黄 昏 (8)
* * * 15 * * *
深い色を湛えた双眸に現れ出た暗闇。延王尚隆が抱えるその昏い深淵は、いとも簡単に陽子を呑みこみ、踏みしだいた。
想いあう男女の愛を確かめる行為が、男の一方的な欲望を満たすためになされる。それでも、慣れ親しんだ男の、荒々しい愛撫に、己の中の女は応える。そして、男の意のままに、己の身体は易々と男を受け入れてしまう。
そう思うと、男が己を解放し、果てたとき、その身体を抱きとめることはできなかった。欲望を満たした男は、打って変わって冷静に話しかける。
──男の欲望とは、なんと猛々しく呆気ないのだろう。
己を嬲り、苛む男に翻弄された陽子はぼんやりと思う。それでも男を拒めない、己の──女の業の深さ。
これは、愛なのだろうか。それとも、ただの欲なのだろうか。
まだ余韻抜け切らぬ陽子は、己の浅ましさを恥じ、両手で顔を覆った。
その手を取り、陽子の顔を覗きこむ男は、少し顔を歪め、口づけを落とした。優しささえ感じさせる、その仕草。陽子は思わず、怖かった、と呟きを漏らした。
「怖くなければ仕置きにならぬだろう」
苦笑混じりにそう言う男は、再び陽子にそっと唇を重ねる。
嬲り苛んだ女に対するその優しさは、いったい何なのか。
身支度を整え、臥室を出て行こうとした男に、陽子は強い口調で呼びかける。
「──延王尚隆、忘れないでほしい」
陽子は己を踏みしだいた男を号で呼んだ。その断固とした呼びかけに、延王尚隆は振り向いた。陽子は王の顔で男を睨めつける。
「甘んじて仕置きは受けたが、私が受け入れなければ、これはただの暴力だ」
こんなことで、己の意志を曲げたりしない。抑えた口調に揺るがぬ決意を籠めた陽子に、尚隆は一瞬真顔を見せる。
「──もとより承知だ。お前もよく覚えておけ。これが俺の本気だ」
苦笑を浮かべて言い放つと、延王尚隆は踵を返す。その広い背を、陽子は勁い視線を浴びせつつ見送った。
怒れる伴侶が去り、陽子の緊張は急速に解れていった。止め処なく涙が溢れ、陽子は嗚咽する。それは、安堵のためなのか、悔恨のためなのか、自分でもよく分からなかった。枕に顔をつけ、陽子はただただ、泣き続けた。
浅い眠りから目覚めると、空が白んでいた。その光に気づき、陽子は飛び起きた。
「痛ッ」
伴侶に苛まれた身体は、まだ思うように動かなかった。陽子は唇を噛む。寝ている場合ではないのに。
身体の痛みとともに、尚隆の加虐な手の感触が甦り、陽子は身を震わせた。掴まれた腕にはまだ指の痕がくっきりと残っている。陽子は深く息をついた。
「──怖かった……」
初めて見た、酷薄な笑み──。
尚隆はいつも軽口を叩き、本心を口にしない。何を考えているのか分からず、陽子は途方にくれることが多々あった。しかし、陽子を見るその眼差しは、いつも優しく温かかった。そして、その手は、いつも雄弁だった。
尚隆の包み隠さぬ激情に、陽子は呑まれ、苛まれた。その暗闇に嬲られ、翻弄された。身体中に刻みつけられたものは、尚隆の叫びなのかもしれない。
王は、怒りも哀しみも簡単に口にはできない。尚隆の大きな手は、叫んでいた。
俺は、お前を、喪いたくない、と──。
しかし尚隆は、その想いを口にすることは、決してないだろう。己の伴侶はそういうひとだ。
泣いても許さぬ、と尚隆は言ったが、そうではあるまい。泣いて許しを乞えば、ここまで苛まれることはなかっただろう。しかし、陽子は力に屈するのは嫌だった。そして、真摯な想いを受けとめずに涙に逃げたら、己を許せなくなる。そう思い、陽子は尚隆の加虐を、あえて受け入れた。
再び溜息をつくと、陽子は起き上がり、身支度を整えた。さすがに今日は、この身体を鈴に見られるわけにはいかない。
解れた髪はそのままに、陽子は露台に向かい、暁の空を見上げた。戴のために、己に今できることをする。その思いに迷いはなかった。
欄干に凭れ、雲海を眺める陽子は、背跡に視線を感じた。声をかけようか、どうしようかと迷っている、その気配。陽子はくすりと笑い、振り向きもせずに言った。
