黄 昏 (15)
* * * 29 * * *
泰麒は何故戻ってこないのか──。
そもそもの理由など、延王尚隆は考えもしなかった。それは、同じく胎果である延麒六太も景王陽子も同じだろう。二人とも、奇妙な顔をして黙りこんでいた。
「──猿王も何か言いたいことがありそうだね。違うかえ?」
「喧しい。少し黙っておれ」
言いたいことを言い終わり、氾王は笑みを湛えて尚隆に水を向ける。そんな氾王の揶揄に、尚隆は憮然と応えを返した。
確かに範の奴が言うことも一理ある。王の側に侍るのも民を哀れむのも、麒麟の本能だといえる。ならば、泰麒は泰王の許に戻ろうとするだろうし、民のために戴に戻ろうとするだろう。麒麟にはそのための能力が具わっている。それができないということは。
泰麒はもはや麒ではない──。
氾王のその言葉は、尚隆の胸に重い響きを残す。それはいったいどういうことなのか。
尚隆は蓬莱を体験した景麒の言葉を思い出していた。神獣麒麟である景麒でさえ、あちらでは歪んだ者だったのだ。人の形を保つことができず、あちらの者との意思の疎通は難しかったという。あちらは、こちらの者を拒む。
逆に、胎果の者があちらへ行ったなら?
「そんなの、元の姿に戻るに決まってら」
尚隆のその問いに、六太は当然とばかりに断じた。あちらに戻れば、六太もまた黒髪に戻る。泰麒も、元の姿で普通に成長し、普通に生活しているのだろう、と。
元の姿に戻っても、麒麟の力が失われるわけではない。現に六太はこちらとあちらを未だに往き来しているのだから。では、泰麒に何が起こっている──?
尚隆はゆっくりと首を振り、瞑目した。何が心に引っかかっているのか、今は明らかにならない。ならば、この問題はひとまず棚上げだ。今できることからしなければならないのだから。
目を開けると陽子と視線が合った。何かを問いかけるような、その双眸。しかし、尚隆同様、陽子もまた、胸に抱く思いを言葉にできないようだった。胎果の者だけが胸に持つ、形にならない疑問。
六太は、もう既に泰麒を救うことにのみ、心をかけている。泰麒と同じく胎果の麒麟である六太だけが、もともとの理由を推測できように。尚隆は小さく溜息をついて押し黙った。見ると、陽子も微かに首を振っていた。
「──とにかく」
議場がまた静まった。六太は語調を強め、ぐるりと周囲を眺め渡す。
「この面子でやれることをするしかない」
「泰麒を捜索すること自体に反対しているわけではないぞえ」
六太の断定に、氾王が扇を弄びながら応えを返した。主の言葉を受けて、勿論、とばかりに氾麟が頷く。六太は範国主従に頷き返し、景王陽子に目を向けた。
「と、いうわけで、陽子」
「はい」
考えに沈む陽子は、はっと背筋を正す。六太は陽子と景麒を交互に見ながら続けた。
「泰麒捜索の拠点となる場所を提供してくれ」
「分かりました。景麒、どこかあるか?」
応えを返しつつ、陽子は景麒に問いかける。景麒は軽く頭を下げて主に答えた。
「はい、蘭雪堂がよろしいかと」
「では、準備させてくれ」
「畏まりました」
景麒が応えを返したところで、第一回目の議事はお開きとなった。範国主従を残し、人々は淹久閣を辞す。景麒は手配をしに戻っていき、陽子が来訪者を宿舎に先導したのだった。
陽子は黙して先を歩く。それは廉麟も尚隆も同様だった。六太だけがその様子を見やり、肩を竦めていた。
やがて、今回の宿舎、掌客殿の西園にある清香殿に辿りついた。短く挨拶を残し、陽子は廉麟を連れて更に奥へと向かう。それを見送り、尚隆は榻に身体を預けた。それから、卓子に頬杖をついて物思いに沈む。
「──何考えこんでるんだ?」
いつもの如く大卓に胡坐を掻いた六太が訝しげに問いかけた。尚隆は眉根を寄せたまま物憂げに応えを返す。
「──泰麒は何故、帰ってこないのだと思う?」
「そんなの、分かるもんか」
それに対する六太の答えは簡潔だった。分かってはいたが、尚隆は溜息を禁じえない。それでも尚隆は気を取り直し、片眉を上げて言い返す。
「──六太。もう少し、考えてみてから物を言う気はないか?」
「そんなこと言われたって、分かんねえもんは分かんねえさ」
あっけらかんと繰り返す六太に、尚隆は頭痛を感じて額を押さえる。六太は大卓から飛び降り、尚隆の背をぽんと叩いて軽く笑った。
「まあ、あんま考えこむな。まずは、あっちへ行ってみて、気配を探るしかやりようはねえんだよ」
「──お前は単純でよいな」
「使令を当てにできるって分かっただけでもめっけもんだろ。なるようになるって」
言って六太はあくまで明るい笑みを向ける。氾麟ではないが、呆れた、と声に出したい尚隆であった。
* * * 30 * * *
全ての仕事を終えて堂室に戻った陽子は、深い溜息をついて榻に沈みこんだ。まだ、頭が興奮している。陽子はめまぐるしかった今日一日を反芻した。
