黄 昏 (19)
* * * 37 * * *
景王陽子は急ぎ回廊を歩く。朝議に出席し、溜まった政務を片付けなければならない。議場に程近い回廊で冢宰浩瀚に出会った。
「浩瀚、朝議は終わったのか?」
「はい、つつがなく」
「そうか──」
間に合わなかったな、と陽子は小さく溜息をつく。浩瀚は涼しげに微笑した。
「お時間はおありですか?」
「ああ。延王たちがいいと言ってくれたので、溜まった仕事を片付ける」
「それでは私が本日の議題をご報告いたしましょう」
「ありがとう、浩瀚」
陽子は浩瀚とともに執務室に向かった。歩きながら、麒麟たちは今、蓬莱に行っているのだ、と思うと落ち着かない。李斎にかけた慰めは、陽子が己を宥めるための言葉でもあった。
泰麒は、無事に見つかるだろうか。もし──泰麒があちらで幸せに暮らしているなら……。
六太は、どうするのだろう? そして、李斎は──。そこに思い至り、陽子ははっとした。まるで、霧が晴れたような感じがする。
「──主上?」
「ああ、済まない、浩瀚。それじゃあ、報告してくれ」
「はい、まず始めに──」
黙して立ち止まった陽子に、浩瀚が心配そうに声をかける。陽子は軽く首を振り、浩瀚に笑みを返した。執務室に入り、己の書卓に着くと、陽子は女王の顔を見せ、浩瀚に命じた。
火急の用はないらしく、蘭雪堂からの呼び出しはない。浩瀚が執務室を辞した後も、景王陽子はそのまま政務を続けた。その後、案件の書類を携えた景麒が顔を見せた。
「──景麒。戻っていたんだな。ご苦労だった。──で、どうだった?」
「はい、どうやら、泰麒の故郷には気配がないようです」
「そうか……」
そう呟いて、陽子はしばし黙した。
泰麒は何故戻ってこないのか──氾王の言葉がまだ胸に残っている。陽子は景麒を見上げ、訊いてみた。
「景麒がもし、蓬莱に流されてしまったら、どうする?」
「戻ります」
予想通り、景麒は揺るぎなく即答する。そんな半身に、陽子は重ねて問うた。
「──戻りたくても、戻れなかったら?」
「それでも、戻ります」
「──そうか」
陽子は小さく溜息をつく。景麒は生粋の麒麟だ。それ以外の何者でもない。心に異郷を抱く胎果の気持ちは、きっと分からないだろう。
麒麟が王の側に侍るのも、民を哀れむのも、本能からだとしたら。麒麟が、本能により常世に縛られているのだとしたら。王が虚海を渡ると蝕が起こるのは、王を常世に縛りつけるためかもしれない。漠とそう思い、陽子は首を振る。
そんなことをせずとも、天の理にこの身が繋がれていることには変わりない。国と民を放り出して蓬莱に戻れば、麒麟が病んで、己も命を落とすのだから。
天はどこまで王を縛るのだろう。
「主上……泰麒は、鳴蝕を起こしたのです」
物思いに沈む陽子は景麒の声ではっと我に返る。見上げて目で問うと、景麒は静かに続けた。
「初めてお会いしたときの泰麒は、転変することすらできませんでした。その泰麒が鳴蝕を起こすなど、己を守るために、本能的にしたとしか考えられないのです」
「景麒は前もそう言っていたな。──いったい、泰麒にどんな悪いことが起きたんだろう。どうして、戻ってこないのだろう」
結局、思いはそこへ戻っていく。堂々巡りと分かっていても、口に出さずにはいられない。そして、その疑問に対するひとつの答えを、陽子は心に思い浮かべてしまうのだ。胸に抱く違和感を払拭する、ある答えを。
麒麟である泰麒が、蓬莱で人として幸せに暮らしているならば。
もしそうだとしたら、泰麒は常世に戻ってこないかもしれない。それは、誰にも言えないことだった。
「それは、私にも分かりません。しかし、泰麒は泰王を慕っておられた。そして、戴の民を哀れんでおられた。ご無事であれば、必ず戻ろうとするはずです……」
生真面目に答える景麒を見上げ、黙して頷く。麒麟ならば、そうするだろう。陽子は再び深い溜息をついた。
答えの出ない問答は、そこで打ち切られた。景麒は案件を説明し、書簡を置いて出て行く。その書簡を眺めながら、一人になった陽子はまたも物思いに沈んだ。
もし、今、蓬莱に帰ったとしたら、己はどうするのだろう。
帰る、という言葉を思い浮かべることからも、分かってしまう。家に、帰ろうとしてしまうのだろう。それから、どうするのだろう?
