黄 昏 (4)
* * * 7 * * *
禁軍右将軍阿選が白雉の足を持参し、泰王の崩御を宣言した──。
李斎はそこまで語って言葉を切った。固唾を飲んで聞き入っていた五者は、五様に声を漏らした。
尚隆は眉根を寄せる。雁の鳳は鳴いていない。慶の鳳も鳴かなかったという。となると、その阿選という男が言を謀った、ということか。
陽子がその意味を問う。白雉が落ちるということは、王が亡くなったということ。そう説明して陽子を納得させ、李斎は続ける。
阿選は先王の時代から禁軍右将軍を務め、現泰王とは双璧とまで呼ばれた重臣であった。その場にいた誰もが阿選の言を信じた。
阿選はこの混乱の中で唯一、やるべきことを把握し、的確に行動した人物だった。そうして阿選は白雉の足を保管し、朝の権を握ることとなったのだった。
その後、李斎は自身の郷里である承州の乱を鎮めるために、鴻基を発った。そして、それが首都の見納めとなってしまった。
瑞州の州境を越えた頃、李斎に助けを求めて駆けこんできた下官があった。二声宮に勤めていたというその男は必死の形相で助命を嘆願した。阿選が、白雉を壷に籠めて埋めてしまい、雉の足を切り落としたのだと男は言った。そして、二声宮の官吏を全て殺したのだ、と。下官を保護し、阿選の謀反を首都鴻基に知らせた李斎は、逆に謀反人として追われることとなった。
「やがて、民の目にも阿選こそが逆賊であったことは明らかになりました。その時にはもう──遅かったのです」
泰王麾下の多くが国土に散らばり、潜伏し、あるいは密かに討たれたと聞いた。王宮の内部のことは、全く窺い知ることができなかった。立ち上がって阿選を責める者もあったが、そういった者たちは、悉く討たれ、あるいは姿を消す運命にあった。
阿選は僅かでも自身を責める者、泰王を褒める者を許さなかった。泰王由縁の地は焼き払われ、物資を止められ、民人は死に絶えていった。
李斎は沈痛な面持ちで語る。陽子は愕然とし、李斎に問うた。阿選はそこまで泰王を憎んでいたのか、と。
かもしれません、と李斎は答え、淡々と続ける。焼き払われ、冬に捨て置かれて無人になった里廬は後を絶たなかった、と。阿選を指弾し、阿選に反した土地は同様の命運を辿ったのだ。
黙して聞いていた尚隆は唖然とする。待て、と思わず声を上げた。それでは、国土の破壊だろう、と。阿選は玉座を簒奪して戴に君臨したかったのではないのか。
李斎は頷く。阿選はまるで戴を憎んでいるかのようだった。己の治める国土が破壊されていくことにも、民が死に絶えていくことにも頓着していないように見えた。それゆえに、阿選に対しては打つ手がなかった。
「乱が起これば大量の兵士を向かわせ、有無を言わせず里廬を焼き捨て反民を殺すだけなのですから、阿選は逃れた反民を追うことすらしません。逃げてまた起てば、また殺すだけ──そんなふうなのです」
「しかし、それでは国は立ち行くまい」
「そのはずです……でも」
尚隆の言葉に李斎は苦悶の顔を見せる。それなのに阿選を支持する者は後を絶たない。昨日まで阿選を指弾し、阿選の非道を声高に叫んでいた者が、翌日には阿選の支持者になっている。地位の高い者ほどその傾向が著しかった。
「幻術……みたいなものだろうか」
陽子が呟いた。有り得るかもしれない、と尚隆は内心頷く。阿選は尋常ではない方法で戴を席巻しているのだ。それでは逆賊を倒そうにも手の打ちようがあるまい。
「戴の民には、自らを救う術がありません……」
「──大丈夫か?」
苦しげに喘ぐ李斎の手を慌てて握り、陽子が気遣わしげに問うた。大丈夫です、と気丈に答えながらも、李斎の声は忙しない息づかいに途切れた。そして、閉じた瞼には深い影が落ちた。
「もういい。今日はここまでにしよう。とにかく」
「お願いです、……戴を」
李斎は陽子に最後まで言わせず、真摯な眼を向けた。細く窶れたその指が、陽子の手を強く掴む。分かっているとも、と陽子は李斎の手を握り返す。
冢宰浩瀚に呼ばれ、近くに控えていた大僕が駆けこみ、一同は堂室を出た。陽子は後ろ髪を引かれるように、何度も振り返っていた。その様子を見て、尚隆は大きく溜息をついた。
* * * 8 * * *
「見捨ててはおけない。──そんなことはできない」
抑えた口調に烈しさを忍ばせ、陽子は尚隆と浩瀚にそう言った。陽子の臣である冢宰浩瀚は、主の意を汲んでその命に従うのだろう。しかし、延王尚隆はそういうわけにはいかない。尚隆は陽子を低く叱咤した。
「──陽子」
「あの有様を見ただろう? あれを身捨てることが許されると思うのか? 見捨てるしかないなんて……そんな王にどんな存在価値があるんだ」
陽子は尚隆を見上げ、昂然とそう言い切った。そういう問題ではない、と諭す尚隆に、陽子は尚も烈しく言い募る。
「ここで戴を見捨てることが人道に適ったことなのか? 天が許さないと言うけれども、それは本当に確かなことなのか? そもそも天はどこにあるんだ。許さないと言う、その主体は誰だ」
