黄 昏 (17)
* * * 33 * * *
勢いよく扉が開く音がして、延王尚隆は目を覚ました。軽い足音が足早に近づいてくる。まだ眠り足りないのだがな、と尚隆は小さく嘆息した。そのとき。
「起きろ、尚隆! 始めるぞ」
朝の陽光の下、六太が威勢のよい声を上げながら牀榻の帳を開けた。尚隆は眠そうに起き上がり、張り切っている半身に笑みを返す。
「──ずいぶん早いのだな」
「何寝惚けたこと言ってんだ。もう、みんな集まってるんだぞ」
暢気な尚隆の応えに、六太は呆れたように嘆息しつつ、そう言った。尚隆は大きく欠伸をしながら、ゆったりと六太に問う。
「──陽子もか?」
「当たり前だろ」
六太の答えは簡潔だった。尚隆は少し肩を竦める。昨日の様子を思い返すと、陽子が少し心配だったのだが。そんな尚隆に、六太は意地の悪い視線を向ける。
「後はお前と、なかなか衣装の決まらない範の御仁だけだ」
「──あやつと一緒にするな」
天敵である氾王呉藍滌と一緒くたにされて、尚隆は眉を顰めた。六太はにやりと笑い、牀に腰掛けた尚隆の肩を叩く。
「一緒にされたくなきゃ、さっさとするんだな」
「お前に言われるまでもない」
尚隆は手早く着替えを済ませると、六太とともに蘭雪堂に向かった。そこには、もう既に廉麟と氾麟、景麒や陽子が集まっていた。
「──あら」
和やかに談笑していた氾麟が、いち早く顔を上げた。尚隆の姿を認め、氾麟はにっこりと笑みを浮かべ、早速絡んでくる。
「おはよう。尚隆ったら、お寝坊さんなのね」
「喧しい。お前の飼い主も、まだ姿を見せていないではないか」
尚隆は顔を蹙め、憮然と応えを返す。氾麟は鈴を転がすような笑い声を立てた。
「あら、主上はもうとっくに起きていらっしゃるわ。ただ、着替えがお済みでないだけよ」
「屁理屈をこねるな。ここにいなければ、同じことだろう」
更に軽口を叩く氾麟に、尚隆は眉根を寄せて言い返した。そんな二人の様子に、廉麟と陽子が顔を見合わせてくすりと笑う。尚隆がそちらに目を向けると、二人の娘は優雅に拱手した。
「おはようございます、延王」
「──遅くなって悪かった」
尚隆は軽く頭を下げて詫びる。陽子は笑みを交えた目礼を返し、いつもの女王振りを見せた。その笑みには、昨夜の脆い姿は微塵もない。不安を払った翠の瞳は、清々しく輝かしかった。
景王陽子は、本当に己の感情を律することに長けている。この若さで大したものだ、と尚隆は微かに笑みを浮かべた。
「──こいつ、やっぱり寝てたんだぜ」
「延麒、そう仰らずに。延王は各国との交渉や長旅でお疲れでしょうから」
六太が呆れたように陽子に告げる。陽子はにこやかに笑みを浮かべながら応えを返した。そのとき。
「おや……景女王は、まことお優しい」
笑い含みの声がして、皆が一斉に振り返る。そこには、支度を終えた氾王が立っていた。氾麟が嬉しげに顔をほころばせ、主に駆け寄る。
「待たせたね」
「──待たせすぎだ」
「そういう尚隆だって今来たくせに」
婉然と笑う氾王に、尚隆は憮然と言い放つ。すかさず氾麟が反論した。己の麒麟の頭を愛おしげに撫でて、氾王はまた笑う。
「猿山の猿王と違って、私の支度には時間がかかるのだよ」
「そんなぞろぞろした恰好をしなければ、もっと早くできるだろうに」
扇で口許を隠し、嘲弄する氾王に、尚隆は即座に言い返す。対する氾王は、笑顔を見せてはいるが、目許は笑っていない。静かな火花を飛ばす二人の王は、壮絶なる舌戦に備え、身構えるのであった。
* * * 34 * * *
目が覚めると、空は既に白んでいた。隣で眠っていたはずの伴侶は、もう既にいない。尚隆が出て行ったのにも気づかず、ぐっすりと眠っていたなんて。陽子は小さく溜息をついた。
そして、陽子は昨夜の悪夢を思い出す。今や夢幻の世界となった蓬莱。もう、二度と戻れないと思っていた故郷の夢を見た。ああ夢だ、そう思い、陽子は現実に戻ろうとした。
それなのに、現実と思っていたこちらの世界が、目の前から消えた。夢の中とはいえ、足許が跡形もなく崩れる感覚に、陽子は恐怖した。
己は今、何処にいるのだろう。いったい何を信じればいいのだろう。
混乱した陽子は差しのべられた手に縋った。耳許で名を呼ぶ優しい声。悪夢に冷えた心と身体を温めてくれた広い胸。
