黄 昏 (24)
* * * 47 * * *
待つ時間というものは、どうしてこうも長く感じるのか。
蘭雪堂に出向いてから、どのくらい時間が経ったことだろう。李斎に報せると駆けていった氾麟は、まだ戻ってこない。それだけでも、僅かの時しか流れていないのだと分かる。
じっと坐っていることに耐えられなくなり、陽子は立ち上がる。せめて、茶でも淹れよう、と火炉に火を入れた。水瓶から水を汲んで鉄瓶に移し、火炉にかける。それから茶器を用意した。
「──ずいぶん手馴れているのだね」
黙して眺めていた氾王が、不意に声をかける。見ると、氾王は興味深げに陽子の動作を眺めていた。言わんとしていることを悟り、陽子は笑みを湛えて応えを返す。
「王なのに、と仰いますか?」
「放っておくとなんでも一人でやってしまう、と女史が溜息をついていたぞえ」
氾王はそう言って楽しそうに笑う。祥瓊がそんなこと言っているのかと思い、陽子は苦笑した。そういえば、金波宮に来たばかりの頃には、奚にまで礼を言うと呆れられた。王の体面をお考えください、と景麒によく諫言されたものだ。しかし、陽子はそうは思わない。
「自分ができることをするのは、当然だと思っていますから」
「──では、襦裙の着付けも覚えたほうがよいのではないかえ」
陽子の応えに、氾王は意味深な笑みを向けた。氾王の揶揄に、陽子はほんのりと頬を染める。先日、氾王は、気紛れに陽子を華やかな襦裙で着飾った。男性である氾王が、見事に女物の襦裙を着付けてみせたことを思い出しのだ。
「それには、俺も同感だな」
「延王まで、そんなことを」
くつくつと笑う尚隆を軽く睨めつける。略装を好む奔放なこのひとにだけは言われたくない、と陽子は思った。
「襦裙を着ると、動きにくいので、嫌なんです。ご存じのくせに」
「確かに、袍は楽だがな」
「蓬莱の服は、あられもなくて、卒倒しそうだったと聞いたよ」
恨めしげにそう言うと、尚隆は大きく頷きつつも、まだ笑っていた。氾王は祥瓊から仕入れたらしい情報を、楽しげに披露し続ける。
普段はあんなに揉め事を起こす二人の王が、こんなときばかり結託するなんて。陽子は、女物の襦裙を纏う典雅な氾王と、王とは思えぬ簡素な長袍を着用する延王を見比べる。そして、顔を顰めて嘆息した。
「──氾王、女史の言うことを、あまり真に受けないでくださいね」
祥瓊は大袈裟なんですよ、と言いながら、陽子は茶を淹れる。ふくよかな香りが漂い、心が落ち着いていく。ああ、と陽子は気づいた。いつの間にか場が和んでいる。
氾王は不思議なひとだ、と陽子は思う。
何気ない会話で、待つ時間の辛さを、一時手放すことができた。そして、尚隆も同様に陽子の緊張を解してくれた。陽子は二人の王の気遣いに感謝しつつ、淹れた茶を差し出した。
氾王は流れるように優雅な仕草で茶杯を持ち上げる。陽子は小さく感嘆の息をついた。そんな陽子にはんなりと微笑み、氾王は一言、美味しいね、と言った。お世辞でも嬉しいです、と拱手を返した陽子に、氾王は楽しげに笑った。
やがて、蒼白な顔をした李斎を伴った氾麟が、蘭雪堂に戻ってきた。三人の王は立ち上がり、呉剛環蛇が置かれた孤琴斎に移動した。
泰麒発見の報に切迫する李斎を宥めつつ、陽子は呉剛環蛇を見つめる。やがて幽光が満ちて消え、延麒六太が飛び出した。
泰麒は病んでいる。それもかなり悪い。
六太はそう断じた。陽子は背に冷たい汗が流れるのを感じた。
どういうことですか、と李斎が咳き込むように訊ねる。よく分からないが、と前置きし、六太は答えた。多分、血の穢れによって病んでいる、と。李斎は躊躇いがちに続けた。
「では──麒麟の本性を喪失しているわけではなく?」
「いや」
その問いに、六太は目を逸らした。やはり泰麒はもう麒麟とは呼べない、と暗く断じる。力を喪失し、更に穢瘁が伸し掛かっている。
暴走した使令を抑えることができないほどに──。
* * * 48 * * *
蓬莱から戻った延麒六太の報告に、蘭雪堂はしんと静まり返った。やがて、絶句していた李斎が、喘ぎながら呟いた。
「そんな……では、泰麒は」
