黄 昏 (22)
* * * 43 * * *
麒麟たちの努力も虚しく、泰麒が見つからないままに季節は移ろっていく。盛夏の暑気もなくなってきたというのに、蘭雪堂は今なお重苦しい倦怠感に包まれていた。
捜索のため虚海を渡る麒麟たちは勿論、朗報を待つ者も疲労が溜まっている。そのためか、蘭雪堂では小さな諍いが絶えなかった。
その日、尚隆は卓子に頬杖をつき、考え事をしていた。そして、誰に問うともない呟きを漏らす。
「傲濫の居場所さえ分かれば、そこに泰麒がいるということではないのか?」
「そんなに簡単なことだったら、とっくに見つけてるわよ、お莫迦さん」
その疑問に、氾麟が揶揄を込めた応えを返した。それから、肩を窄めて氾麟は呟く。嫌な感じがするから、いることは分かるのだ、と。氾麟の言うところの問題点が理解できず、尚隆は訝しげに問うた。
「では、より近いと感じるほうへ向かっていけばいいだけのことだろうが」
「あのね──」
氾麟は尚隆を不愉快そうに見上げ、傲濫は動いているのだと説明する。話しているうちに、氾麟はどんどん感情を昂ぶらせ、足を踏み鳴らした。氾麟が何を激しているのか分からない尚隆は思わず嘆息する。
「俺に当たるな」
「尚隆なんかに当たったら、私のほうが壊れちゃうわよ!」
氾麟は声高く言って小走りに蘭雪堂を出て行った。呆れて見送る尚隆の顔に、べしと扇子が投げつけられる。
「そこな山猿、うちの嬌娘を虐めるでない」
「貴様な……」
尚隆は氾王が放った扇子を忌々しげに拾う。むっとして言い返そうとした尚隆は、逆に氾王に粛然と諭された。ただ見守るだけの者がつべこべ口を挟むことではない、と氾王は正論を述べる。尚隆は押し黙った。氾王は更に言い立てる。
「特に梨雪は、傲濫とやらの気配に怯えているんだよ。其許の小猿と違って繊細にできているからねえ」
普段は元気で喧しい氾麟だけに、その怯え方が意外だったのだ。それに、六太はそれほど傲濫を怖がる様子など見せてはいない。そう思い、尚隆は憮然と言い返す。
「単に臆病なだけだろう。傲濫は別に泰麒から解き放たれたわけではあるまい」
「獣は危険に敏感なものだよ」
言って氾王は失笑する。胎果の麒麟と違って、獣としての性がそれほど強いのだ、と。それから氾王は廉麟と景麒に目をやって二人を労い、休息を促した。そうですね、と廉麟が溜息を落とした。
氾王の勧めに応じて、景麒は後ろ髪を引かれながらも出て行った。かなり疲れているようだな、と呟く尚隆に氾王も同意する。そして、自身も氾麟を慰めると言って退出した。
蘭雪堂には尚隆と廉麟の二人が残された。廉麟は立ち去る気配を見せない。尚隆は首を傾げ、寝ないのか、と問うた。廉麟はふわりと微笑む。
「……はい、休む前にもう一度だけ潜ってみます。延王はどうぞお気遣いなく」
「忌々しいが、範のあれの言うことが正しい」
尚隆は重ねて休むよう廉麟を促した。しかし、私はさほどでもありませんから、と廉麟は淡く笑んだ。嘘は言わぬことだ、と尚隆は首を横に振る。
呉剛環蛇を使う限り、廉麟は必ず立ち会わなければならないのだ。他の麒麟は交代できるが、廉麟は休む暇などない。
廉麟は薄く笑み、泰麒のことを考えると眠れないのだ、と答えた。そういえば、漣と戴にどんな誼があったのか、尚隆は知らない。泰麒に会ったことがおありか、と問うと、廉麟は泰麒とは二度会ったと答えた。
一度は、泰麒が蓬山に戻ったとき。二度目は、その蓬山でのことの礼をしに、泰麒が漣を訪問したとき。そして、その直後にあの政変があったのだ、と廉麟は沈痛な面持ちで語った。
麒麟が王と離れることは不幸なことだ、と廉麟は続ける。半身である廉王と離れ、単身慶に滞在する廉麟。実感こもるその言葉に、尚隆はそんなものかな、と返した。
「私たちは、王がお側にいなければ生きていられないのですもの」
廉麟は、淋しげな笑みを向ける。自嘲すら感じられるその様子に、尚隆はしばし言葉を失った。
麒麟のものは全て王のもの──何のための生だ。
蓬莱育ちの己の麒麟は、かつてそう言った。血を吐くような痛みを伴った言葉とは裏腹に、ごく淡々とした口調で。
今また、常世に生まれた麒麟が、同じ言葉を語る。廉麟は儚い笑みを浮かべ、尚隆に告げた。
麒麟は国のためにあり、民のために存在すると言うが、実際はそうではない。国のため、民のためにあるのはむしろ王。麒麟はその王のためにある。
「王のものなんだもの……」
言い終わると、廉麟は顔を覆い、項垂れた。尚隆は声なく廉麟を見つめる。──麒麟は、哀しい生き物だ。しかし、尚隆はあえて廉麟を慰めなかった。
