黄 昏 (23)
* * * 45 * * *
清香殿の自室に戻り、尚隆はどさりと榻に寝転ぶ。己が思っているよりも、疲労が溜まっているようだった。実際にあちらで泰麒を捜索する麒麟や、政務を執る陽子に比べるべくもないが。
瞼を少し腫らした氾麟は、尚隆の謝罪に普段どおりの小憎らしい応えを返した。少し前まで泣いてことを感じさせまいとするその様はいじらしかった。そして、悪戯っぽい笑顔は、疲れを見せながらも微笑んだ陽子を思い出させる。膠着する状況に、皆が疲れているのだ。あちらとこちらを行き来する麒麟は、特に焦燥感が強いのだろう。
それでも、ただ待つのみという立場は、意外なほどの緊張感を齎す。人任せにするよりも己で行ったほうが早い、と考える尚隆には、落ち着かないことだった。
疲れているから、必要以上に心配性になるのだ。
尚隆はそう自嘲し、目を閉じる。休めるときに休んでおかねばならない。泰麒がどんな状態で戻ってくるかによって、その後の対応も違ってくるのだから。
うとうととまどろんでいると、聞き覚えのある軽い足音が聞こえてきた。駆け寄るように近づいてくるその足音で、尚隆は浅い眠りから目を覚ます。激しく叩かれる扉を開けると、目を見開いた氾麟が立っていた。切迫するその様子に、尚隆は即座に事情を察する。
「──見つかったのか」
「ええ、廉麟が泰麒の気配を見つけたの! 今、六太と景麒も蓬莱に向かったわ」
氾麟は急き込むようにそう告げる。尚隆は重々しく頷き、口を開いた。
「陽子と李斎にも報せてくれ」
「分かってるわ」
踵を返す氾麟を見送り、尚隆は直ぐに蘭雪堂に向かった。そこには氾王が独り留守居をしていた。
「泰麒が見つかったと聞いた」
「そのようだえ。今、三人が確かめに行ったところじゃ」
氾王の応えに、尚隆は表情を引き締める。今まで気配を辿れなかった泰麒が見つかった。いったい、どんな状態なのだろう。六太によれば、泰麒は麒麟の本性を喪失しているという。本当にそうだとしたら、どうやって連れ戻す──?
「そなたは、何故、泰麒捜索を始めたのだえ?」
「──何を急に」
考えに沈む尚隆をじっと眺めていた氾王が、不意に口を開いた。いつもの戯言とは違うその問いに、尚隆は身構えた。氾王は目を細め、重ねて問う。
「何を急に、はこちらの科白じゃ。今まで放っておいたものを、何故、今になって捜す?」
「協力しておいて、今更それを問うか」
尚隆は口許を歪めて笑う。思い返せば、こやつは折衝の最中に行方を晦まし、密かに慶に向かったのだ。戴国将軍に会うという大義名分のもとに。
「今、だからじゃ」
尚隆の嘲弄めいた答えに、氾王はにやりと笑う。それから扇子を尚隆に突きつけて断じた。
「英明なる延王は、台輔の諫言をやりすごし、泰果が生るのを待っていたのであろう?」
「それは、責められるべきことか?」
尚隆はその問いを否定しなかった。一国を預かる者として、当たり前の考えだからだ。新たな泰麒が生まれ、王を選定することこそが、戴を救うための最も真っ当な道だろう。
「王ならば、当然考えることじゃな。──それなのに、掌を返して泰麒を捜すことにしたのかえ」
「貴様、何を言いたいのだ?」
氾王は何度も頷き、大きく笑う。相も変わらず意図の分からぬその様に、尚隆は苛立ちを隠せない。氾王は妖艶な笑みを見せた。
「──度し難い稀代の名君を動かす景王は、大した器じゃな」
こやつは何を示唆しているのか。尚隆は怪訝な目で氾王を見つめる。氾王は妖しげな笑みを浮かべたまま黙していた。
もしかして、気づかれたのだろうか。
そう思うと嗤いが込みあげてきた。この男が慶を訪問したのは、延王尚隆を動かした景王陽子の品定めのためだったのかもしれない。そして、己の目で陽子の力を確かめたのだ。
「そうだろう。延王を論破するほどの者だからな。そうでなければ、俺もここまで助力はせぬよ」
「ずいぶん惚れこんだものじゃな」
氾王は呆れたような口振りで、楽しげに笑った。尚隆はにやりと笑って言い返す。この男が景王陽子を気に入っていることなど、誰もが知っている。
「おぬしとて、人のことは言えぬだろう。用が済んでも帰国せぬくらいだからな」
そういえば、こやつは陽子に襦裙を着せたことがあった。皆の目を楽しませるためとかほざいていたが、目的が別なところにあったとしたら。──まったく油断ならぬ、気に入らない男だ。
氾王は尚隆の揶揄には答えず、扇子を広げて口許を隠す。忍びやかなその笑いは、雄弁に何かを語っていた。
