黄 昏 (3)
* * * 5 * * *
「いいか、何があっても、王師を戴に向かわせてはならぬ」
延王尚隆は景王陽子をじっと見つめ、いつもより厳しい声でそう断じた。陽子は大きく目を見張って瞬いた。思ってもみないことだった。親身になって陽子を助けてくれたこのひとが、まさかそんなことを言うとは。その疑問は口をついて出た。
「……どうしてです?」
「どうしてもだ。そういうことになっている」
どうしても。そんな言葉を聞きたいわけではない。そんな歯切れの悪い答えでは、納得できるはずがない。
陽子はかつて雁の助力を受け、景王として偽王討伐に向かった。そのとき、延王尚隆は、雁の王師とともに国境を越えたのだ。しかも、何も知らぬ陽子に景麒奪還を促したのは、延王尚隆そのひとだった。陽子は尚隆に鋭い視線を向け、重ねて問うた。
「私は延王の助勢を受けて慶に戻ったのだと思いましたが?」
「それは違う」
尚隆は語気を強めた。あくまで景王が雁に助力を求め、延王は王師を貸したに過ぎない。尚隆のその主張は、陽子にとっては、ただの詭弁にしか聞こえなかった。
どこまでも懐疑的な陽子に、尚隆は、それが天の理だ、と断じる。「覿面の罪」というのだ、と。困惑する陽子に、太師遠甫が遵帝の故事を話して聞かせた。
古の王が、失道した王に虐げられている隣国の民を救おうと王師を出して斃れたという。しかしそれは。言い募る陽子の言を、またも尚隆はあっさりと遮り、滔々と諭した。
言いようもない違和感が陽子を襲う。どうにも説明しようのない、納得のいかない違和感──。
陽子は何も分からぬまま、同じく胎果の隣国の王を頼った。そして、その助力を得て登極することができた。同じように、陽子を頼ってきた他国の者を助けたいだけなのに。その気持ちを、天の理という無機質な言葉で、一刀両断されたような気がした。
いつも温かな眼差しで陽子を見つめる伴侶の、冷淡にすら思える言葉。
──あれを、見捨てろと言うのか。
怒りが沸々と湧いてきた。憤る陽子を宥めるように、尚隆は手を挙げて話を続ける。そんな簡単なものではないのだ、と。
「ことは慶の国運に係わる。くれぐれも早まるな」
「見捨てろと言っているのも同然です」
陽子は昂然と言い募る。延王尚隆が、己の伴侶が、まるで別人のように見えた。
このひとは、知らないのだ。李斎がどれだけ酷い状態で景王陽子を訪ねたかを。妖魔に襲われ、満身創痍で現れた李斎。瀕死の状態で、必死に陽子に嘆願したあの姿を、このひとは知らない。──あれを、己の保身のために捨て置くことなど、陽子にはできない。
「勘違いするな。お前は慶の国主であって、戴の国主ではない」
陽子の必死な訴えを聞いても、延王尚隆は冷たく言い放つのみだった。陽子は尚も食い下がる。そんな陽子を遮り、尚隆は続ける。
「荒民の中には、こう言う者もいる。泰王は弑された、泰麒もまた弑された。そして、それを行ったのは、瑞州師の劉将軍だ、と」
「……まさか」
陽子は一瞬黙した。あれだけ必死に救国を訴え、倒れて伏した者が、逆賊? 生死を彷徨い、右腕を失ってまで奏上した者なのに。──そんなはずがない。そんな陽子に、尚隆は冷静に告げる。
「泰王も泰麒も死んだとは思えぬ以上、単なる噂の域は出ない。だが、荒民が逆賊の名として挙げたのは、劉将軍が最も多かったことは覚えておく必要がある」
このひとは、李斎を疑っているのか。ひいては、李斎を信じた陽子を疑っているのか。
激しい感情が押し寄せてきた。勁い視線で尚隆を睨めつけた。そんな陽子の目を、真っ直ぐに受けとめ、延王尚隆は静かに言った。
「劉将軍の話を聞きたい。──確認のために」
「──分かりました」
陽子の話だけでは納得できないのであれば、実際に李斎を見てもらおう。李斎の話を聞いてもらおう。陽子はそう思い、抑えた口調で応えを返した。そして、心配そうな色を浮かべた隣国の王の双眸から、ぐいと目を逸らした。
* * * 6 * * *
戴の将軍は、金波宮正寝から内殿にほど近い太師邸に移っていた。先導する陽子は口を閉ざしたまま足早に歩く。尚隆は小さく息をついた。陽子の見る目を疑っているのではない。そういう問題ではないのだ。
冢宰浩瀚も太師遠甫も、陽子が劉将軍に心を砕くことに反対してはいない。無論、慈悲を重んじる麒麟である景麒も。その事実からも、劉将軍の為人が確かなことは推測できる。
しかし、尚隆が心配しているのは、そういうことではない。陽子は、どうして分からないのか。先を歩く華奢な背を見やり、尚隆は考えを巡らせる。
