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雪 明ゆきあかり (3)

* * *  5  * * *

 暖炉の前ですっかり温まり、陽子は立ち上がった。厨房に向かい、茶の支度をしながら、陽子は伴侶に話しかける。
「──何をしてるの?」
「湯を使いたいのだろう?」
 見ると伴侶はどこからか、大きな盥と桶を調達してきていた。そして、これがないとな、と片目を瞑ってみせる。ありがとう、と陽子は笑みを返した。
 それから二人で茶を飲み、ささやかな昼餉を取った。身体が温まり、小腹がいっぱいになると、このまま湯を使うのが勿体ない気がする。窓の外は、雪を楽しむにはもってこいのよい天気だ。

 雪だるまを作りたい、と陽子は言った。湯を使うのではなかったのか、と伴侶は呆れ顔を見せる。だって、今は身体が温まったから、と言い訳すると、伴侶は、しょうがないな、と苦笑した。
 再び褞袍を着込み、外に出る。高台から見下ろすと、小道が白銀に光って見える。嬉しくなった陽子は、子供のように駆け出した。あんまり走ると、と伴侶が言い終わる前に、陽子は尻餅をついた。
 だから言ったのに、と笑う伴侶に、陽子は膨れっ面を見せる。くつくつと笑って手を差しのべる伴侶を、陽子は逆に思いきり引っ張った。わ、と叫んで膝をつく伴侶を、今度は陽子が笑った。
「人のこと笑うからだよ」
「こいつ!」
 伴侶に額を小突かれて、陽子は仰向けに倒れる。雪は冷たく、けれど、ふわりと陽子を受けとめた。雪に包まれて目を閉じる。背中に感じる心地よい雪の冷たさ、頬を撫でる寒風。その風が木々の梢を揺らし、時折さらさらと雪が落ちる音がする。そして、どこかで鳴いている鳥の声、

 こんなに寒くても、生きているものがいる。

 鳥も、動物も、そして、人間も。みんな、この厳しい寒さと折り合って生きているのだ、と思うと感慨深かった。
 大丈夫か、と心配そうな声がした。目を開けると、深い色を湛える双眸がすぐ傍にあった。ただ微笑だけを返すと、唇が落ちてきた。再び目を閉じ、甘い口づけに身を任せる。温かな唇が、冷たい頬に触れた。冷たいな、と言われて目を開けた。伴侶の肩越しに、晴れ渡る空が見えた。ああ、と陽子はまた感嘆する。

「──空の色が、違う」

 晴れていながら、どこか白い空は、まるで雪を映しているかのよう。慶で見る空とは、確実に違う。そう告げると、怪訝な顔をしていた伴侶が微笑んだ。そうか、と言って、伴侶は己も寝転んで一緒に空を見上げてくれた。
 身体が冷え切る前に、起き上がった。今度はゆっくりと歩き、さらさらの雪に苦労しながらも、二人で雪だるまを作った。小さめと大きめの、仲良く寄り添うふたつの雪だるまを。

 それから小屋に戻り、今度こそ湯を使う準備をした。衝立の陰で服を脱ぎながら、覗かないでね、と声をかけた。見て欲しいのか、と伴侶の悪戯っぽい返答が聞こえる。覗いたらお湯をかけるから、と怒ると、伴侶は大きく笑った。
 もう、と嘆息しつつ、陽子は湯で満たされた盥に身を沈める。こんな湯浴みも久しぶりだった。王宮には専用の湯殿がある。己の暮らしは、民の暮らしから、随分とかけ離れているのだ、と思うと少し切なかった。
 あんまり長湯すると湯冷めするぞ、と心配そうな声がした。陽子ははっと我に返る。確かに、湯が冷めるのが早い。もう上がるよ、と応えを返し、陽子は身体と頭を拭いた。
 その後、二人で夕食の支度をした。洗い髪を紐で括り、手際よく野菜を切る陽子を見て、伴侶は目を丸くする。
「──なかなかよい手つきだな」
「これくらい、普通じゃないの?」
 王でなければな、と伴侶は笑った。そうかな、と陽子は首を傾げる。自覚がないのも困りものだな、と伴侶は嘆息した。
 他愛のない会話を交わしながら夕餉を食べた。肩を並べて片付け物をしながら、まるで新婚みたいだ、と思う。そう考えるだけで、頬がかっと熱くなる。どうした、と訊かれて、陽子はぶんぶんと首を横に振った。

 外は次第に暗くなっていった。暖炉の炎を灯代わりにし、向かい合って座りこむ。そのまま陽子は明るく輝く炎に見入った。綺麗、と呟くと、伴侶がくすりと笑った。目を上げると、笑みを湛えた双眸がじっと見つめていた。

