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黄 昏 (18)

* * *  35  * * *

 議場となった蘭雪堂の奥にある、孤琴斎という小さな建物に、呉剛環蛇が置かれた。呉剛環蛇は、蝕を起こさずにあちらとこちらに穴を通すことができる、漣の宝重である。それを潜ることができるのは、麒麟と使令のみ。
「じきに見つかるから心配するな」
 不安げな目を向ける戴国将軍李斎に、延麒六太は明るい笑みを返す。まずは泰麒の故郷に行ってみる。そう笑顔を見せ、六太は呉剛環蛇を潜った。それを皮切りに、麒麟たちが次々と光の輪の中に消えていく。

「──いよいよ始まるのですね」
 萎えた身体をおしてやってきた李斎が、感慨深げな呟きを漏らす。どうか泰麒が見つかりますように、そんな祈りが聞こえてきそうな、その声。
「無事に見つかるとよいのだが」
 呉剛環蛇が残す白い光を見つめながら、尚隆もまた呟く。六太は楽観的だったが、尚隆にはそうは思えなかった。捜して直ぐに見つかるような状態であれば、泰麒が六年も行方知れずなわけがない。
「そう──ですね……」
 李斎が短く息を吐く。胸に不安を抱く李斎は、尚隆の危惧を感じとったのかもしれない。
「李斎、今の私たちは、吉報を待つことしかできない。延麒たちを信じよう」
 孤琴斎から蘭雪堂に戻りながら、景王陽子は李斎に力強く声をかける。そう、王も仙も、今はただ、戻ってくる麒麟たちを待つことしかできないのだ。そして、待つ時間ほど長く感じるものはない。
「──はい、そういたします」
 それでも李斎は淡い笑みを見せた。陽子はひとつ頷き、鮮やかな笑みを零す。それから尚隆に向き直り、軽く拱手した。

「一度、朝議に顔を出してまいります」
「お前は、そのまま政務についていいぞ」
 そう告げて尚隆は陽子に笑みを返した。このまま蘭雪堂にいても、どうせ待つことしかできないのだ。まだ落ち着かぬ国の王は、その時間を有効に使ったほうがよいだろう。
「でも……」
「どうせ待つことしかできないのだよ、景女王。お気になさらず、行ってくりゃれ」
 陽子は少し逡巡し、ちらりと氾王を見る。にっこりと微笑む氾王の応えも、尚隆と同じだった。尚隆は重ねて告げる。
「何か動きがあれば、すぐに報せる」
「──はい。それではお言葉に甘えさせていただきます」
 済まなそうに頭を下げると、景王陽子は蘭雪堂を出て行った。

 堂室に残された顔を見回し、尚隆は溜息を堪える。麒麟はみな、呉剛環蛇を潜って蓬莱へ行ってしまった。陽子が退出した後の蘭雪堂には、李斎と氾王と尚隆の三人のみ。
 どうにも相性の悪い範の奴と、いつ終わるか分からない待ち時間を過ごすとは。しかも、李斎に会うという用事を済ませたはずの氾王が、何故帰国しないのか。尚隆は不思議に思い、問うてみた。

「おぬしは国へ帰らんのか? もう用は済んだのだろう」
「そう言う猿王こそ、帰らないのかえ?」

 にたりとたちの悪い笑みを浮かべ、氾王は即座に問い返す。訊いているのはこちらなのに、と尚隆は憮然とした。

「そもそも、雁に来てくれと言ったはずだが。俺は今後の采配しなければならぬのだぞ」
「嬌娘だけ置いて帰るわけにはいかないであろ。猿山の猿王にどんな無茶をさせられるか、分かったものではないからねえ」
「人聞きの悪いことを抜かすな」
「うちの嬌娘は、其許の小猿と違って繊細だからねえ」
「──ぬけぬけとよくほざく」

 これ以上こやつとの話は進まない。簡単に本音を語ることはないだろう。そう思い、尚隆は顔を顰めて溜息をつく。
 見ると、李斎は目を見開き、おろおろと二人の王を見比べている。尚隆はくすりと笑った。氾王の反応も同様だった。氾王はにっこりと李斎に笑いかける。

「李斎」
「は、はい」
「猿王と話すと喉が渇く。お茶を淹れてくりゃれ」

 李斎は少しほっとしたように茶の用意を始める。湯が沸いたところで、麒麟たちが次々と戻ってきた。

* * *  36  * * *

 疲れに少し顔を翳らせた六太が戻ってくると、蘭雪堂に緊張が走った。茶器を用意していた李斎の手が震え、かたかたと音がする。減らず口ばかり叩く氾王も黙した。尚隆はゆったりと六太に問う。

