黄 昏 (5)
* * * 9 * * *
太師邸を飛び出した陽子は、勢いに任せて闇雲に金波宮の奥へと向かった。どこかの宮の庭院を過ぎ、岸壁に穿たれた短い隧道を潜ると、奇岩の合間に拓けた小さな谷間のような場所に出た。谷間の先は雲海に張り出した岬だった。
こんな場所があったんだ、と軽く息を吐き、陽子は草原に腰を下ろす。雲海の眺望しかないような、忘れられた場所。なんだか、陽子はほっとした。こんなとき、異世界を出自とする己に思い至る。
故国のことなど、思い出す暇もなかった。故国を語り合う仲間もなかった。同じく虚海を渡ってきた者である尚隆、六太、鈴──みな、陽子とは違う夢を見る人々だ。
あんなに帰りたかった故郷のはずなのに。無論、愛しんでくれるひとがいること、ともに仕事をする仲間ができたことは大きい。けれど、忘れていたのか、蓋をしていたのか。たまに思い出す故国は、遠い夢幻のようだった。
それが、泰麒の話を聞いてからというもの、少し揺れている。懐かしい、という気持ち。恋しいとまでは言わないが、もう戻ることはないのだと、切ない喪失感がある。
泰麒──同じ時代の同じ場所を共有した麒麟。今頃、どこで何をしているのだろう。蝕があったということは、あの夢のような世界へ戻ってしまったということなのだろうか。だが、何故泰麒は戻ってこない?
物思いに沈んでいると、後ろで微かな気配がした。振り返ると、陽子の麒麟が静かに立っていた。
「──よくここが分かったな、景麒」
「主上がどこにおられるかぐらい、いつでも分かります。……浩瀚が捜しておりましたよ」
「うん……」
「延王は難しい顔をなさっておいででした」
「……だろうな」
常になく冷淡だった延王尚隆の厳しい顔を思い浮かべ、陽子は溜息をつく。何も分からなかった陽子を、親身に助けてくれた隣国の王。稀代の名君と称えられる我が伴侶は、陽子の思いを一刀の元に斬り捨てた。
あの場では、誰も陽子の味方をしてくれなかった。それも憤りのもとであった。しかし、冷静になって考えてみれば、当然のことだった。五百年もの永きに渡り、玉座に君臨する偉大な王に、誰が意見などできよう。同じく国主である景王陽子でさえ、勇気がいることだというのに。
あの場で言わなかった意見を、今なら語るかもしれない。静かに隣に腰を下ろした景麒を見つめ、陽子は問うてみる。
「……景麒はどう思う?」
「どう、とは」
「やはり仁の獣でも、戴を見捨てるべきだと思うか?」
景麒はしばらく無言で雲海を見つめ、戴の民が哀れです、と呟いた。陽子は頷く。景麒はぽつりぽつりと戴と泰麒について語りだした。
通常であれば、たかが六年で国が目を覆うほど荒れることはないこと。空位の時代の戴はさほど荒廃していなかったこと。そして、泰麒は小さかったが、己に課せられた責を分かっていたこと。胎果の泰麒が鳴蝕を知るはずがないこと──。
陽子は首を傾げた。景麒は泰麒が蓬莱で十年を人の形で過ごした、と説明した。人と獣の二形をもつのが麒麟である。しかし、胎果の泰麒は獣の時代を知らない。故に、鳴蝕を知るはずがない、と。
本能的に鳴蝕を起こしてしまうような、恐ろしい出来事があったのだ。それに呑み込まれて泰麒は戻りたくても戻ってこれないのかもしれない。景麒はそう言葉を結んだ。
しばらく口を閉ざした陽子は、重く問う。それでも戴を救うべきではないと思うか、と。景麒は陽子を見返し、そして目を逸らした。
「私に答えられるはずのないことを、お訊きにならないでください」
「──済まなかったな」
答えを避ける景麒に、陽子は淡く笑みを返した。仁の獣である麒麟としての景麒は、戴の民を哀れに思っている。けれども、慶東国宰輔としての景麒は、自国を置いて他国を救えとは決して言えまい。