「遅かったね、六太くん」
* * * 16 * * *
延麒六太は逡巡していた。雲海を見つめる陽子は泣いている、六太はそう思っていた。しかし、緋色の髪を靡かせて立つその細い背は、穏やかで何の惑いもなかった。
「どうしたの?」
微笑んで振り返る陽子は眩しかった。
──陽子もまた王なのだ。
六太は感嘆の溜息をついた。
「なんだか、大丈夫そうだな」
「ううん、全然大丈夫じゃないよ。ぼろぼろ。──まったく、えらい目にあった」
陽子は片眉を上げて顔を蹙め、笑った。それは、六太の主がよく見せる顔だった。六太は小さく息をついた。
「──だろうな。尚隆、物騒なこと言ってたから、心配した」
「物騒なこと?」
「うん。足腰立たないくらい叩きのめしたから、しばらく眠らせておけ、だとさ」
「──尚隆らしい」
軽く答える六太に、陽子はくすりと笑う。それから、ふわりと笑んで六太を見つめた。
「でも、助かった。さっきやっと起きたところだから」
そう言って陽子は軽く伸びをし、顔を蹙めた。六太ははっとした。露になった細い手首には、指の痕がくっきりと残っていた。
「陽子、ちょっと見せてみろ」
六太は慌てて隠そうとした陽子の手を取り、その袖を捲くった。痛々しい痕は手首だけではなかった。六太は血相を変えた。
「陽子、あの莫迦、一体お前に何をした!? お前、そんなことされてまで、我慢してやること、ないんだぞ!」
六太は怒声を上げる。陽子は少し顔を赤らめ、困惑したように俯いた。
「──いいんだ。尚隆が怒るのも当然だから」
「けど──!」
「私を失う慶の民の痛みはこんなものではない、と言われた。俺の本気を覚えておけ、と怒鳴られた」
そう言って陽子は自嘲気味に笑った。六太は黙して陽子を見つめる。
「心配、させてるよね。私はまだ力が足りない。結局尚隆に頼って迷惑をかけてしまうだろう。──分かってる」
「それでも、貴様の指図は受けない、と啖呵を切ったんだって?」
六太の揶揄に、陽子は首を横に振り、苦笑する。それから、再び雲海を見やりながら続けた。
「──大仰だな。負け惜しみを言っただけだよ。理に触れるよって」
「確かにな」
「怒って国へ帰られると困るなぁ……」
何でもなさそうにそう言って、陽子は微笑した。その目には、静かで勁い意志の光が輝いていた。六太は目を細めて陽子を見上げた。振り返った陽子は美しかった。己の主が惹かれて已まないこの女は、やはり女王なのだ。感慨深くそう思い、六太は陽子の前に跪いた。
「どうしたの、六太くん!」
「景王陽子、雁は必ず助力すると誓約しよう。今のお前には延麒に膝をつかせる威厳がある」
「──ありがとう、延麒。……でも、麒麟が主の許しもなく他国の王に誓約なんてして、いいの?」
「いいんだ。あの莫迦はお前にぞっこんなんだから。渋面作ってても、結局はお前の言うことを聞くだろうよ」
苦笑しながらそう訊ねる陽子に、六太は立ち上がりながら顔を蹙めて言った。そして指を一本立てた。
「理に触れぬ限りは!」
陽子は六太の言葉に和した。二人は顔を見合わせ、大笑いしたのだった。
客庁に戻った六太は、己の主を睨めつけた。目で問う尚隆を、六太は憤然と諫める。
「お前、やりすぎなんだよ。陽子は笑ってたが、あれは笑いごとじゃないぞ」
「──見たのか」
尚隆はすっと目を細め、どこか酷薄な声でそう言った。六太は怒声を上げた。
「目に付くところにつけたのはお前だろうが! 景麒に見つかったら、なんて言えばいいんだよ……」
尚隆は答えない。そんな尚隆を六太は鋭く見つめる。
「とにかく、今日のおれは、全面的に陽子の味方だからな!」
そう言い捨てて出て行く六太を、尚隆は複雑な目で見送った。
2006.09.01.
長編「黄昏」連載第8回を、無事お届けすることができました。
ほっとしております。かなり青息吐息状態でございます。
今回の六太と陽子の会話は、昨年の2月から3月にかけて、ノートに書いていた場面です。
──なかなか感慨深いです。
2006.09.01. 速世未生 記