黄 昏 (21)
* * * 41 * * *
とうとう涙を見せなかった伴侶を思い返し、尚隆は小さく嘆息した。夢を見て泣いていたときのほうが、まだましだったように思う。それくらい、今の伴侶は心をぴたりと閉ざし、忠告も耳に入れない。
己が無茶を言っていると、頭では分かっているのかもしれない。しかし、故郷を想う心が受けつけないのだろう。それでも、延王尚隆は伴侶の言を容れることはできない。
──王は、虚海を渡ってはいけないのだから。
それをも承知で無理を通せば、景王陽子は天啓を失ってしまうかもしれない。尚隆は、それを何よりも恐れていた。今、尚隆が伴侶にできることは、抱きしめることだけかもしれない。それでは、伴侶の抱える問題を、根本的に解決することはできないというのに。そのとき。
尚隆の物思いは、けたたましい足音に断ち切られた。蒼白な顔をした氾麟が清香殿に駆け込み、泰麒が見つかったと報せたのだ。六太と廉麟が呉剛環蛇を潜って確かめに行っている、と。興奮した氾麟が尚も捲くし立てていたが、尚隆にはさっぱりわけが分からなかった。
「──とにかく、尚隆は蘭雪堂に待機していて! 陽子と景麒にも報せなくちゃいけないの!」
苛立たしげにそう言って裳裾を翻し、氾麟は駆けていった。首を傾げながらも、尚隆は蘭雪堂に向かう。そこには、一足早く氾王が着いていた。尚隆は氾王に苦情を言い立てる。
「──おぬしのところの喧しい奴は、何を言っているのか分からんぞ」
「猿の耳は猿の言葉しか分からないのだから、それも仕方がないのではないかえ」
氾王はにっこりと笑いながら、物騒な応えを返す。それから、憮然と反論しようとした尚隆を制し、ゆったりと続けた。
「どうやら、泰麒の使令──饕餮が見つかったようだよ。使令が怖がって近づけないため、小猿と廉台輔が確かめに向かったそうな」
「なるほどな……」
泰麒には二しか使令がいない。しかし、女怪の他に泰麒が使令に下した妖魔は饕餮。通常なら麒麟の使令になどならない強大な妖魔であった。
その、強大な力を持つ、泰麒の使令が見つかった。尚隆はふと気がついて、その言葉を反芻する。それから、氾王に念押しした。
「──泰麒が見つかった、とは言っていないのだな?」
「廉麟の使令によれば、途方もなく大きな兇があるそうだよ」
尚隆の問いに、氾王は扇を弄びながらそう返す。尚隆は腕を組み、考えに沈んだ。途方もなく大きいというその兇が、泰麒の使令の饕餮だとしたら。気配を感じさせない泰麒は、いったいどうしているのだろう。
やがて、蓬莱から戻った六太が、勢い込んで堂室に駆け込んできた。その後ろには陽子と景麒がいて、やはり堂室に駆け込んだ。ここ最近見せていた倦んだ様子を残していない六太に、尚隆は一縷の希望を見出して訊ねる。氾王の声が重なった。
「泰麒は」
「分からない。見えない」
「見えない? どういうことだ」
六太の答えはあまりにも簡潔だった。尚隆は即座に問い返す。六太はそそけだった顔をして答えた。泰麒の使令はもはや使令とは呼べない、恐ろしく強大な妖魔そのものだ、と。遅れて堂室に戻った廉麟も、蒼褪めた顔で同意した。六太は氾王に視線を投げて続ける。
「無理を承知で近づいてみたが、全く何の残滓も見えない。……範の御仁が正しいと思う」
私が、と問う氾王に、六太は頷く。泰麒はもう麒とは呼べない、と。──気配を感じさせないはずだ、と尚隆は密かに納得した。
「どういうことだ?」
それまで黙していた陽子が、六太と廉麟を見比べて、訝しげに問うた。分からない、六太は悄然と応えを返す。しかし、傲濫がいる以上、泰麒もあの街にいるはずだ、六太はそう断じる。
「戻りたくても戻れなかったはずだ──泰麒は麒としての本性を喪失しているのだと思う。そうでなければ、あそこまで気配の絶える道理がない」
見る間に顔色を失った陽子は、信じ難いとばかりに力なく首を振る。そして、半ば呆然として六太に問うた。
「そういうことがあるものなのか?」
「知るもんか。あるとしか考えようがないだろう」
六太は首を横に振り、乱暴に答えた。それから、その場にいる全員を見回し、決然と告げた。
「とにかく虱潰しに捜すしかない。捜して連れ戻す。方法は選んでいられない。傲濫は……あれは、あちらにとっても危険だ」
「──饕餮が、あちらで、暴れているのかえ?」
「姿を確認したわけじゃないから、分からないが……かなり穢れた気配だ。放っておくわけにはいかない」
氾王が確認するように問う。六太はそう応えを返し、懐から紙を取り出した。それは蓬莱の地図だった。