それでも、景麒は誼のある泰麒を案じている。それは訥々と語る口調からも察せられた。景麒に帰り道を教えてもらいながら、陽子は立ち上がった。
「お前は仕事に戻れ」
「主上……」
「案じるな。少し頭を冷やしたら戻るから。──皆にそう伝えてくれ」
心配そうに目を瞬かせながらも、景麒は頷いた。その後ろ姿を見送ると、陽子は再び雲海を眺めた。仁の獣、麒麟である景麒はやはり、戴を哀れに思っていた。それは恐らく延麒六太も同じだろう。
陽子は考えを巡らせる。景王陽子と延王尚隆の会談に口を挟まなかった冢宰と太師は、どう思っているのだろう。浩瀚も遠甫も、陽子が李斎に心を掛けることを止めはしなかった。ただ、賢明なる臣は、覿面の罪を知っていた。
延王尚隆は、覿面の罪について滔々と述べたて、懇々と陽子を諭した。その意見を、頭では理解できたと思う。しかし、感情がついていかなかった。陽子は己の小さな掌に目を移した。いつまでも小さく頼りないこの手。それでも、助けを求め、命を懸けて虚海を超えてきた者を、拒絶することなど、できはしない。
(勘違いするな。お前は慶の国主であって、戴の国主ではない)
延王尚隆の低い叱責が、耳に谺していた。陽子は唇を噛みしめる。そんなことは分かっている。それでも──。
気づけば日もとっぷり暮れていた。陽子は立ち上がり、歩き出す。景麒は陽子の居場所を他の者に告げなかったらしい。その配慮に感謝しつつ、陽子は太師邸に向かった。もう一度、李斎の顔を見たかった。
まだ思うように動けぬ李斎の傍には、鈴が付き添っていた。そっと姿を現した陽子に、鈴は心配そうに声をかける。誰もが陽子を捜していた、と。陽子は曖昧に頷き、李斎と二人にしてほしいと頼んだ。鈴は気遣わしげに陽子を見つめながらも、静かに下がっていった。
* * * 8 * * *
病み衰えた女将軍はぐっすりと寝入っていた。その寝顔を見下ろし、陽子は小さく息をつく。そういえば、こうして眠る陽子の枕許に、あのひとがそっと現れたことがあった。もしかして。
あのひともまた、こんな想いを抱え、己の気持ちを確かめるために陽子を訪ったのだろうか。
そう考えながらも、己の伴侶の冷たい対応を思い出し、陽子は微かに首を振った。そのとき。
「……景王?」
李斎が声を上げた。陽子の気配で目覚めてしまったらしい。さすがは将軍だ、と思いつつ、陽子は李斎に詫びた。少しの間言葉を交わし、そして、沈黙が降りた。
そのしじまの中で、陽子は李斎に聞いてみたかったことを思い出した。景麒に聞いても、説明になっていない言葉しか返ってこなかったこと。
「泰麒はどういう方だった?」
思い切って訊ねた陽子に返された応えは。お小さくていらっしゃいました、と景麒と同じ答えだった。陽子は苦笑する。それから李斎は泰麒について語ってくれた。
気安いところが陽子に似ている、と李斎は微笑した。蓬莱には心情を超越するほどの身分差などなかった。女王の名を呼び捨てにする女史や女御は友だし、大僕虎嘯は仲間だ。陽子はそう説明し、拓峰の乱の話をした。それから、躊躇いがちに、戴でそういうことは不可能だろうか、と訊ねた。それができれば、李斎はここまで助けを求めにこないに違いない。それでも、確認したかった。
不可能だ、と李斎は哀しげに答えた。口を開きかけた陽子を制し、李斎は続けた。反阿選の勢力を作ろうと奔走したにもかかわらず、内部から瓦解してゆくのだ、と。そして、天地の理が傾いたせいか、災異が襲い、妖魔が出没する国土。戴の民はただでさえ厳しい冬を超えることで精一杯なのだ。