* * *  6  * * *

 暖炉の火が、尚隆の目に映っていた。赤々と燃え、時折ぱちぱちと爆ぜ、躍り上がる炎が。いつも、互いの瞳が映りあうほど近い距離で見つめあう。その距離では見えないものが見えたような気がした。
 黙して微笑む尚隆の瞳に映る炎は、その身に潜む情熱のように思えた。触れあわなくても感じる熱に、陽子は目眩を感じる。
 暖炉の前に向かい合う二人の柔らかな沈黙に、張りつめたものが忍び寄る。陽子は落ち着かない気持ちを持て余す。

 何か話さなくては。

 そう思いつつ、言葉を手繰ることができなかった。揺らめく炎から目を逸らすことができない。そう、本能が告げる。目を逸らせば呑まれてしまう、と。

 胸が苦しい。息が詰まる。

 その緊張に、陽子は耐えることができなかった。陽子は立ち上がり、素早く褞袍を着込んだ。驚く尚隆を置いて、そのまま外へ向かう。
「──陽子!」
 まだ、髪が濡れている、と尚隆の声が追いかける。陽子は構わず外へ出た。真冬の凍てつく空気に、洗い髪が一瞬にして冷え固まる。しかし。
「──う、わぁ……」
 陽子はそのまま声を失った。見上げると目に入る、瞬く満天の星空。そして足許には、青白く浮き上がる雪原が煌く。

 なんて綺麗なんだろう──。

 凍った髪も、千切れそうに冷たい耳も、痛いほど冷えた頬も、どうでもよくなった。陽子は、初めて見る幻想的な風景に、目を奪われていた。
 不意に暖かいものが降ってきた。無茶をする、と溜息混じりの声がする。尚隆が陽子の頭に大きな布をかけた。陽子は己の感嘆を伴侶に伝える。

「──尚隆なおたか、雪が星を映しているよ!」
「ああ、雪明りというのだ。見たことがないだろう?」
「うん、綺麗……。夜なのに、こんなに明るいなんて、不思議」

 そう呟いて、陽子はうっとりと雪原を眺める。星空を映して仄かに煌く真白の景色は、いつまで見ても見飽きない。
 その場を動かない陽子を、尚隆は後ろから抱きしめた。そのままだと凍死するぞ、と笑いを含んだ声がする。伴侶の温もりが、却って寒さを思い起こさせた。身震いする陽子に、尚隆は、戻ろう、と促した。
 手足が凍えていた。剥き出しの鼻と頬が痛み出している。さすがに限界を悟り、陽子は小さく溜息をつく。その溜息さえも凍って下に落ちそうな、北国の厳冬。名残惜しげに振り返りながら、伴侶に手を引かれた陽子は踵を返す。その足音も、きゅっきゅっと小気味よく響いた。

「──なんだか、可愛い音がするよ」
「これは雪鳴りだ。寒いときにしか聞こえない」

 雪に覆われる北国ならではの、数々の美しき現象。厳しい寒さを伴うだけに、心と身体に忘れえぬ感動を刻む。

 まるで、このひとのよう。

 陽子は、感慨深げに隣国の王である伴侶を見上げる。大きな掌で陽子を温める伴侶は、優しい笑みを返した。

 暖かい房室に戻ると、凍えていた髪が一気に融け、雫が滴った。手足も、頬も、耳も、じんじんと音を立てて緩み、熱を持ち始めた。不快げに眉を顰めると、無茶ばかりするからだ、と尚隆はまた笑う。
「これでも飲んで、身体を温めろ」
 そう言って尚隆は陽子に白湯を差し出した。内から熱を発しながら、指はまだ氷のように冷たい。白湯の入った湯呑みは、持てないくらい熱く感じた。陽子は小さく不満を漏らした。
「──お茶の方がいいのにな」
「無茶な奴にやる茶はない」
 伴侶は即座に憎らしい応えを返す。陽子は大きく息をつき、人の悪い伴侶を睨めつけた。
「そんなこと言って……。面倒なだけでしょう?」
「よく分かったな」
 呵呵と笑いながら、尚隆は湯呑みを持つ陽子の髪をそっと拭いた。陽子は白湯を口に含む。ただの白湯が、仄かに甘く感じられた。
 白湯を飲み干し、暖炉の燠火を見つめると、快い眠気が襲ってきた。うとうとまどろみかけた陽子を、尚隆はくすりと笑って抱き寄せる。それから、こんなところで寝たら、いくらお前でも風邪を引くぞ、と囁いた。陽子が返事をする前に、身体がふわりと宙に浮いた。そして、おやすみ、と優しい声が聞こえた。

2007.02.01.
 中編「雪明」連載第3回をお送りいたしました。 今回が一番書きたかった部分かもしれません。 題名にもした、「雪明り」でございます。 陽子と一緒に楽しんでいただけると嬉しいです。

2007.02.01. 速世未生 記
背景画像「工房 雪月華」さま
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