「どうだった?」
「──泰麒の故郷には、気配がないようだ」
 六太はそう言って溜息をつく。尚隆は六太の肩を軽く叩いて微笑した。
「そうか。まあ、休め」
「──丁度お湯も沸きましたし、お茶にいたしましょう」
 ぎこちない笑みを見せて茶器を差し出す李斎は痛々しかった。済まないな、と小さく返し、それでも六太は明るい声を出す。
「最初はこんなもんかな」
「そうですね」
 廉麟が静かに同意した。いつも姦しい氾麟も黙して頷く。それはいつも無表情な景麒も同じだった。配られた茶器の湯気が、静まり返った蘭雪堂に漂う。やがて、景麒が立ち上がった。
「──それでは、私はこれにて」
 政務を執る時間だ、と景麒が頭を下げて出て行く。続いて、少し不機嫌な氾麟を宥めながら、氾王が去った。廉麟と六太は、もう一度行ってみる、と言って孤琴斎に消えた。

 尚隆は青白い顔をした李斎と二人、蘭雪堂に残された。かねてより、李斎には訊いてみたいことがある。この機会に、それを明らかにしておこうか。李斎に淹れてもらった茶を啜りながら、尚隆は静かに問うた。

「李斎、そなたは何故、慶に助けを求めたのだ?」

 李斎ははっと顔を強張らせ、逡巡するように目を泳がせる。尚隆は笑みを湛え、重ねて問うた。
「──景王が、泰麒と同じ年頃の、胎果だからか?」
「──申し訳、ございません」
 延王尚隆の問いに、李斎は顔色を変える。

 やはり──。

 それで、充分だった。尚隆は、更に蒼白になって俯く李斎の肩を叩く。
「何を謝る? そなたを責めているわけではないぞ」
「いいえ……私は……覿面の罪を存じておりました」
 李斎は呻くように呟いた。そして、片方しか残されていない手を固く握りしめ、震える声で続ける。

「景王が遵帝の故事を知らなければいい、と思いました。故郷を懐かしみ、情に流されて戴を救おうと起ってくれることを期待しました。──私は、そんな浅ましい人間なのです……」
「若き胎果の王に一縷の希望を見出したのだろう? そうでなければ妖魔の跋扈する虚海を超えられはすまい」
「──いいえ!」

 尚隆の慰めにも李斎は激しく首を振り、唇を噛みしめる。そして、尚隆が予想したとおりの言葉を吐いた。

「私は……慶の王師を借りることができれば、慶が沈んでも構わないとさえ……」
「──李斎、もうよい」

 血を吐くようなその告白を、尚隆は静かに遮った。しかし、尚も李斎は言い募る。

「延王、私は……慶に雁の後ろ盾があることも……」
「陽子は──景王は、そなたの嘆願を真摯に受けとめた。そして、俺を論破し、各国を動かしたのだ。──そなたの国への想いが強ければこそのことだ」
「延王……」

 尚隆は李斎の瞳を捉え、静かに断じた。李斎は肩を震わせて俯く。しかし、戴国の将軍である女は涙を見せることなかった。

「李斎、慶を沈めてはいけない、と陽子に言ってくれたことを、俺は感謝しているぞ」
 尚隆は李斎に笑みを向けて礼を述べた。李斎本人がそう言わなければ、陽子は納得しなかっただろう。尚隆はおもむろに続ける。
「──だからこそ、俺はここにいるのかもしれぬ」
「延王……」
「巧が倒れ、戴が落ち着かず、柳もまた危うい。せっかく王が立った慶までもが倒れては、さしもの雁も荷が重いのでな」
 俺は雁の王だから雁のためにならぬことはしない。尚隆は破顔してそう付け加えた。

 倒れそうな国に手を貸すことは己の国のためなのだ、と景王陽子は訴えた。そして、李斎は浅ましい人間ではない、そう断じた。
 李斎は、戴と慶を隔てる虚海を、妖魔と戦いながら、命懸けで超えてきた。それが、例え年若き胎果の王に罪を唆すためだと知っても、陽子は受け入れるのだろう。それだけ戴の状況は悲惨なのだ、と微笑みながら。己の伴侶はそういう女だ。
 そして、そんな伴侶が救いたいと願った女は、やはり悪人になりきれる者ではい。李斎は嗚咽を堪え、己が胸に抱いた罪を懺悔した。そして、小さく溜息をつき、その理由さえ吐露する。

「延王……景王は何故、あのように純粋なのでしょう……?」
「──無茶で無謀、というのだ。陽子は、王でありながら、未だ王ではない」

 訝しげに首を傾げる李斎に、尚隆は微笑した。言葉にして、尚隆は己も納得する。景王陽子は、常世に吹く新しき風だと。もしかして、範の奴もそう思っているのかもしれない。そう思い、尚隆は楽しげに笑みを浮かべた。

2006.11.10.
 お待たせいたしました。長編「黄昏」連載第18回をお送りいたしました。
 そろそろ「プロット粗い宣言第2弾」がお終いになると思います。 そして、とうとうここで原稿用紙200枚到達でございます……(溜息)。 禁句の呟きがつい漏れそうな今日この頃。

2006.11.10. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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