景王陽子は、翠玉の双眸を燃え上がらせ、延王尚隆を正面から見据えた。尚隆は、その問いに答えることができなかった。それは、尚隆が常に感じていることでもあるからだ。
無論、世には理があり、王にはしてはならぬことが多々ある、と重々承知している。が、それを許さぬ天とは何者なのか。尚隆は天帝を見たことがない。景王陽子のその問いは延王尚隆の問いでもあった。
「ここで慶を守り、戴を見捨てることが王の義務なら、私は玉座なんかいらない」
そう言い捨てて走り去る陽子を、尚隆は追いかけることができなかった。尚隆と同じ疑問を持つ陽子に、心を殺して受け入れろ、とは──少なくとも、今は言えない。
それと同様に、落ち着かぬ国を抱える王に、教条的な天の摂理を説明するのも憚りがある。聡い陽子がその仕組み知ってしまえば、天に対する疑問が増すばかりだろう。国に安寧を齎す前に、天を信じられなくなるなど──。尚隆は瞑目する。己の存在意義を見失い、崩壊への道をひた走ることとなるかもしれない。陽子にそんなことをさせるわけにはいかない。
尚隆は目を開け、浩瀚を振り返った。その穏やかな顔が見せる決意。浩瀚は、もう主の意向を受け入れる気でいる。尚隆は軽く息をつくと苦笑した。
「浩瀚、お前の肚はもう決まったようだな」
「──我が主上は、言い出したら引く方ではございません。そして、誤った意地を張る方でもございません」
恭しく拱手しながら浩瀚は静かにそう告げた。その口調は穏やかだが、主に対する気遣いと信頼が感じられた。そして、己には主の意を汲む仕事ができるのだ、という矜持が滲み出ていた。
では、と頭を下げ退出しようとした浩瀚を呼び止める。恐らく陽子を捜しに行くのだろう。尚隆は笑みを湛え、声をかけた。
「──お前は陽子をよく把握しているな。これからも陽子の力になってやってくれ」
浩瀚は、言われるまでもない、とその双眸を鋭く光らせた。そして、再び恭しく拱手を返し、退出していった。辺りを見やると、陽子の半身たる景麒は既に姿を消していた。
「景麒ならとっくに出て行ったぜ」
「六太」
「──景麒には、いつでも陽子の居場所が分かるんだからな」
六太は意味深な笑みを見せる。景麒はそっと陽子を追っていったのだろう。この場にいる誰にも告げることなく。
「どうすんだ、尚隆。陽子は、引く気なんか、さらさらないぞ」
「──それでも、言わねば伝わらぬ」
「何を言ったって、あのまんまじゃ、納得なんかしやしない」
六太は肩を竦めてそう断じる。尚隆は眉根を寄せて黙した。
「──覿面の罪にならない方法を考えたほうが早いぞ、きっと。陽子は引かない。冢宰も太師も、恐らく陽子に従う。──あの将軍の様子を見たろ? あれを、見捨てろ、と言うのは、あまりにも酷だ」
「──六太」
延麒六太は麒麟だ。慈悲を最優先する生き物だ。しかし、王は違う。確かに尚隆も李斎を気の毒だとは思う。しかし、情に流されてはいけない。今の慶は、まだまだ復興途中で、余裕がないのだ。
尚隆は軽く溜息をつく。その場にはまだ太師遠甫が残っていた。尚隆は太師に目を向けた。
「──太師」
「はい」
「おぬしはどう見るのだ?」
景王陽子の教育係である太師に、延王尚隆は重々しく問いかける。問われた太師は恭しく頭を下げて応えを返した。
「──わが主は、豊かなる蓬莱にて、高い教育を受けてこられた方。胎果ゆえに知らぬことも多いのじゃが、無知の知を知っておられます。そして、己が納得できないことは決して容れることはございません」
「──ほう」
太師は正にそのとおりのことを述べた。さすが師匠はよく徒弟の気性を把握している。尚隆はそう思い、口の端で笑った。そんな尚隆に柔和な笑みを向け、太師は続ける。
「主上は、延帝が玉座というものを教えてくれた、と常々申しておられました。偉大なる隣国の王を、心から尊敬しておられる」
「──俺が陽子を納得させなければならぬ、と、おぬしは言うのだな?」
尚隆はおもむろに問うた。太師は再び恭しく頭を下げるのみで、応えることはなかった。陽子は、納得しないだろう。太師の沈黙は、暗にそう告げている。黙して聞いていた六太が口を挟んだ。
「結局、反対してるのは、お前だけってことさ。観念しろ」
「六太……」
「──陽子に、無理を強いるなよ、尚隆」
六太はにやりと笑って尚隆に釘を刺す。尚隆は複雑な視線を返すのみだった。
2006.08.02.
長編「黄昏」第4回をお届けいたしました。如何でしたでしょうか。
尚隆包囲網発動中、といったところですね。
今回、「あれ?」と思われた方もいらっしゃるかと思いますので、補足でございます。
原作では「洗脳」と陽子は語っております。
「洗脳」という言葉を知らない尚隆には「幻術」と翻訳されたという妄想でございます。
どうぞご了承くださいませ。
さて、来週も順調にアップできますように……!
2006.08.04. 速世未生 記