黄 昏 (14)
* * * 27 * * *
「廉台輔、遠来より到着早々、本当に申し訳ない」
雲海の上を飛びながら、延王尚隆は漣極国宰輔廉麟に詫びた。場所などどこでも構わない、と南の国の麒麟は柔らかな美しい笑みを見せた。思わず微笑を返した尚隆は、胸でひとりごちる。そういえば、奏南国の玲瓏たる宰輔宗麟も、おっとりと美しかった、と。
気候のよい国の麒麟は気性も穏やかなのだろうか。柄の悪い己の半身を見つめると、つい溜息が漏れた。延麒六太はその視線に気づき、にやりと笑った。
「──なんか言いたそうだな」
「よく分かったな」
「まったく、自分のことは棚に上げて」
六太は眉を顰めてぶつぶつと文句を言っていた。これから顔を合わせなければならない麒麟を思い浮かべ、尚隆はまた溜息をつく。その主と同様に、度し難く口が立ち、喧しく生意気な範の麒麟。範西国宰輔氾麟を思い出すと、頭が痛くなってくる。あれに比べれば、無表情で無愛想で頭が固い慶の麒麟も、幾分ましだろうとさえ思える。
その、気儘に現れた範国主従を迎えた景王陽子の困惑はいかほどだろう。あの氾王を見て目を見開く伴侶を思い浮かべ、尚隆は苦笑をする。そのとき、廉麟がぽつりと呟いた。
「──泰麒は、ご無事でしょうか」
「分からぬ。ただ、新たな泰果が生らない限り、泰麒の存命は確かだ」
「そう……ですね……」
廉麟は己に言い聞かせるように小さく呟き、そのまま黙した。そんな廉麟を気遣わしげに見やりながら、尚隆は泰麒を思い出す。
蓬莱で十年を過ごした胎果の麒麟は稚かった。幼少時を人の形で過ごしたために獣としての麒麟の本性を失くしているのだ、と景麒は語った。確かに、泰麒は使令を二しか持つことができなかった。そして、己が選んだ王には天啓がなかったと思いこんでいた。
口下手な景麒が巧く説明できなかったせいもあるのかもしれない。泰麒は、麒麟が選ぶことこそが天啓なのだ、ということを理解していなかった。麒麟が己の選んだ王以外の者に伏礼できないことも知らなかった。そして──己の担う責務を、重すぎる荷、と捉えているように見えた。
だから、景王陽子は泰麒に思いを馳せるのだろうか。同じ時代を生きていた同胞として。己の背負う荷を、重いと感じる仲間として。
それは無理もないことだ、と尚隆は思う。同じ時代と痛みを知る半身が傍にいることを、尚隆も感謝することがあったのだから。
しかし、陽子が泰麒に寄せる思いは、それとは違うような気もしていた。清廉で己を頼る者を助けたいと願う女王。それは、民を守る王の義務としての行為ではないように思えた。見捨ててはおけない、という陽子の叫びは、王の言葉ではなかった。
尚隆は、王として己の民を守るのは当然だと常々思っている。民なくして王は王たりえない。民がいるからこそ、王は王として在ることができるのだ。
そしてこの常世では十二国が互いに独立しており、国土を侵されることもない。王は、己の国のことのみ考えていればよい。他国を気にせず、己の思うように国を営むことができる。蓬莱で戦国の世を小国の世継ぎとして過ごしてきた尚隆にとって、それは魅力的なことだった。
ほんの短い一生を、他国を食い、己が頂点に立つことだけを考えて生きるなど──。田畑を蹄で蹴散らし、大地や海を血で染めて、何が得られるというのだろう。そんなものは、単なる自己満足だ。君主など、漁をし、田畑を耕す民から、搾取する者に過ぎないのだから。
王のいない国からやってきた娘は、それを本能で理解しているのかもしれない。国の枠を超えて、己を頼る者を救いたいと願う女王は。叛乱民を友とし、身分を考えよと諫言する臣に眉を顰める胎果の王。景王陽子は、決して上から物を言わない。そんな女王の言葉は、それ故に人の心を動かすのだろうか。
「──尚隆、陽子に迷惑をかけるなよ。ただでさえ、範の御仁に気苦労かけられてるんだからな」
「お前は、相変わらず、人聞きの悪いことを言う」
物思いに沈む尚隆に、六太が説教臭く声をかけた。見ればもう金波宮は目前だった。尚隆は嫌そうに応えを返す。いつもの言い合いを始める尚隆と六太。廉麟はそれを見て少し目を見張り、それから懐かしそうに微笑んだ。
* * * 28 * * *
雲海の上、金波宮の一角に、景麒を従えた景王陽子が立っていた。六太は騶虞から飛び降りるなり、氾王が来ているんだって、と訊ねた。陽子は苦笑混じりに肯定し、拱手した。
六太は廉麟を紹介しつつ、範国主従の所在を訊ねる。陽子は更に苦笑し、応えを返した。六太は気の毒そうに小声で陽子を労う。それに応じ、陽子も小声で六太に問うていた。