王と麒麟による会談の後、泰麒捜索が始まる、と陽子は李斎に告げた。李斎は一瞬複雑な顔を見せた。しかしすぐに、ありがとうございます、と神妙に応えを返し、深く頭を下げた。
手放しで喜べる話ではない。無論陽子にも分かっている。氾王から泰王の消息に繋がる品を渡され、李斎は嗚咽していた。まだ、戴と泰王は繋がっている。しかし、泰王の無事を確認できたわけではない。それは、泰麒にしても同じなのだ。
何故、泰麒は六年も戻ってこないのか。
氾王の投げかけた言葉が忘れられない。それは、複雑な顔をして黙した延王尚隆も同様のように思えた。
麒麟が麒麟でなくなるとは、いったいどういうことなのか。分かるはずもない、と氾王はにべもなかった。泰麒と同じく胎果の麒麟である延麒六太も首を傾げていた。六太に想像がつかないものを、陽子が分かるとは思えない。しかし。
この、言葉にならない違和感を、どうすればいいのか。
蓬山に行ってからというもの、胸に抱き続けている物思い。それを増幅するような、奇妙な違和感を。忙しさに紛れながらも、独りになったときに重くのしかかる、この思い──。
天はある。世界には条理がある。天の摂理という枠組みは、誰にも動かすことができない。
それを呑み込んでおけ、と六太は陽子に告げた。遵帝の故事を例に挙げ、六太は懇々と説明した。王と麒麟を縛る、天の理の絶対的な仕組みを。
(天帝がいるかどうかは知らないが、世界には条理がある。それに背けば罰が発動する。行動の是非は問題じゃない。天綱の文言に触れたか触れないか、それだけの自動的なものなんだ)
そう述べた六太の言葉を思い出すと、また、足許から悪寒が這い昇ってくる。謂れのないおぞましさに陽子は軽く身震いした。そのとき。
「──何をそんなに考えこんでいる?」
不意に笑いを含んだ明朗な声がした。陽子ははっと顔を上げる。そのときにはもう、大股で歩く伴侶は陽子の目の前で笑っていた。
「──尚隆」
伴侶の名を呼び、陽子は立ち上がる。それと同時に、逞しい腕が陽子の身体に巻きついた。微笑を浮かべる伴侶と口づけを交わす。それだけで、物思いに乱されていた心が落ち着き、癒される気がした。
──このひとの胸はいつも温かい。
陽子は伴侶の首に腕を絡め、その温もりにしばし身を預けた。広い肩に頭を押しつけると、伴侶の小さな笑い声が直接響く。
「──随分しおらしいな」
そう揶揄し、尚隆は陽子を抱き上げる。陽子は淡い笑みを返した。もう、何も考えたくない。温かな胸でまどろみたい。陽子は疲れた心と身体の要求どおり、伴侶の優しい腕に身を任せたのだった。
漆黒の闇。高く澄んだ音色で水面を叩く雫。そして闇に浮かび上がる淡い燐光。そこには蓬莱の──懐かしい東京の街が映っていた。
ああ、東京が見えるなんて、幻に違いない。
こちらに来たばかりの頃、よく水禺刀に見せられた、ただの幻。陽子は首を振り、踵を返す。今、陽子が住んでいるのは、友と仲間が集う金波宮。
陽子は己の宮殿に入ろうと足を動かした。ひと際高く水滴の音がし、目の前から城が消える。そして、驚愕に目を見開く陽子の足許が、突如として崩れた。気づけば水禺刀の仄白い燐光も消え失せ、ただただ漆黒の闇が広がっていた。
落ちる──。
陽子は目を閉じ、声を限りに悲鳴を上げた。
「──陽子!」
空に伸ばした手を、大きな手が掴む。耳許で名を呼ばれ、陽子は目を開けた。蟀谷から嫌な汗が流れる。心配そうに覗きこむ伴侶の目を見つめ、陽子は大きく溜息をついた。
「尚隆……」
「大丈夫か? ひどくうなされていた」
応えを返す代わりに、陽子は伴侶の温かな身体にしがみついた。まだ、足許が崩れ落ちる感覚が残っている。背筋に震えが走るのを止められない。
──怖い。怖くて堪らない。
漠然と感じていた不安の正体を暴かれたような気がした。それは、今まで信じてきたものを、根底から覆されるという恐怖感。
この世界に連れて来られて以来、陽子は世界を見えるままに受け止めてきた。妖魔という魔物が跋扈し、神仙が奇跡を行い、数々の不思議が満ちるこの世界。それは御伽噺のようなものなのだ、と丸呑みにしてきた。しかし、実際はどうなのだろう。
奇妙な違和感は、陽子に疑問ばかりを齎す。それは、陽子の拠り処を次々と奪っていくのだ。何を信じればいいのだろう。確かなものが欲しい、陽子は切実にそう思う。
わななく腕で縋りつく陽子を、伴侶はしっかりと抱きしめ、背を撫でる。伴侶の逞しい身体は温かく、密着した胸は、陽子に規則正しい鼓動を伝える。
──このひとはここにいる。
伴侶の確かな存在を感じ、陽子の緊張はようやく解けてきたのだった。
2006.10.20.
大変お待たせいたしました! 長編「黄昏」第15回をお送りいたしました。
「プロット粗い宣言第2弾」、まだ続いております。もう少し続くかもしれません。
どうぞ皆さま、気長にお待ちくださいませ……。
2006.10.20. 速世未生 記