気配は途切れているが、必ず近くにいるはずだ、と六太は強い口調で語る。できるだけ急いで見つけ、連れ戻さないといけない。六太も、六太に続いて蓬莱から戻った景麒と廉麟の顔も、苦渋の色が濃かった。
麒麟の力を失い、穢瘁に病む泰麒が命を喪えば、最悪の事態が起こる。麒麟を守るために存在する使令が、主を守りきれずに死なせてしまったら。箍が外れた使令は兇悪な妖魔となり、蓬莱で暴れるだろう。考えを巡らせただけで、延王尚隆の背に戦慄が走った。
見ると、景王陽子は蒼白な顔で黙していた。無理もない。胎果の陽子は、これから蓬莱で何が起こるか、鮮明に想像できる唯一の者だ。何も知らずに蓬莱で暮らしていた陽子は、かつて塙王が放った妖魔の襲撃を受けた。そして、その追っ手から逃げるために呉剛の門を潜ったのだから。
どうにかならないのですか、と李斎が悲痛に叫んだ。今のままでは手が足りません、と廉麟が詫びるように項垂れた。それに、と言って廉麟は顔を上げる。
「もし、見つけたとしても、どうやって連れ戻せばいいのでしょう?」
廉麟は救いを求めるように一同を見た。只人となった泰麒を、故意にこちらへ連れ戻る術があるのだろうか。
求めてこちらへ来ることはできない。尚隆はそれをよく知っている。泰麒が麒麟でなくなったのなら、呉剛環蛇を通すことはできないのは明白だ。
蝕を起こして強引に通す術があるかもしれない、と廉麟は躊躇いがちに口を開く。それを聞いて、六太が考え込むように首を傾げた。
やってみないと分からない。だが、泰麒は今や、こちらにとっても異物かもしれない。だとしたら、こちらは泰麒を拒む。無理に通すことができたとしても、あちらにもこちらにも甚大な被害が出るのでは。
六太はそう問題を提起した。すると、それまで黙していた陽子が口を開いた。陽子は景麒と契約を交わしていたが、天に認められた王ではなかった、と。
「その私がなんとか景麒に通してもらえたのだから、麒麟としての本性を失っていても、泰麒だって通ることはできるんじゃないか?」
そもそも、私も泰麒も胎果なのだし、と陽子は言葉を結んだ。それは提案というよりも、そうあってほしいとの願いのように聞こえた。
ああ、と尚隆も思い出す。己もそうだった。決死の戦に赴いた。目を開けられたことが不思議なほどの怪我をしていた。助かるはずもないところを、浜で拾った子供に救われた。異郷の一国を背負う子供──延麒六太に。
何故、助けた、と尚隆は訊ねた。六太は、助けてもらったから、と答えた。それだけが理由ではないと、尚隆は気づいていた。六太は、本心を語ることを躊躇っていた。
やがて、六太は、国がほしいか、と問うた。尚隆は、ほしい、と答えた。そして尚隆は死なない命を授けられ、虚海を超えたのだ。
景麒には伝えたはずだ。契約を交わせば、天勅を受けていなくとも新王は虚海を超えられる、と。しかし、妖魔に襲われ、切羽詰った景麒は、陽子に何も教えなかった。陽子は何も知らずに連れてこられたのだ。
陽子に問われ、六太は首を振る。たとえ胎果であっても、只人は虚海を超えることはできない。そして、命が懸かっていることに楽観は許されないと、六太はよく知っている。
「陽子は、ほとんど王だった。泰麒はほとんど麒じゃない。……何が起こるか分からない。天がどう見なすか」
「やるしかないであろ」
拘りもなげに言ったのは氾王だった。連れ戻らねば、戴は沈む。甚大な被害あろうとも連れ戻るか、さもなければ一思いに泰麒を殺害して泰果を待つか。三百年の治世を敷く範国の王は冷静にそう宣告する。
思い切ったことを言うものだ。
尚隆は密かに感嘆する。麒麟たちの手前、口には出さなかったが、王であれば必ず思うことだ。氾王の言葉に、六太は目の色を変えた。
「無茶苦茶を言うな」
「泰麒を殺めるのが嫌なら、被害は覚悟するしかなかろう」
氾王はあくまで冷静に物を言う。六太は苛立たしげに首を振った。蘭雪堂は緊張に包まれていた。
2006.12.22.
お待たせいたしました。
長編「黄昏」連載第24回を、なんとか金曜日のうちにお届けできました。
今日半日で、この10枚を書き上げました。──やればできるんだ。
そして、やっと拍手其の二十六においつきました。 長かったです!
2006.12.22. 速世未生 記