そのまま、ぼそぼそと情報交換をしつつ前を進む六太と陽子。その後ろに景麒と廉麟が続き、尚隆は憮然とした面持ちで最後尾を歩く。
時折、困惑気味の陽子の声が聞こえた。そして、六太とともに心配そうに尚隆を振り返る。
「何と言うか……その、いろいろな意味で、変わった御仁だな」
「だろ? 尚隆の天敵なんだ」
「それは……分かるような気がする」
陽子が小さく呟き、溜息をついたところで、氾王についている女官と行きあった。尚隆にも馴染みの、女王の友である女史祥瓊だ。殺気だった女史は氾王がまだ身支度を終えていないのだと述べた。
これだけの大事を話すというときに、服だの装飾品だので時間を無駄にするとは。相変わらずわけの分からない奴だ。その理由を聞くとはなしに聞いていた尚隆は、眉を顰めた。
氾王が腰を落ち着けた宿舎に着くと、堂室の中の榻に氾麟が寝そべっていた。書物から顔を上げた氾麟は身を起こし、そして勢いをつけて榻から飛び降りる。
嬉しげに六太に声をかけた氾麟は、そのまま飛び跳ねながら尚隆の傍にやってきた。そして、からかうように尚隆を下から覗き込んだ。
「尚隆も、お久しぶり。……相変わらず田舎臭い恰好なのね」
「喧しい。それよりも、お前の飼い主を呼んでこい」
こいつのこういうところが嫌なのだ。尚隆は苦虫を潰したような貌で氾麟を促した。尚も軽口を叩く氾麟は、突如廉麟に気づいた。一転して優雅に一礼し、廉麟と挨拶を交わす氾麟を、尚隆は忌々しげに見つめた。
振り返った氾麟は、小首を傾げて訊ねる。泰麒捜索が始まるのか、と。そういうことだ、と憮然と言って、尚隆は氾麟に坐るよう促す。
「雁に来てくれと言ったのに、姿を現さず、消息不明になった連中がいてな」
「あら、それで来てくれたの? だったら良かったわ。私は慶のほうがいいもの。雁の下官は本当に気が利かなくて、しかも喧しくって」
これ見よがしな尚隆の嫌味に、氾麟はにっこり笑って応えを返す。そんな様子を、六太は肩を竦め、陽子は苦笑して聞いていた。
氾麟の軽口をいなし、延王尚隆は本題に入る。慶、雁、範、漣の四国で蓬莱を捜索すること、奏、才、恭の三国が崑崙を担当すること。
前代未聞の大事業に、氾麟が小首を傾げて訊ねる。こんなことをして大丈夫なのか、と。それには六太が答えた。泰麒を捜すことについては天の摂理に反しない、と。
氾麟は更に具体的な捜索方法を問う。蝕を最小限に抑えるために、麒麟が麒麟の気配を目当てに捜索する、と六太は答えた。氾麟はぽかんと口を開けた。六太は更に説明を加える。
呆れた、と口走る氾麟に、六太は畳みかける。では、見捨てるか、と。氾麟は黙した。喧しかろうが、おちゃらけていようが、麒麟は麒麟。知ってしまえば見捨てることなどできはしない。
戴を何とかしようと思うなら、やるしかない、と六太は断じる。堂室に沈黙が降りた。王である尚隆は、実際に虚海を渡る麒麟の話し合いに口を挟むことはできない。そもそもの発起人である陽子も、それを理解しているらしく、唇を噛んで俯いていた。
やがて廉麟が口を開いた。使令を使うことはできないか、と。使令は麒麟の気配を感じ取って戻ってくる。それならば他の麒麟の気配も見えるのではないか、と廉麟は語る。
六太が使令に確認を取った。だったら、と氾麟が声を上げた。鴻溶鏡を使えば使令を裂いて増やすことができる、と。では、と廉麟も声を挟む。呉剛環蛇を使えば、蝕を起こさずあちらとこちらを繋ぐことができる。
麒麟たちは一様に明るい顔を見せた。そして、よし、と六太が嬉しそうに頷いたとき、冷静な声が割って入った。やっと支度が整った氾王の声だった。
「問題は、泰麒が何故戻ってこないのか、ではないかえ?」
その問いに六太が訊き返す。氾王は、延麒ならそのまま蓬莱に居つくか、と訊ねた。それは、と六太は口籠る。泰麒が六年戻ってきていないのは、戻れぬ事情があるのではないか、と氾王は続ける。
そんなの分かってら、と六太は切り返す。それともあんたなら事情の想像がつくのか、と訊く六太に、氾王は答える。
「あるとしたら、もう麒でない、ということだろうね」
氾麟が麟でなくなるのは、身罷ったときだけかもしれない。だが胎果の麒麟があちらにいる場合はどうだろう。
巧く言えぬ、と言いながら氾王はそう説明した。今まで考えたこともないことを突きつけられた気がする。尚隆は背筋に薄ら寒いものを感じたのだった。
2006.10.13.
大変お待たせいたしました!
長編「黄昏」連載第14回をなんとかお届けできました。
──なんでこんなに詰まったんでしょうね? 不思議です。
来週は風邪を治して万全な体調で臨みたいと思います。
2006.10.13. 速世未生 記