黄 昏 (16)
* * * 31 * * *
慶東国は夏の盛りだった。倦怠感を伴った暑気が、雲海の上の金波宮にまで忍び寄る。きっと寝苦しい夜になるのだろう。そんなことを思いながら、尚隆はいつもの如く深更に伴侶の堂室を訪ねた。
静かに扉を開けると、伴侶は官服のまま榻に身を沈めていた。物思いに耽る伴侶は、珍しく扉が閉まる音にも気づかない。そんな様子をしばし眺め、尚隆は努めて明るく声をかける。尚隆同様、伴侶もまた胸に蟠る思いを抱えていることは一目瞭然だった。
笑みを湛えた尚隆は、立ち上がる伴侶を抱きしめ、口づけを落とした。張りつめた空気を身に纏う伴侶は、そっと尚隆の首に華奢な腕を回す。そんな積極的な反応も、いつも羞じらう伴侶には珍しいことだった。随分しおらしいな、と揶揄すると、伴侶は淡い笑みを見せた。
その儚い笑みの陰に、寄る辺のない幼子がいるような気がした。不安げな瞳は、初めて雁に来た頃の陽子を思い出させる。景王である事実を受け入れかね、玉座を拒んだあの頃の稚い娘を。
笑みを返し、細い身体を抱き上げた。黙してしがみつく伴侶を安心させてやりたい。尚隆自身も胸に抱く疑問のことなど、今は感じさせるまい。
慶の国が落ち着く前に、陽子に天の理の仕組みを教えたくはなかった。荒れた国を治めるためには、天啓を信じることが必要なのだ。何かする度に難癖をつける奸臣を黙らせるものは、揺らがない王の威厳のみ。弱音を吐き、不安を見せる王についてくる者などいない。
己は普通の女子高生だと言い募り、玉座を疎んだ娘に、自信を持たせたかった。
迷うなよ、お前が王だ──。
尚隆はことある毎に陽子をそう送り出した。その勁い瞳が、揺るぎなく前を見つめていられるように。
蓬山で見たものは、それほどまでに景王陽子の自信を削いだのだろうか。何がそんなに伴侶を悩ませるのだろう。揺れ動く翠玉の瞳を覗きこむと、輝かしい光は影を潜め、昏い深淵が滲み出ていた。
もう何も考えなくてよい、と伴侶の耳に囁いて、きつく抱きしめた。伴侶は淡い笑みを見せ、小さく頷く。そして、不安に翳る瞳を閉じた。
心も身体も疲れている伴侶を、労わるように優しく抱いた。張りつめた心が秘める熱を、確かめるようにゆっくりと。やがて、強張る身体の緊張が解け、伴侶は甘く喘ぐ。小さく声を上げて果てた伴侶は、そのまま尚隆の腕の中で眠りについた。
昼には見せることのない幼さの残る寝顔を見つめ、尚隆はそっと息を吐く。揺るぎない勁い意志を示した前回の訪問時とはまるで別人のようだ。まだ落ち着かぬ慶の国と同様、その女王たる娘もまた脆い一面を持つ。
その勁さも脆さも、尚隆を惹きつけて已まぬ陽子の魅力のひとつだ。しかし、国を預かる王としては、その脆さは致命的なものといえる。暗闇は常に足許に潜み、王の隙を狙うものだから。
陽子、お前の不安はいったい何だ?
尚隆は眠れる伴侶に心で問うた。そのとき。腕の中の伴侶が身動ぎ、細い悲鳴を上げた。
「──陽子!」
空に伸ばされた小さな手をしっかりと握り、尚隆は伴侶の名を呼んだ。熱に浮かされたように悲鳴を上げ続ける伴侶の唇を己の唇で塞ぐ。その拘束を無意識に逃れようと動かす頭を押さえ、更に深く口づけた。
やがて、弱々しい抵抗が止んだ。くたりと力が抜けた身体を支え、尚隆はもう一度伴侶の名を呼ぶ。
「──陽子」
「尚隆……」
目を開けた伴侶は、尚隆を認めて大きく息をつく。尚隆は見開かれた目をじっと見つめ、伴侶に問いかけた。その問いに応えを返すことなく、伴侶は華奢な身体を震わせて尚隆にしがみつく。尋常ではないその様子に、尚隆は伴侶をしっかりと抱きしめて背を撫で続けた。
「──夢を見た」
身体の震えが収まり、早鐘を打っていた鼓動も鎮まった頃、伴侶は微かに呟いた。その背に流れる豊かな髪を撫でながら、尚隆はゆっくりと返す。
「楽しい夢ではなさそうだな」
「うん……。怖かった……」
再び身を震わせ、伴侶はうっすらと瞳を潤ませる。我に返り、気が緩んだのだろう。尚隆は微笑を浮かべ、ぽつりぽつりと語る朱唇に口づける。そして、涙が滲む翠玉の瞳を見つめながら、伴侶がまた口を開くのを、ゆったりと待った。
* * * 32 * * *
「何も……訊かないんだね……」
「訊いてほしいか?」
躊躇いがちにそう言って、伴侶は目を逸らす。笑い含みに応えを返し、尚隆は再び唇を重ねた。唇を離すと、伴侶は甘い溜息をつく。しばし黙した伴侶は、不意に目を上げて小さく問いかけた。
「──今、私は、何処にいるの……?」