やがて、景王陽子が駆け込んできた。蘭雪堂を包む緊迫した空気に、陽子は一瞬足を止める。氾王は身に纏う不穏な気配を解き、笑みを浮かべて陽子を迎え入れた。
ちらりと向けられた氾王の目は、一時休戦を尚隆に促す。尚隆は口許を歪めて笑い、その提案を受け入れた。
* * * 46 * * *
依然として泰麒は見つからない。蘭雪堂を気にしながらも、陽子は執務室にて政務を執っていた。
延王尚隆は休めと言ってくれた。氾王も同様だった。賓客を迎えて走り回る鈴や祥瓊も、自分たちを置いて、陽子に休息を勧める。果ては、政務を一手に引き受ける冢宰浩瀚までが、陽子に休養を進言するのだ。気持ちは嬉しいけれど、と陽子は首を横に振った。
景麒もこちらと蓬莱を往き来しつつ政務を続けている。常と変わらないように見える景麒だが、ふとした表情に憔悴や消耗が窺える。ただ待っているだけの陽子が休むわけにはいかない。
それに、泰麒の使令が見つかったのだ。大きな兇となり、穢れた気配を残す傲濫は、蓬莱を脅かしているようだった。
蓬莱で、泰麒は人として幸せに暮らしているわけではないのだ。
そう思うと苦い思いが込みあげる。休むとますます余計なことを考えてしまうだろう。身体は疲れていたが、忙しくしていたほうが却って気が楽だった。
延王尚隆は郷愁に駆られる景王陽子を嗜めた。望郷の想いを認めるのは、陽子には辛いことだった。それでも、張りつめた心を癒してくれた伴侶に、陽子は感謝していた。
伴侶の正当な苦言を聞きたくない一心で政務に打ち込んでいたあの夜。なかなか戻らない陽子を待ちくたびれた尚隆は、独り榻でまどろんでいた。疲れているのは、陽子だけではない。改めてそれに気づかされた。
目を覚ました尚隆の人の悪い悪戯を咎めながらも、陽子は安らぎを感じていた。そして、伴侶の胸の確かな鼓動を聞きつつ、素直な想いを語ることができた。
「泰麒は、蓬莱で、幸せに暮らしているわけではないんだね──」
そう呟くと、涙が零れた。口に出してみて、気づいた。陽子は、泰麒が蓬莱で幸せに暮らしていると思いたかったのだ、と。それは、陽子にとって、都合のよい願望でしかなかった。
蓬莱で暮らす泰麒は、辛い思いをしているのだ。麒麟を守るために存在する使令が大きな兇となるほど荒れている。それなのに、陽子は蓬莱で暮らす泰麒を羨んでいた。己も蓬莱に帰りたいと願っていた。
胎果はあちらで幸せに暮らすことなど夢でしかないのだ。蝕を起こしてまで王が虚海を渡ることはできない。そして、穢れに弱い麒麟はあちらで平穏な暮らしなど望むべくもない。
陽子は、蓬莱に帰ることなどできないのだ。泰麒は、蓬莱でどうしているのだろう。そう思うと、郷愁は未だ陽子の胸を打つ。そんな陽子を何も言わずに抱き寄せる伴侶の温かさに、涙は溢れて止まらなかった。
「泰麒を、早くこちらに戻してあげたいね」
「──そうだな」
それでも、陽子は涙を拭って微笑んだ。陽子と同じく胸に異郷を抱く伴侶は、限りなく優しい笑みを見せた。祈ることと待つことしかできないと、互いによく分かっていた。
執務室の扉を激しく叩く音で、物思いに沈んでいた陽子は我に返った。何かあったのかもしれない。陽子は扉に駆け寄った。
「陽子、泰麒が見つかったわ!」
扉を開けると、息を切らした氾麟が、急きこんで語った。廉麟が、蓬莱で泰麒本人の気配を見つけ、六太と景麒とともに確かめに行っている、と。それから氾麟は、李斎に報せる、と駆けていった。
陽子は急ぎ蘭雪堂に向かった。中には尚隆と氾王の姿があった。そこはかとなく緊張した空気を感じ、陽子はふと足を止める。
黙して対峙する二人の王の間に、火花が飛んでいるような気がした。普段から諍いの絶えない二人であったが、いつもの口喧嘩とは気配が違う。陽子は気遣わしげに尚隆と氾王を見比べた。
「景女王、泰麒が見つかったようだえ」
氾王は陽子を見ると、はんなりと微笑む。陽子はやっと緊張を解いた。
「泰麒は、どんな状態なのですか?」
「──麒麟にしては禍々しい気配だ、と。今、嬌娘以外の三人が確かめに行っているよ」
陽子の問いに氾王はそう答えた。禍々しい気配──陽子は黙す。尚隆が氾王の言葉に頷き、重々しく告げた。
「詳細は、六太たちが戻るまで分からない。しかし、事態は、恐らく深刻だ」
2006.12.15.
大変お待たせいたしました。
長編「黄昏」連載第23回をなんとかお届けいたしました。
なんだか不穏な回になってしまいました……。
御題を書き流した意味をお解かりいただけると、とっても嬉しいです……!
2006.12.15. 速世未生 記