細い肩を軽く叩き、努めて明るく声をかける。手伝えることはあるか、と。地図を見ていて欲しい、と答える廉麟に、承知したと応じた。廉麟は微笑んで孤琴斎に向かった。
* * * 44 * * *
麒麟は王のもの。王が側にいなければ生きていられない存在──。
廉麟の呟きは延王尚隆の胸に切なく響いた。
麒麟たちは王と分かたれた泰麒を必死に捜している。それは、単なる慈悲の心からだけではないのだ。蘭雪堂に独り残された尚隆は、麒麟たちを思い浮かべ、深く嘆息する。
氾王を見る度に顔を輝かせる氾麟。そんな氾麟を柔らかな笑顔で見守る廉麟。無愛想な景麒でさえ、蠱蛻衫を羽織った氾麟に陽子を見たという。そして、いつになく生真面目な顔を見せる己の半身、延麒六太。
泰麒が王の側を離れて六年。麒麟たちは、泰麒に己を重ねて見ているのだろうか。己が、主と、六年も分かたれたなら、と。戻りたくても、王の許に戻れなかったら、と──。
麒麟は、哀れな生き物だ。六太が陽子にそう語ったことがある。王のために生まれ、親も兄弟もなく、名前すらない。王を選べばこき使われ、あげく、死ぬときは王のせい。そのはてに、墓もない、と。そう言って六太は尚隆に視線を向けた。
陽子に聞かせながら、己の主を揶揄するその言葉に、尚隆はそっぽを向いた。六太は顔を顰めて溜息をついた。不思議そうに問い返す陽子に、麒麟の末路を教えたのは尚隆だ。驚く陽子に六太は、哀れに思うなら、景麒を大事にしてやれ、と締めくくった。そのとき、陽子は複雑な顔をして黙していた。
麒麟は、哀しい生き物だ。そして、それを見守る若き胎果の王も、不憫な者だ。
尚隆は、蓬莱にいる泰麒がもはや麒ではないと知ったときの陽子を思い出す。蒼白な顔で、信じられないと首を横に振った陽子。尚隆は再び溜息をつく。
泰麒は、蓬莱で、幸せに暮らしているわけではないんだね──。その日の夜、陽子はそう呟いて涙を零した。尚隆は、何も言えなかった。故郷を恋うる伴侶を、ただ抱きしめることしかできなかった。
今まで、決して口にしなかった想いを、陽子は涙とともに吐露した。泰麒が帰ってこないのは、蓬莱で人として幸せに暮らしているから。そう思いたかったのだ、と告げて、陽子は切なく微笑んだ。
その告白は、陽子にとって、懐かしい故郷との決別を意味している。陽子が望郷の想いを断ち切ろうとしていると、尚隆には感じられた。
肩を震わせ、声を殺して泣く伴侶は、稚さと気高さを併せ持っていた。大きな蝕を起こしてまで、王が虚海を渡ることなどできない。そして、虚海を超えた麒麟は、あちらで幸せに生きることはできない。故郷である蓬莱は、胎果の者にとって、夢幻のものなのだ。
両親がいるの。家があって、友達がいるの。別れの言葉も言ってこなかった。何の準備もなく、何もかも放り出したままで──。
必死にそう訴えていた娘の姿を、尚隆は胸の痛みとともに思い出していた。あれは、たったの二年前。あのとき陽子はまだ十六、七の娘だった。武断の女王は、今なお十代なのだ。
やがて、陽子は涙を拭って微笑んだ。泰麒を、早くこちらに戻してあげたいね、と。そうだな、と尚隆は伴侶に笑みを返した。互いに虚海を超えることを禁じられた胎果の王だ。できることは、祈ることと待つことのみ。
氾麟に、悪いことをした。思えば、郷愁に耐える伴侶を気遣うあまり、麒麟に八つ当たりしたのかもしれない。疲れは、知らぬ間に己にも蓄積されていたのだ。
「──尚隆」
声をかけられ、尚隆は目を開ける。見ると、六太が心配そうに覗きこんでいた。
「──六太」
「──みんな、どうしたんだ?」
他に誰もいない蘭雪堂を見回し、六太は尚隆に訊ねる。尚隆は大きく伸びをしながら応えを返した。
「陽子は仕事をしに行った。廉麟は蓬莱だ。他の連中は、疲労が溜まっているようだから、休んでいる」
「──こんなところで寝てないで、お前も休んでこいよ」
「いつになく優しいことを言う」
尚隆はにやりと笑った。六太は、心配し甲斐のない奴だ、と言って嘆息する。その後、少し目を腫らした氾麟と氾王が戻ってきた。尚隆は氾麟に目を向け、詫びた。
「──さっきは悪かったな」
「尚隆がそんなこと言うなんて、雪でも降りそうだわ」
氾麟は悪戯っぽい笑みを返した。尚隆は口の端で笑う。それから、軽く氾麟の頭を小突き、蘭雪堂を後にした。
2006.12.08.
今週も大変お待たせいたしました。
長編「黄昏」連載第22回をなんとかお届けできました。
──この11枚を仕上げるために、私はいったい何本御題を書いたのでしょう?
怖くて数えたくないです……。
2006.12.08. 速世未生 記