翠の瞳を潤ませた伴侶は、掠れた声で囁き、縋るように尚隆を見つめる。尚隆は涙に濡れた双眸を揺るぎなく見つめ返し、ゆっくりと答えた。
「お前は、ここにいるだろう?」
「ここは、何処なの?」
尚隆を見上げ、伴侶は畳みかけるように問いを重ねる。昏い深淵を露にするその瞳から目を逸らすことなく、尚隆は即座に断じた。
「俺の腕の中だ。俺はここにいる。お前もここにいる。──お前は、俺を信じると言っていたろう?」
瞬きとともに盛り上がった涙が零れる。伴侶は黙して頷いた。尚隆は己の唇でその涙を拭い、悩める伴侶を抱き寄せる。伴侶は目を閉じ、素直に身を預けた。
「──蓬莱の夢を見た……。思い出すことも、ほとんどなかったのに……」
やがて、言葉を手繰るように選びながら、伴侶は訥々と語り出す。乱れる心を抑えるように、声を震わせながら。
「──夢なんだ、と思った。それなのに、こちらの世界も夢だったんだ……」
言い終えて伴侶はまた涙を零す。その涙を拭いながら、尚隆は伴侶に人の悪い笑みを返した。
「──では、俺も夢か?」
「夢は、そんな悪さをしないよ」
細い身体を愛撫する尚隆の手を軽く抓りながら、伴侶は悪戯っぽい笑みを見せる。痛がる振りをしながらも、尚隆はくつくつと笑った。
「小憎らしい口を利く元気はあるのだな」
「だって……」
言い募る唇を甘く塞ぐ。小さく抗う手を掴み、滑らかな肌をなぞった。伴侶はくすぐったそうに身を捩り、笑い声を立てる。そして、それ以上愛撫を拒むことなく、尚隆の情熱をその身に受け入れた。
寝苦しい夜は、景王陽子の安眠を奪い、悪夢を見せつけた。少し汗ばむその華奢な身体を抱きしめ、延王尚隆は伴侶の安らかな寝顔に見入る。陽子の抱える不安は、尚隆の想像を超えるものだった。
景王陽子は天の存在に疑問を抱いているのだ、と尚隆は単純に思っていた。しかし陽子は、天の存在どころか、この世界や己の存在自体に不安を感じているのだ。それは、胸に異郷を抱く故に持つ疑問なのかもしれない。そう思い、尚隆は嘆息する。
思えば陽子は拉致も同然にこちらに連れてこられた。迎えに来た景麒ともはぐれ、わけも分からずに襲いくる妖魔と戦った。陽子は生き延びるために、状況を丸呑みするしかなかった。
雁に来て己が景王と自覚してからも、偽王軍と戦わなければならなった。偽王を倒しても、落ち着かぬ国を治めるために心を砕き続けてきた。陽子には、天や常世に疑問を持つ暇などなかったのだ。
尚隆は悪夢にうなされた伴侶を抱きとめた。そして、怯え、震える伴侶が落ち着くまで、辛抱強く待った。唇を重ね、華奢な身体を抱きしめ、髪を撫でながら。
やがて、緊張が解けた伴侶は、己が心に持つ蟠りをぽつりぽつりと語った。巧く言えないのだけれど、と言葉を探しながら。
何故、妖魔がいるのか。何故、王には寿命がないのか。何故、生命は樹木から誕生し、何をもって麒麟は王を選ぶのか。
この世界ではそれが当たり前なのだ、と受け止めたことに対する違和感。そして、常世を厳然と縛る天の理、決して姿を見せぬ天帝。それから、氾王に突きつけられた、新たな疑問。
何故、泰麒は六年も戻ってこないのだろうか。
胎果の泰麒は、蓬莱という夢の世界に消えてしまったのかもしれない。それならば、同じく胎果の己は?
そんな漠とした不安が、悪夢となって現れたのかもしれない。戴を救いたいと願ったのは自分なのに。そして、そのために貴重な時間を割いて、諸国の王と麒麟が集まってくれたのに。語り終えて、陽子は自嘲の笑みを見せた。
再び瞳を潤ませる伴侶を、尚隆はそっと抱き寄せた。陽子がそう思っても不思議はない。あちらの世界に馴染めず、かといって戻ってきたこちらの世界でも、異端とされる。所詮、胎果など、どちらにも属せぬ者でしかない。
それでも、七カ国による泰麒捜索はもう動き出している。景王陽子は、その発起人として動かなければならない。そして、延王尚隆は後見人として若き隣国の王を支えると決めた。
己の疑問を口にするまい。王として歩もうと必死に努力している伴侶を、これ以上不安にさせるまい。尚隆は改めて心に誓った。
空が白む前に身支度を整えた。伴侶は深い眠りに沈んでいる。少しは不安が解消されればよいのだが。あどけない寝顔を眺め、尚隆は呟く。眠れる伴侶の頬に口づけを落とし、尚隆は己の宿舎に戻った。
2006.10.27.
お待たせいたしました。長編「黄昏」第16回、なんとかお届けできました。
なんでこんなに詰まるのか、自分でも解りません……(汗)。
次回はもう少し余裕を持てるといいな、と切に願っております。
どうぞ気長にお待ちくださいませ。
2006.10.27. 速世未生 記