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黄 昏 (25)

* * *  49  * * *

 蘭雪堂は、異様な緊張感を漂わせていた。陽子は固唾を呑み、再び口を噤む。
 泰麒を殺めるのが嫌なら被害は覚悟すべき、と氾王は冷静に提案した。六太は、分かっている、と吐き出す。その声に被って、氾麟が怖じ気たような声を上げた。
「あの……泰麒がもしも只の人なら、仙に召し上げることはできない?」
「仙に──」
 考え込む六太に、氾麟は説明する。仙ならば虚海を渡れるのではないか、と。それなら蝕の被害も最小限で収まるのでは、と氾麟は続ける。そうか、と六太は呟き、首を傾げた。
「だが、どうやって仙に召し上げる」

「主上がお渡りになればいいんだわ」

 氾麟のその言葉に、陽子の心はざわめいた。

 王が、蓬莱に渡る──。

 身体を流れる血潮が、ドクンと音を立て始める。その音は耳鳴りのように陽子の頭を蝕み、次第に大きくなっていく。

「王が渡ればそれだけ蝕は大きくなる。けども、只の人を強引に渡すよりもましかもしれないじゃない」
「乱暴だが一理ある」
「でしょ?」

 そんな陽子の様子にも気づかず、氾麟と六太は話を進めていく。景麒が、ちらりと陽子を見た。半身の気遣わしげな視線を、陽子は確かに感じた。
 六太は氾麟の言葉に頷き、己の主を見上げる。陽子は延王尚隆を見つめる六太を凝視した。

「お前……行くか?」

 予想通りの問いかけに、陽子は眼を瞑る。尚隆の答えを聞くのが怖い。問われた尚隆は壁に凭れ、腕を組んでいた。そして、じっと陽子を見つめた。眼を閉じていても感じる、その強い視線──。

「行ってもいい」

 そう呟いて、尚隆は視線を外す。ようやく眼を開けた陽子は、外を見やる尚隆の横顔に目をやる。

「……五百年ぶりの祖国というわけだ」

 漏窓から射し入る月光が、尚隆の面に複雑な陰影をつけていた。──複雑な思いを抱いているのは、陽子だけではない。延王尚隆もまた胎果の王なのだ。

 このひとは──あちらにどんな想いを抱いているのだろう──。

 今は、訊けない。訊いてはいけない。

 尚隆は目を細め、その場を見渡す。尚隆の面はもう既に冷静で、何の感慨も見られなかった。
「陽子──いや、景麒、お前だ。俺は奏へ行ってくる。誼を結ぶ機会だ、一緒に来い」
「奏へ……ですか?」
 奏──陽子の胸がまたドクンと大きく鳴った。景麒は困惑したように問い返す。何故、陽子ではないのか、と訊ねたそうな顔をしていた。
「泰麒は蓬莱で見つかったと報せておく必要があるだろう。ついでに、できるだけ使令が必要だと泣きついてみよう」
 尚隆の応えを聞きながら、陽子はまた眼を閉じる。尚隆は、陽子を蓬莱にも奏にも行かせたくないのだ。──恐らく、何もかも知っているのだ。今、このときにも、これほど心が揺さぶられているのだから、無理もない。

 今、蓬莱に渡れば、陽子はきっと家に帰ってみたくなる。そして……どうするのだろう? 蓬莱に留まることなど、できはしない。常世で王の職務を全うしなければ、陽子の命は直ちに断ち切られてしまうというのに。
 そして──もし今、奏に行って、あの旅人に会ってしまったら……。公式の場で、王と太子として会ってしまったら、陽子は平静を保てるだろうか。彼の眼差しに、あの誘惑を、思い出さずにいられるだろうか。
 尚隆は、いつから気づいていたのだろう。そう思うと身が震える。己のしたことに後悔はないが、伴侶には決して知られるまい、と誓っていた。それなのに。陽子は動揺を隠せない。

