黄 昏 (20)
* * * 39 * * *
泰麒は杳として見つからなかった。焦燥感すら夏の暑気に呑まれ、蘭雪堂に気怠い倦怠を漂わせる。楽観的だった延麒六太の表情も曇りがちで、他の者は言わずもがなであった。
その日、陽子が政務の合間を縫って蘭雪堂に行くと、六太が一人で榻に沈みこんでいた。その姿に胸を衝かれた陽子は、声をかけることを躊躇う。戸口に佇む陽子を認めると、六太は力なく手を振った。
「よう──」
「六太くん……どうだった?」
陽子は遠慮がちに訊ねた。六太ははかばかしくない結果を、強いて笑顔で答える。
「うん……。二手に分かれて捜してみたけど、どこにも痕跡がなかった」
「そうか……」
それ以上何も言えずに陽子は俯く。六太は小さな溜息をつき、頭の中の考えを整理するかのように続けた。
「あのな、もしかして、泰麒は蓬莱にはいないかもしれない」
「──崑崙にいるってこと?」
「じゃなく……。陽子、呉剛の門を憶えてるか?」
六太に問われ、陽子は蓬莱で見た呉剛の門を思い出す。真っ黒な海に白く月が影を映していた。それが、ただ一度だけ通った、あちらとこちらを繋ぐ門。
「うん。海に浮かぶ月の影だよね?」
「そう。あれは、潜ったらすぐこちらに着くわけじゃないだろう」
「──うん」
芥瑚に付き添われ、驃騎に跨って輝く丸い光を潜った。恐ろしさに悲鳴を上げ、固く目を閉じながら。閉じた瞼の下に白銀の光を感じ、目を開けると、そこには光の隧道があったのだ。
陽子はそのときの不可思議な感覚をも思い出す。海の中に映る月の影に飛びこんだのに、足許にも白く輝く月があった。そして、その波立つ光の輪を抜けると、暗い海の上に出たのだ。
海面はみるみるうちに泡立って、嵐のように荒れ狂う波を打ち上げ始めた。波頭の飛沫がちぎれていき、恐ろしいほどの風が吹いているのが分かる。今初めて、あれが蝕を起こしていたのだと思った。
陽子はその後流されて辿りついた巧国の配浪を思い起こす。あのときの蝕を、六太は、王が渡ったにしては軽いものだったと評していた。しかし、それは上に立つ者の見方なのだ。
配浪の今年の収穫は全滅だ──お前のせいで。
陽子を海客と知った村人はそう詰ったのだから。民にとって、蝕は蝕、軽いも重いも関係ない。
そう、あのとき配浪の閭胥は、人は虚海を超えられないと断じた。その宣言に、陽子はどれほど衝撃を受けただろう。しかし、常世には人ならぬ者がいる。雲海の上に住む仙と神は、虚海を超えることができるのだ。
「──陽子?」
「ごめん……。確かに、あちらとこちらの間には短い隧道があったね」
己の物思いに沈む陽子を、六太が覗きこむ。陽子は我に返り、応えを返した。六太は大きく頷き、話を続ける。
「呉剛環蛇を使うときは、廉麟の手を握ってなくちゃいけないんだ。というより、呉剛環蛇の尾、かな。でないと、迷う、と言う」
「泰麒もそんなふうに迷った、というのか?」
「そうでも思わないと納得できないくらい、見事に気配がないんだ」
「そうなのか……」
そう言って溜息をつく六太に、陽子は告げることができなかった。泰麒は、あちらで、人として幸せに暮らしているのではないか、とは。
麒麟が麒麟であることを放棄しても、麒麟の気配が消えることはない。そう言われてしまえば、陽子も反論できないのだが。
直接あちらに出向いて、それを確かめたい。そう思う己がいる。そして、王は虚海を超えてはならない、と戒める己がいる。
楽俊は海客が蝕を起こすわけではない、蝕に海客が流されてくるのだ、と言った。その言葉に、陽子はどんなに慰められたことだろう。しかし、玉座に就いた景王陽子は識っている。呉剛の門を開くと蝕が起きるだということを。海客はその煽りを食った人々なのだ。
蝕を起こさずにあちらに行ける呉剛環蛇を、本は人である陽子は潜ることができない。陽子があちらに行くには、呉剛の門を開くしかない。王が虚海を渡ると大きな蝕が起こる。それなのに、王である己が、虚海を超えたいと望んでいるのだ。
「──なあ、陽子、泰麒はどうして戻ってこないんだと思う?」
陽子の胸の葛藤にも気づかずに、六太は不意に問いかける。陽子は少し逡巡した。しかし、口に出すことができなかった。俯きながら、小さな声で応えを返す。
「──分からないよ」
「そうだよなぁ……。なんで戻れないんだろ……」
六太は深く嘆息し、物思いに沈みこむ。六太はこんなことを考えないのだ、と思う陽子は、やはり何も言えなかった。やがて六太は思いを吹っ切るように立ち上がる。
「朗報を待ってる李斎には、説明したほうがいいよな」