尚隆は何も訊かずにただ傍にいてくれた。陽子の心が鎮まるまで抱きしめていてくれた。そして、陽子の胸に巣食う蟠りを聞いてくれた。そんな伴侶の温もりを思い出し、陽子はそっと己の肩を抱く。
延王尚隆は、怖じける陽子に、確かな存在感を示してくれた。その逞しい腕に抱かれ、陽子は己が景王であることを思い出した。
偉大なる隣国の王に大言壮語したのは、つい先日のことだというのに。陽子は掌を返したように甘えを見せた己を恥じて俯く。そんな陽子を嘲ることなく受け止めてくれた伴侶。なんて大きなひとなんだろう。陽子は改めてそう思い、感嘆の溜息をつく。
己の我儘のために骨を折ってくれている伴侶に報いたい。陽子は誓いを新たにする。解決しない疑問など、今は横に置き、戴のためにできることをしよう。陽子は立ち上がり、身支度を整える。思い出した悪夢が陽子を脅かすことは、もうなかった。
景王陽子は四カ国の王と麒麟が集うこととなる蘭雪堂へ向かう。泰麒捜索の発起人である景王には、己の物思いに沈む暇などない。そして、隣国の王との秘密の逢瀬を気づかれるわけにもいかない。夜明け前に去った我が伴侶は、それをも承知だろう。そう思い、陽子はまだ誰もいない蘭雪堂で、気を引き締めた。
やがて景麒が現れ、その後、次々と麒麟たちが姿を見せた。本能で慈悲を施す麒麟は、己の同類をも案じているのだろう。陽子は密かに胸を衝かれる思いがした。
主はどうした、と問う六太に、氾麟がにっこり笑って着替え中だと答える。またかよ、と六太は渋い顔をした。尚隆はどうしたの、と逆に問う氾麟に、六太はますます渋い顔を見せる。
「きっとまだ寝てるんだろうよ。ちょっと起こしてくる」
六太は踵を返し、堂室を出ていく。少しの後、六太はまだ少し眠そうな尚隆を連れて戻ってきた。
「──こいつ、やっぱり寝てたんだぜ」
「延麒、そう仰らずに。延王は各国との交渉や長旅でお疲れでしょうから」
悪態をつく六太に、陽子は笑い含みの応えを返す。尚隆が寝不足なのは、公にはできないが、陽子のせいなのだから。そのとき、後ろから声をかけられた。
「おや……景女王は、まことお優しい」
満足そうに微笑む祥瓊を従えた氾王だった。笑みを湛えた氾王に、尚隆が憮然と言い返す。たちまち範国主従と延王尚隆の舌戦が繰り広げられ、景王陽子は目を丸くした。
「──延麒」
「放っとけ。いつものことだ」
肩を竦めて嘆息する延麒六太につられて、陽子も景麒も深い溜息をつく。しかし、廉麟だけがにこにことそれを見つめていた。
「本当に、皆さま、仲がよろしいのですね」
「れ、廉麟……ほんとにそう思ってるか?」
「ええ。──違うのですか?」
呆れて問う六太に、廉麟は不思議そうに小首を傾げる。それを見て、六太と陽子は顔を見合わせ、一緒に脱力したのだった。
「猿王、戯言はいい加減に。──景王が呆れているぞえ」
「戯言を捲くし立てておるのはその口だろう」
氾王と延王の舌戦はいよいよ白熱している。氾麟はとっくに戦線離脱を図っていた。今度は矛先を景麒に変えて何やら楽しそうに話しかけている。景麒はそんな氾麟に少し困惑気味だった。どいつもこいつもまったく、と大きく溜息をついた六太がとうとう口を挟んだ。
「──尚隆」
「お前は黙っておれ」
主に一言で一蹴され、六太は肩を竦めて両手を挙げた。そのまま陽子に目で合図する。景王陽子は苦笑して二人の王の間に割って入った。
「呆れているわけではありませんよ、氾王。お二人とも、喧嘩するほど仲がよろしいということで。ねえ、廉麟」
「ええ、本当に。楽しそうで何よりです」
陽子に水を向けられた廉麟は、にっこりと邪気のない笑みを見せる。それを聞いて二人の王も、さすがにばつが悪そうに黙った。陽子はほっと安堵の息をつく。
賑やかだった蘭雪堂が静まった。その中で、端然と立つ景王陽子は、集まった賓客たちに深々と頭を下げる。
「皆さま、泰麒捜索を、どうぞよろしくお願いします」
「任せとけ」
延麒六太が明るく請け負った。その言葉に皆が頷く。こうして前例のない大事業は始まったのだった。
2006.10.27.
久しぶりにお待たせしないでお届けできた長編「黄昏」連載第17回でございます。
如何でしたでしょうか。
範国主従は明るくて、書くのがとっても楽しいです。
でも、範の御仁ばかり書いていたら、いつまでたっても終わりが見えません。
頑張って先に進まなくては……。
2006.11.02. 速世未生 記