黄 昏 (6)
* * * 11 * * *
瞬く間に時は過ぎ、気づけばすっかり深更になっていた。溜まった政務が一段楽したところで、祥瓊が休むよう陽子を促した。が、太師遠甫と冢宰浩瀚に仕事を申しつけた景王陽子は、己が休むことに抵抗を感じていた。そんな陽子を、悪戯っぽく笑んだ祥瓊は更に諫める。
「陽子、休まないと頭が朦朧とするわよ。せっかく奏上したことを、王が判断できないなんて、臣が困るとは思わない?」
祥瓊は鋭いところを衝いてきた。陽子は少し目を見張り、それから苦笑して頷いた。虎嘯に祥瓊の護衛を任せ、陽子は休息を取りに正寝へと戻った。
自室の扉を開けた陽子は、人の気配にはっとした。月光が射しこむ窓辺に凭れ、そのひとは立っていた。
会うことを避けていたそのひとの訪れに、陽子は深い溜息をついた。予想して然るべきだった。いかに逃げ隠れしていても、このひとから逃げおおせることはできないのだ。しばしの沈黙の後、陽子は硬い声で訊ねた。
「お待たせいたしましたか、延王」
「──待った」
逆光で表情は窺えないが、延王尚隆の応えはかなり憮然とした声だった。陽子は、どうしたものか、と嘆息した。
陽子は景王として結論を下した。臣はその命に従って調査を開始している。だが、その結論は、景王陽子に苦言を呈した延王尚隆の思惑とは違う。
故にこれ以上尚隆と話しても、平行線のままだろう。そう思うと、久しぶりに会えた伴侶なのに、邪険な言葉しか出てこなかった。
「今夜はもう遅い。お小言なら、明日の会議後にしていただきたいのだが」
「お小言、だと?」
更に憮然とした低い声が響く。尚隆はつかつかと歩み寄り、ぐいと陽子の二の腕を掴んだ。片手で腕を握りつぶさんばかりのその力。陽子は尚隆の本気の怒りを感じ、背筋がぞくりと粟立った。
「お前は、俺が何故慶まで直接出向いたのか、さっぱり分かっていないようだな」
怒気を孕んだ声でそう言うと、尚隆は陽子を軽々と担ぎ上げ、牀に押し倒した。押さえられた腕の痛みに、陽子は顔を蹙めた。
「痛いか? 痛いだろう。だが、お前を失う慶の民の痛みは、こんなものではないぞ」
粛然とそう諭し、延王尚隆は陽子に射抜くような鋭い視線を向けた。そして、おもむろに続ける。
「──お前は慶の王なのだ。戴の王ではない」
「分かっています」
昼の問答の繰り返しだ、と陽子は唇を噛む。そして低く答えた。尚隆は軽く首を振り、陽子を見下ろす。
「分かってないな。慶には、まだ他国を助ける余裕などない」
「それも──承知です。でも、私を頼ってきた者を、放り出すことなど、できない」
「──お前に、あの者を救えるとでも?」
延王尚隆は口許を歪め、皮肉な笑みを浮かべる。陽子はカッと頬を朱に染め、昂然と言い返す。
「──やってみなければ分かりません」
「自惚れるな! ──お前は、まだまだ雛鳥にすぎぬ!」
怒髪天を衝くような一喝に、陽子はびくりと肩を震わせる。しかし、怒りに燃えるその双眸から目を逸らすことなく言を返した。
「それでも……見捨てることなど……できません!」
「あの者を救って、自国を滅ぼすつもりか。──本末転倒だな」
「──国を滅ぼすつもりなど、ありません」
「お前にそのつもりはなくとも──」
陽子の応えに、尚隆はいったん言葉を切った。それから大きく息を吸い、ゆっくりと続けた。
「あの者は、戴を救うためには慶などどうなってもいい、と思っているやもしれぬぞ」
「──李斎は、そのような浅ましい者ではありません。現に、兵を動かしてはいけない、慶を沈めてはいけない、と言ってくれました」
尚隆のその言に、陽子はまた静かな怒りの炎を燃やした。尚隆は陽子の目をはたと見つめ、軽く笑った。
「ならば、あの者の言うとおりにすればよかろう。それで問題は解決だ」
「──理を知る者だからこそ、力になりたいのです」
何故、挑発的なことを言うのか。李斎のあの様子を見ても尚、そんなことを言うのか。陽子は怒りに身を震わせた。尚隆は更に侮蔑的に畳みかけてきた。
「力及ばぬ者がそんなことを言っても、片腹痛いだけだ。──戴を救うために命を落とすことは、まかりならぬ」
「命を失わなければよろしいのですね」
延王尚隆の威圧的な双眸に、景王陽子はその勁い翠玉の瞳で挑みかかった。尚隆はすっと目を細め、底冷えのする声で問うた。
「──お前は、国が滅びる、ということが……どういうことか、知っているのか」
陽子は、はっと目を見張る。戦国の世で、己の国も民も全て失った尚隆。亡国の痛みを誰よりも知るひとの言葉は、陽子の胸に重く響いた。それでも。それだから──。
「──知りません。知らないからこそ、滅びかけた国を放ってはおけない!」
それは真実の叫びだった。陽子は国が滅ぶことなど、教科書の中でしか知らない。けれど、実際に己の目で見た慶の荒廃は、亡国の悲劇を如実に物語っていた。王のいない国は、これほどまでに荒れてしまう。骨身に染みる事実が、陽子の王としての自覚を促した。