誰よりも朗報を待ちわび、しかも麒麟を気遣う李斎。己の無力さをひしひしと感じ、陽子は黙して頷いた。
* * * 40 * * *
その日の政務を終え、陽子は一人自室へ戻る。仕事をしている間は考えずに済むことが、独りになると頭の中をぐるぐると回りだす。
夜着に着替えることもせず、陽子は榻に身を沈める。戴を救いたいと願う己は、一国の王でありながら、なんと無力なのだろう。泰麒を救いたいと言い出したのは陽子のはずなのに、己にできることはない。
そう思い、陽子は深い溜息をついた。そして、六太との昼の会話を反芻する。
泰麒の気配がどこにもない、と六太は肩を落とした。麒麟が麒麟の気配を辿れないのならば、現在の蓬莱を知る陽子が役に立つのではないか。蓬莱に戻れば、陽子があちらの方法を使って泰麒を捜すことができるのではないか。
いや、蝕を起こしてまで、王が虚海を渡ることはない。あちらに心を向ける己を戒める己がいる。胸の中でせめぎあう二つの思いを、陽子は持て余していた。
やがて、微かに扉の閉まる音がして、毎夜そっと忍んでくる伴侶が姿を見せた。尚隆はいつもと変わらぬ笑顔を向け、陽子の隣に腰を下ろす。それなのに、陽子はぎこちない笑みすら返せない。それどころか。
「──尚隆」
「どうした?」
優しく訊ねる伴侶に、自己嫌悪を感じつつも陽子は悄然と応えを返す。蓬莱での人捜しなら己が適任なのに、と。陽子の予想と違わず、尚隆は即座に眉を顰めて咎める声を上げた。
延王尚隆が肯定することなど有り得ない──分かっていたはずなのに。
このひとは、己も陽子も王であることを、常に忘れない。それでも、一度口から溢れてしまった言葉の奔流を止めることはできなかった。陽子は尚隆を見上げ、胸に蟠る思いを迸らせた。
「陽子。──王は虚海を渡れぬ」
尚隆は陽子の切迫した視線を受け止め、宥めるように諭す。陽子は込みあげる涙を必死に堪えた。分かっている。けれど、言わずにはいられない。それは陽子の我儘で、正しいのは尚隆だと、無論気づいていた。
陽子は尚隆から視線を外す。そして、景王である己が言ってはいけないことを口にした。声が震えるのを感じながら。
「──渡れないことは、ないだろう?」
「陽子」
おもむろに名を呼ぶ尚隆の大きな手が、陽子の頬に触れた。深い色を湛える双眸が、静かに陽子の瞳を覗きこむ。揺らぐことのない稀代の名君の目は、語りすぎるくらいに正論を語っていた。
そして尚隆は口を開く。何を言われるかなど、知れている。そんな苦言は聞きたくない──。陽子は耳を塞ぎたい、と心底思った。
「お前も俺も、二度、蝕に関与している。善い国を作りたい、と願う王は、虚海を超えるべきでない」
「──分かってるよ……」
そう呟いて陽子は唇を噛む。そうしなければ、涙が零れてしまう。今、尚隆の前で、我儘を聞き届けられなかった子供のように泣くのは嫌だった。
尚隆は顔を曇らせ、物問いたげに陽子を見つめる。このひとは、陽子の欺瞞など、お見通しだろう。いくら綺麗事を並べ立てても、隠しきれない故郷への想い。景王陽子は、結局、郷愁に動かされたのだ。
その望郷の想いを指摘されるかもしれない。そう思うと、胸が震える。陽子は尚隆から顔を背けた。耐えられない。もう耐えることなどできない。ずっと心の奥底に隠し、誤魔化し続けてきたのだ。故郷に帰りたい想いを。
その想いは、同じく胎果の王であるこのひとには分かってしまうだろう。陽子と同じく虚海を超えることを禁じられたこのひとには。
そして、陽子はふと考える。あちらとこちらを行き来できる麒麟を見て、このひとは何を思うのだろう。そういえば、このひとの半身である延麒六太は、今までも自由に行き来していた。
躊躇いがちに視線を戻すと、不意にきつく抱きしめられた。開きかけた陽子の唇は、そのまま熱い口づけに塞がれる。
もう、何も言うな。何も考えるな。そう言われたような気がして、陽子は薄く笑い、目を閉じる。そして、そのまま伴侶の胸に身を預けた。
陽子の揺れる想いは、尚隆の心までも乱していた。己の想いに沈む陽子は、それに気づくことはなかった。
2006.11.25.
大変長らくお待たせいたしました。
長編「黄昏」第20回、とうとう金曜にお届けすることができませんでした……(泣)。
来週こそは! (とか言わないほうがよいみたいですね……)
今回は、陽子主上がどもりながら語り続け、話が停滞しております。
次回は話が進むと思います。思いたいです。何卒よろしくお願いいたします。
2006.11.25. 速世未生 記