あちらで、幸せに暮らしていたとは思えない。そして、こちらでも、物を知らないただの小娘と侮られた。結局、どっちつかずなのだろうか。こちらにいてはあちらを思い、あちらに帰ってもこちらを思うのだろうか。
こんなことを思ってしまう己に、陽子は後ろめたさを禁じえない。景王陽子はこの慶東国の国主として在らねばならないのに。
溜息をひとつ零す。それから、深く息を吸う。書卓に積み上げられた書簡を取上げ、陽子は再び仕事を進めた。
* * * 38 * * *
泰麒捜索は行き詰まっていた。朗報が得られぬまま、人々の集う蘭雪堂の空気も、次第に気怠く鬱屈していく。
かつての故郷に泰麒の気配はない、と麒麟たちは言う。そのため、更に捜索の手は伸ばされた。郷里を中心に、二手に分かれて北上、南下してみたが、それでも痕跡は見当たらない。
六太は疲れた顔で、今度はもっと丁寧に捜してみる、と述べた。実際に虚海を超える麒麟の言に、李斎ですら黙して頷くのみだった。その中で、尚隆は思いつめた顔を見せる陽子を案じていた。
夜半にそっと堂室を訪ねると、陽子は官服のまま悄然と坐っていた。張りつめた危うい雰囲気を漂わせ、伴侶は小さく尚隆の名を呼ぶ。どうした、と声をかけると、目を伏せた伴侶は消え入るような応えを返した。
「蓬莱での人捜しなら……私が適任なのに……」
「──陽子」
尚隆は眉根を寄せ、咎める声を上げた。伴侶は切迫した目を向けて言い募る。
「だって、そうだろう? 麒麟が麒麟の気配を辿れないんだから。私が行って蓬莱の方法で捜せば、手がかりが掴めるかもしれないじゃないか……」
「陽子。──王は虚海を渡れぬ」
尚隆は伴侶の目をじっと見つめ、宥めるように諭した。王が虚海を渡れば、大きな蝕を招く。景王陽子がそれを知らぬはずがない。一瞬黙した伴侶は、視線を逸らす。そして、躊躇いがちに問い返した。
「──渡れないことは、ないだろう?」
「陽子」
「──」
その頬に手を伸ばし、尚隆はもう一度、伴侶の視線を捉えた。揺れる瞳を覗きこみ、おもむろに名を呼ぶ。そして、口を噤む伴侶に、分かりすぎる事実を言い聞かせた。
「お前も俺も、二度、蝕に関与している。善い国を作りたい、と願う王は、虚海を超えるべきでない」
「──分かってるよ……」
そう言って唇を噛む伴侶に、問いかけようとして、尚隆は口籠る。
──あちらが、恋しいか?
以前、恋しくないと言えば嘘になる、と伴侶は涙を零した。今、このとき、そんな応えを受けとめる自信はなかった。
そうだ、己が景王だと聞かされても尚、陽子は蓬莱に帰ると主張していたのだ。例え蝕を起こしてあちらもこちらも被害を受けることになっても、己は帰りたいのだ、と。
それくらい、陽子が故郷を思う気持ちは強かった。尚隆は、そんな陽子を半ば強引に己のものにしたのだ。あれから、まだ二年しか経っていない。
思い返せば、泰麒捜索の当初から、陽子の心は揺れ動いていた。あちらに帰りたい──そう思う気持ちが見え隠れしている。無理もない。落ち着かない国を抱え、考える暇などなかったことを、目の前に突きつけられたのだ。懐かしい故郷に繋がる者を助けたいと願う胎果の王の心中に潜む望郷の思い──。
己と同じ年頃の麒麟が、蓬莱に戻っているかもしれない。もしかして、泰麒は蓬莱人として幸せに暮らしているかもしれない。今帰れば、まだ家族も友人も生きている。街並みもそう変わらないだろう。今なら、まだ間に合う。それなのに。
王は虚海を渡れない。
大きな蝕を起こすと分かっていながら、王が虚海を渡るべきでない。──誰がそれを決めたのが。いったい何のためなのか。
何故、何故、何故。
物思いに沈むほど、日毎に疑問は膨らむばかり。そんなふうに伴侶を誘う暗闇の囁きが、尚隆の耳にも聞こえるような気がした。
そう、膨大な情報を、丸呑みしてきた陽子は、常世の理に疑問を持ち始めた。胎果の王であれば、当たり前に持つ疑いを。
同じ胎果の王として、尚隆は陽子にその疑問を解く術を教えるつもりでいた。しかし、それはもっと先の話になるはずだった。国が落ち着き、王として歩む道が整うまで待つつもりだった。
陽子を蓬山に行かせたのは、早過ぎただろうか。
そんな思いが胸を過る。──済んだことは戻りはしないというのに。
輝かしい翠の瞳に影を落とす昏い闇。尚隆は思わず伴侶をきつく抱きしめた。
もう、何も考えるな。お前を、どこへも行かせたくない。
そんな想いを籠めて、熱く口づける。薄く笑んだ伴侶は、甘い溜息をついて尚隆に身を委ねた。
2006.11.17.
大変お待たせいたしました。長編「黄昏」第19回、なんとかお届けできました。
「プロット粗い宣言第2弾」終了、と申し上げたばかりでしたのに、ごめんなさい。
最近、ちゃんと紙に落としていなかったため、内容把握を怠っておりました。
矛盾を見つけてしまったら、かなり戻って書き直し……。眩暈がいたしました。
いやはや、反省しきりでございます。
2006.11.17. 速世未生 記