「これが泰麒の故郷の地図だ。これを使って虱潰しに捜そう」
言って六太は卓子に地図を広げた。皆がそれを覗きこみ、驚きとともに首を捻る。常世には有り得ない詳細な地図の見方を、胎果の陽子が淡々と教えた。尚隆は内心の懸念をを押し隠し、その様子を見守った。
* * * 42 * * *
地図にて凡その場所を確認し、麒麟たちは再び泰麒の故郷へ向かう。孤琴斎から呉剛環蛇を潜る麒麟たちを見送って、陽子はそっと溜息をつく。
泰麒は麒としての本性を喪失している──。
それを聞いたとき、陽子は背筋に戦慄が走るのを感じた。蓬莱で、人として幸せに生きているなど、とんでもないことだ。そんなふうに思った己の浅ましさを、陽子は心底恥じていた。
使令だけでなく、麒麟までもが怯える大きな兇となった使令を抱えた泰麒。麒麟が使令を抑えきれないなど、泰麒はどうしているのだろう。そして、あちらはいったいどんなことになっているのだろう。
陽子は初めて蓬莱で妖魔を見たときの驚愕を思い返し、身を震わせる。あのとき景麒は使令に命じ、その巨大な妖鳥を攻撃させていた。
あんなふうに、泰麒の使令が、あちらで暴れているのなら──。
「──陽子」
不意に名を呼ばれ、陽子は我に返る。振り向くと、延王尚隆と目が合った。陽子は小首を傾げて問う。
「延王、何か?」
「顔色が悪いぞ。──少し、休んだほうがよいのではないか?」
尚隆は心配そうにそう言った。陽子は首を振り、笑みを湛えて応えを返す。
「いいえ、そんなわけには……。仕事もありますし」
「無理をするなよ」
「大丈夫です」
念押しをする尚隆に、陽子は苦笑を返す。実際にあちらとこちらを往き来する麒麟をはじめとして、誰もが疲れている。陽子だけが休むわけにもいくまい。それに、顔色が悪いのは、疲れているせいだけではないのだ。
「本当に、大丈夫かえ?」
「──氾王、お気遣いありがとうございます。でも、私は大丈夫ですから」
氾王にまで声をかけられ、陽子は少し目を見張る。それでも、氾王に笑みを返しながら拱手し、蘭雪堂を辞した。
その夜、陽子は溜まった政務を片付けるため、遅くまで執務室にいた。本音を言えば、堂室に戻りたくなくて、未だに仕事を続けている。恐らく、尚隆が現れるだろうから。今夜は、伴侶に会いたくなかった。
昼に顔色が悪いと指摘された。きっと尚隆は、陽子の動揺に気づいている。尚隆の顔を見たら、昨夜のように言っても仕方のないことを言ってしまうかもしれない。そしてまた、尚隆を呆れさせてしまうのだろう。そう思うと、堂室に戻るのが怖いのだ。
愛するひとを、避けたくなるなんて。
陽子は筆を置き、深い溜息をついた。このまま、ここで夜を明かそうか。ふとそう思い、陽子は自嘲の笑みを浮かべる。朝まで戻らなかったら、誰もが心配するだろう。そんなふうに逃げてはいけない。
仕事に一区切りつけ、陽子は執務室を後にする。あのひとは、陽子を待っているだろうか。いささか緊張気味に堂室に戻った。
そっと自室の扉を開けた。中はしんと静まり返っている。陽子は少しほっとした。しかし、腰掛けようと歩み寄った榻に、寝転ぶ人影がある。組んだ腕を枕にしてまどろむ伴侶の寝顔を見下ろし、陽子は胸打たれた。緊張を強いられ、疲れているのは、このひとも同じ。
陽子は踵を返し、臥室から薄い上掛けを持ってきた。寝息を立てる尚隆にそれを掛けようとしたとき、不意に腕を引かれた。あ、と小さく声を上げ、陽子は伴侶の胸に倒れこむ。更に引き寄せられて、気づけば逞しい腕に捕らえられていた。
低い笑い声が耳に響き、陽子は頬を朱に染める。それから、人の悪い伴侶を軽く睨んで咎めた。
「──いつから起きてたの?」
「今、だ」
「──嘘だ」
「嘘じゃない」
笑い含みの応えを否定しようとした唇が塞がれる。抵抗する腕も掴まれ、身動き取れなくなった。陽子は諦めて身体の力を抜く。大きな掌が頭を撫でた。そのまま甘い口づけに身を任せた。
やがて、唇を離した伴侶は、優しい眼差しを向けて微笑する。ぎこちない笑みを返し、陽子は伴侶の胸に頭をつけた。柔らかな沈黙の中、確かな鼓動だけが陽子の耳に響いていた。
2006.12.01.
またまた大変お待たせいたしました。
長編「黄昏」連載第21回を、なんとか金曜日にお届けできました。
──なかなかプロットが詳細なところまで辿りつけません(泣)。
来週も、まだ危ないかもしれません。どうぞ気長にお待ちくださいませ……。
2006.12.01. 速世未生 記