そして、戴の今の状況は、その慶よりも酷いのだ。そんな陽子の思いを打ち消すかのように、尚隆は口許を歪めて嗤う。
「ああ言えばこう言う……。全く、口の減らない奴だ。──お前には仕置きが必要だな」
「──お叱りは覚悟の上です」
陽子は瞋恚に燃える尚隆の眼から目を逸らさず静かに言った。今回ばかりは、いかな延王尚隆の言でも、意を曲げる気はなかった。たとえ、どんな仕置きを受けることになっても。
王の矜持をかけた睨み合い。互いに王である二人は、どちらも目を逸らそうとはしなかった。
* * * 12 * * *
陽子は組み伏せられたまま、尚隆を勁い視線で睨めつける。長い沈黙の果てに、尚隆は大きく息を吐いた。
「殊勝な物言いだな。──泣いても許さぬぞ」
尚隆は陽子が今まで見たことのない、残忍な笑みを浮かべた。陽子の腕を掴んでいた両手が、袍の襟元に移動した。そのまま、ゆっくりと陽子の服を開いていく。肩が少し震えた。曝されていく肌を凝視する男の目に耐えられず、陽子は両手で胸を隠した。
その小さな動きが、危うい均衡を破った。陽子に襲いかかる、噛みつくような烈しい口づけ。そして露にされた身体には容赦のない愛撫。
「あ……!」
思わず小さな悲鳴が洩れた。反射的に身を捩ったが、その背にも逃げられぬ攻撃がなされた。いつも優しく温かな手が、陽子の身体を苛む。瞳に涙が滲んだ。嫌、止めて、と口に出すのを、辛うじて堪えた。
「──嫌か?」
陽子の身体を容赦なくまさぐりながら、尚隆は優しく問うた。陽子は唇を噛みしめた。心を見透かすようなその問いに答える気はなかった。
「止めてほしいか?」
答えない陽子に、尚隆はもう一度問うた。強い力で前を向かされた。掴んだ手首を握りつぶさんばかりのその力とは裏腹に、尚隆は優しい顔をしていた。しかし、その双眸は有無を言わせぬ強い光を浮かべていた。
何故──そんなに優しい顔で、私を嬲るの……。
しかし、陽子はその問いを口に出すことはなかった。陽子は涙に潤んだ瞳で尚隆を見つめ返し、激しく首を横に振った。力では敵わない。分かっているからこそ、力に屈するのは嫌だった。このひとも、それを分かっているはずなのに。
尚隆はふっと息をつくと陽子を優しい眼で見つめた。そのままふわりと口づけを落とす。
「──相変わらず、お前は頭が固い。しかしな、頑固さでは、俺も負けていない」
そう言うと、尚隆は低く笑った。目と目が合った。陽子は目を逸らさなかった。尚隆に引く気がないのは分かっていた。しかし、それは陽子も同じだった。
尚隆の双眸に浮かぶ、烈しい怒気。そして果てしなく深い暗闇。かつて、この身を沈めてみたい、とまで思った、その抗いがたい昏い闇。
我知らず身が震える。この王の中の王たる視線を臆せずに受けとめられる者は恐らくいない。しかし、瞳に涙を滲ませながらも陽子は目を閉じることはなかった。陽子の覚悟を見て取り、尚隆は再び残忍な笑みを浮かべた。
昏い欲望の光を点す双眸は、かつてどこかで見たことがあった。それは──達姐に騙されて連れて行かれた妓楼にいた男たちが向けた目。そして、初めてこちらで口を利いた男が、陽子から水禺刀を取り上げた後に見せた目。
思い出して、身体に大きく震えが走った。何も知らずにいた。どれだけ危うい状況にいたことか。あのとき、既に冗祐が陽子の身を守っていた。冗祐は黙して陽子の感情に従っていた。──あのまま、あの男たちに襲われていたら、自分はどうなっていたのだろう。
闇雲に拒否した挙句、そのまま、殺していた、かもしれない。そのまま、血に塗れ、どこまでも、堕ちていった、かもしれない。そして、このひとに会うことも、なかった、かもしれない。
──怖い、怖い、怖い。
陽子は声にならない悲鳴を上げていた。かつて、水禺刀は己の浅ましい姿を見せつけた。それでも、人殺しだけはしたことがなかった。けれど、一度殺してしまったら──歯止めは効かないだろう。
人を初めて斬ったときの生々しい感触が、鮮やかに甦る。陽子は再び声なき悲鳴を上げた。果てしない絶望に呑まれる己を思うと、それだけで涙が溢れた。
そして、初めて露にされた、このひとの、暗闇。その、圧倒的な昏い闇の力。何も知らずにいたときならば、目を合わせることもできなかったろう。視線が合った途端、その闇に呑まれ、己を失ったに違いない。
それでも、逃げることはできなかった。瞳を逸らすこともできなかった。王と王として、このひとと対峙しているのだ。仕置き、という加虐を、甘んじて受け入れる覚悟をしていた。覚悟はしていたが──。
それは、初めて受ける陵辱だった。昏い深淵が、陽子を呑みこむ。剥きだしにされた男の欲望が、陽子を苛む。喘ぐ声も荒々しい唇に塞がれ、なす術もない。陽子は尚隆の激情の嵐に呑まれていった。
2006.08.17.
長編「黄昏」連載第6回をお届けいたしました。
裏タイトルは「かの方の逆襲」でございます。
──今回はあまり多くを語りません(語れません……)。
い、石を投げないでくださいね……。
2006.08.18. 速世未生 記