さな右手がそっと尚隆に触れる。それからゆっくりと目を上げた伴侶が、鮮やかな笑みを見せた。
「おはよう」
陽子という名のとおり、太陽のように眩しい笑顔。陽光の笑みに照らされて、尚隆の緊張も徐々に緩んでいった。伴侶にぎこちない笑みを返し、尚隆は窓の外に目をやる。
「──天気が回復したな」
「うん、よかった」
そう言って、伴侶は大きく伸びをする。それから、お腹がすいた、と小さく笑った。尚隆は色気のない言に吹き出す。
「では、竈に火を入れよう」
「それもやってみたい!」
伴侶は目を輝かせ、夜着のまま厨房へと走っていった。尚隆は苦笑しつつ、その後を追った。
竈に火を入れ、二人で朝食を作った。伴侶は粗末な食事を楽しげに食べる。それから、小さく溜息をついた。
「──こんなふうに料理をすることなんて、またしばらくできないだろうね」
「こんな粗食ばかりだと、いずれ倒れるぞ」
「もう、意地悪ばっかり」
膨れっ面の伴侶に笑みを返し、尚隆は荷物を纏め始めた。短い休暇は終わりを告げる。もうそろそろ、廬を出なければならない。伴侶と二人で過ごす時間も、残り僅かである。そんな想いを胸に隠し、尚隆は淡々と小屋の中を整理した。
最後に火の始末を終え、尚隆は伴侶とともに小屋を出た。足跡ひとつない銀世界が陽光に煌いていた。吹き溜まりがあちこちにできている。登ってきた小道は、昨日の吹雪で見事に消えていた。
「──ここから一気に飛んだほうがよさそうだな」
「え……。でも、膝まである雪を漕いで歩いてみたいな……」
尚隆の提案に伴侶は首を振る。上目遣いに見つめながら、伴侶は小さな声で続ける。尚隆は呆れて嘆息した。
「──お前は物好きだな」
「だって、こんなことは滅多に体験できないでしょう? 慶じゃ絶対ありえない」
言い募る伴侶に笑みを見せ、尚隆はゆっくりと歩き出す。こんな雪道を歩くのは、尚隆も久しぶりだった。
伴侶は黙ってついてくる。仄白い空を見上げ、眩しい雪原を見渡し、雪を咲かせる木々を見やりながら。時折聞こえる感嘆の溜息がそれを告げる。伴侶の素直な反応は、尚隆の心にも温かいものを齎した。
不意に背に視線を感じた。伴侶は景色ではなく、尚隆の背中を凝視する。何かあったのだろうか。尚隆は足を止めて振り向いた。見ると、伴侶は瞳を潤ませていた。尚隆は目を見張り、伴侶をじっと見つめ返した。
2008.02.16.
長編「燠火」連載第8回をお届けいたしました。
去年、暖冬を残念に思い、昔を懐かしみながら「雪明」を書きました。
今年は、実際に−15℃の世界を体感し、薪ストーブの炎をも眺めてまいりました。
故に、描写がよりしつこいかもしれませんね(苦笑)。
後2回ほどで終われるといいなぁ。──気長にお待ちくださいませ。
2008.02.16. 速世未生 記
背景画像「工房 雪月華」さま