その上、阿選は仙だ。王ではなく、只人でもない阿選には天命尽きることがない。王が亡くなっておらず、所在も分からない。そのために、悪逆を防ぐための天の摂理は一切動かない──。
「それでは、戴の民は、自らを救う術がない」
沈痛な陽子の言葉に、はい、李斎は頷いた。その縋るような眼差しは、助けてほしいと訴えている。それでも、李斎は黙していた。助けてくれ、と口に出すことはしなかった。己がどれほど無茶を言っているのか、李斎は重々承知している。だからこそ、陽子はその切ない願いを叶えたいと思うのだ。
しかし、延王尚隆が諭した数々の言葉が、陽子の頭を過る。慶は未だ貧しい。短命な王が続き、官吏が横行し、偽王まで立ち、荒れはてたこの国。よい時代を知る民がほとんどいないこの国。
それでも慶は戴よりは酷い状況ではない。気候厳しく、偽王が圧制し、災異に見舞われる戴を、なんとか救ってやりたい。
苦吟に震える陽子の声。李斎はそんな陽子の手を握り、静かに諭した。兵を動かしてはいけない、慶を沈めてはいけない、と。
お許しください、と李斎は沈痛な声を上げた。戴を哀れむ余り、罪深いことを考えた、と。景王が慶を哀れむ以上の施しを戴にしてはならない、李斎は哀しげに断じた。陽子は胸が痛くなった。李斎は陽子の苦境をも理解している。
決して戴を見捨てようとは思わない。できる限りのことをする。けれど、できる限りのことを超えたら許してほしい、と陽子は李斎に告げた。陽子は景王だ。よい時代を知らぬ慶の民に、もう一度混沌を覚悟せよ、とは言えないのだ。
そのお言葉で充分です、と李斎は淋しげに微笑んだ。決して責める言葉を口にしない李斎に、陽子は胸打たれた。如何にこの手が小さくても、できる限りのことをしよう。陽子はそう誓った。
客庁を出ると、庭院に面する回廊に腰を下ろして、大中小、三つの人影が待っていた。虎嘯と祥瓊と鈴だ。鈴は二人を呼び出したらしい。しかし、陽子の無鉄砲を心配しながらも、そっとしておいてくれた三人。陽子は密かに感謝した。
鈴に李斎を任せ、陽子は祥瓊、虎嘯とともに回廊を戻る。と、途中の路亭に今度は二つの人影があった。遠甫と浩瀚だった。なるほどね、と陽子は四人を見渡した。
「……心配はいらない。当の李斎が、兵を出してはならない、と言ってくれたから。分かっていても他に救いを求める術がなかったということだろう。できる限りのことはすると確約したけれども、できる限界を超えたら許して欲しいと言ったし、李斎もそれでいいのだと言ってくれたから」
遠甫も浩瀚も安堵したように頷いた。それを見て、陽子は、賢明な臣に多大なる心配をかけていた、と改めて気づいた。それでも二人とも、景王陽子が己で導き出す結論を待っていてくれた。じわりと胸が温まっていく。
王としても、人としても、陽子はまだまだ未熟だ。けれど、未熟なりに、この小さな掌で、できる限りのことをしよう。そう胸に誓いつつ、陽子は己の臣に笑みを向けた。
「なので太師と冢宰には大いに働いてもらわなければならない。天の許す限度の中で、戴に何をしてやれるだろうか。至急調べて奏上せよ」
遠甫と浩瀚は微笑を浮かべ、恭しく拱手した。陽子は溜まった仕事を片付けに、祥瓊、虎嘯とともに執務室に向かった。
2006.08.10.
お待たせいたしました、長編「黄昏」第5回をお届けいたしました。
「プロット粗い宣言」第一弾は、ここでめでたく終了でございます。
来週は、恐らく皆さまにご心配をかけることはないと思います。
己の結論を出して晴れ晴れ陽子主上と、
心配しながらも主の下す結論を待っていた臣下たち。
こうやって、慶は少しずつ進んでゆくのかしら、と妄想するのでした。
2006.08.11. 速世未生 記