景王陽子が登極して二年。慶は復興に向けて確かに進み続けている。しかし、改革を断行する胎果の女王が、全ての民に受け入れられているわけではない。
それは正寝に伺候する下官の数の少なさからもよく分かる。素性の知れぬ者を主の傍には置けない。拓峰の乱をともに戦った禁軍左将軍と大僕が、陽子の傍に侍る者を厳選しているのだろう。それに、尚隆をもてなす女史や女御が嘆いているのも聞いたことがある。処遇を恨んでいる官も多いのだ、と。
そんな中で、自国を置いて他国のことにかまけていては、足許を掬われかねない。慶国は、まだまだ落ち着いていないのだから。戴をも救いたい、という陽子の思いが純粋であればあるほど、そんな心配が尽きないのだ。
辣腕と陽子が褒める冢宰は、どう思っているのだろう。陽子の傍らに影のように控えているあの男は。尚隆は後ろの気配を探る。
尚隆と陽子の話し合いに、冢宰が口を挟むことはなかった。雁に書簡を送ってきたのは、この男だというのに。──王と王の会談を憚ったのだろうか。
切れ者の冢宰は、恐らく、雁国主従が直接訪ったことの重大さを承知している。その上で尚、無鉄砲な主を止める素振りすらみせなかった。
──いったい何を考えているのか。もしや、主の意を汲みつつ、その身を守る己の手腕に、絶対の自信を持っているのか。
そういえば、この男は以前、延王の勅使を装った尚隆の正体に気づいた。もしかして。目端の利く理由を思い当たり、尚隆は口許を歪めて笑う。──なるほど、面白い。お手並み拝見、といったところか。
太師邸に入ると、子供がひとり、迎えに出た。陽子は顔をほころばせ、桂桂、と声をかけた。桂桂と呼ばれた子供は嬉しげに笑みを見せた。
「桂桂、李斎はいるか?」
「はい、ちょっと待っててね」
桂桂は奥へ駆けていく。そして、すぐに戻り、奥へどうぞ、と声をかけて下がっていった。陽子に続いて堂室に入ると、榻に女が横たわっていた。
延王尚隆が己の目で見ても、確かに劉将軍──李斎は逆賊ではなかった。その凛とした美貌、落ち着いた物腰、そして聡明な光を宿す瞳。
「こちらは雁国の延王、延台輔であらせられる」
尚隆と六太を訝しげに眺める李斎に、陽子が尚隆と六太を紹介する。李斎は雁国主従の訪れに驚いていた。何故、と問う李斎に短く応えを返し、陽子はすぐに本題に入った。
戴はどういう状態なのか。そう問う陽子に、李斎は酷い状態だと答える。泰王と台輔がいないのだから、と。陽子は翠の瞳ではたと李斎を見つめる。
「戴の荒民の中には、泰王、泰麒ともに弑されたと言う者もいるとか。そしてその犯人は、瑞州師の将軍だとも」
「違います──それは誤解です!」
「確認しただけだ。落ち着いて」
目を見開き、飛び起きようとした李斎を、陽子は慌てて押し戻す。李斎は、違う、と言い募る。分かったから、と陽子は気遣う視線を送る。
興奮が冷めてきた李斎は息をついた。その様子は、嘘をついているようには見えなかった。
「……私が弑した、あるいは、他の誰かが私を操っていたのだとして、何度も追撃の命が出されました。ですが、それは違うのです……」
李斎は片手で胸に下がった珠を握る。尚隆はその珠に目を留めた。あれは、碧双珠。本来なら王しか使ってはいけないはずの慶の宝重ではなかったか。尚隆は苦笑する。陽子は、そこまでこの将軍に心を掛けているのか、と。
そして李斎は、泰王が内乱を治めに行った時の様子を語り始めた。泰王は行方が知れなくなり、それは陰謀なのではないかという噂が流れた。噂の真偽を確かめている最中に、王宮で蝕が起きたのだ。
蝕は甚大な被害を齎し、仙である諸官にも死者が出るほどだった。そして台輔の姿は見えず、冢宰は重傷を負った。
王と宰輔、双方が同時に行方も安否も分からない。そして、それを補うはずの冢宰さえも怪我のために身動きが取れなくなっていた。王朝は一瞬のうちに未曾有の混乱に投げこまれた。
そんな中、主は亡くなられた、と静かな声がして、議場は静まった。その声の主、禁軍右将軍阿選は、一同を見渡し、掌を差し出した。その掌には鳥の足が載っていた。阿選は、白雉が落ちた、と宣言した。そして、誰もがその言を信じたのだった。
2006.07.27.
お待たせいたしました。「黄昏」第3回をお届けいたしました。
「尚陽対決」、それぞれの胸の内でございます。如何でしたでしょうか。
あんまり話が進まなくてごめんなさい。気長にお付き合いくださいませ。
2006.07.28. 速世未生 記