「──六太、お前は蓬山だ。もう一度、陽子を連れて行って、これまでのところを報告してこい」
 尚隆は六太を見つめてそう言った。六太は分かった、と答え、陽子を見た。六太の視線を受け、陽子は黙して頷く。尚隆が陽子を見据えている。陽子は尚隆に視線を移し、もう一度、大きく頷いた。

 己の物思いに拘っている暇はないのだ。泰麒は、蓬莱で、危険な状態にある。早く見つけて救い出せねば、命が危うい。そして、泰麒が、穢瘁により命を落とせば、蓬莱は、妖魔に蹂躙されてしまう──

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「主上がお渡りになればいいんだわ」

 少し考えを巡らせた後、不意に氾麟は声を上げた。王が虚海を渡る──その最終手段を、麒麟が提案するとは。尚隆は僅かに眉根を寄せる。
「王が渡ればそれだけ蝕は大きくなる。けども、只の人を強引に渡すよりもましかもしれないじゃない」
「乱暴だが一理ある」
「でしょ?」
 辺りが静まり返る中、氾麟と六太は話を進めていく。景麒が、ちらりと陽子を見た。陽子は蒼白な顔をし、唇を噛みしめている。半身の気遣わしげな視線を、陽子はどう感じているのだろう。
 六太は氾麟の言葉に頷き、尚隆を見上げた。尚隆は六太が口に出すだろう言葉に身構える。

「お前……行くか?」

 予想通りのその問い。尚隆は陽子に視線を戻した。固く目を瞑り、震えているもう一人の胎果の王を、じっと見つめる。

「行ってもいい」

 そう呟いて、尚隆は陽子から視線を外した。己が行くしかあるまい。陽子が蓬莱に行くなど、時期尚早だ。窓の外を見やる尚隆は、陽子の勁い視線を感じた。

「……五百年ぶりの祖国というわけだ」
 故郷に想いを馳せているのは、お前だけではない。尚隆は陽子を見つめることなく、胸でそう呟いた。

 尚隆は大きく息を吸った。個人的な感傷は、そこまでだ。今は、考えなくてはならないことが、山積みなのだから。
 胎果の王が再び虚海を渡るからには、大きな蝕が起こるはずだ。事を起こす前に、各国に報せなければならないだろう。そして、泰麒を早急に見つけるために、崑崙捜索組に使令を借りる必要がある。蓬山の碧霞玄君に、泰麒帰還が可能かどうか、判断を仰がねばなるまい。尚隆は目を細め、その場を見渡す。
 蒼白な顔を向ける陽子と目が合った。考えを纏めながら尚隆は軽く頷き、陽子から景麒に視線を移す。
「陽子──いや、景麒、お前だ。俺は奏へ行ってくる。誼を結ぶ機会だ、一緒に来い」
「奏へ……ですか?」
 景麒は困惑したように問い返す。何故、陽子ではないのか、と訊ねたそうな顔をしていた。

 かつて陽子を誘惑した、奏の風来坊が国にいる。第二太子が荒民対策を担当するようだ、と奏から帰国した六太は面白げに報告した。大きな看板を背負った太子が、ふらふらと旅をすることはあるまい。
 泰麒捜索で揺れている陽子を、今、奏の太子に会わせるなど、できない相談だ。そして、そんな深謀遠慮を悟らせるわけにはいかない。
「泰麒は蓬莱で見つかったと報せておく必要があるだろう。ついでにできるだけ使令が必要だと泣きついてみよう」
 景麒に表面上の理由を説明し、尚隆は密かに陽子に目を走らせた。そそけ立った顔で瞑目する陽子は、微かに震えていた。もしかして。

 気づいたのだろうか。尚隆が、陽子を、蓬莱にも奏にも行かせたくないのだ、ということに。

 動揺を隠せないでいる陽子を見て、少し胸が痛んだ。しかし、揺らぐ伴侶を危うい目に合わせるなど、できない。尚隆は六太に目を向ける。
「──六太、お前は蓬山だ。もう一度、陽子を連れて行ってこれまでのところを報告してこい」
「分かった」
 六太はそう答えて陽子を促す。眼を開けた陽子は尚隆の目を真っ直ぐに見つめて大きく頷いた。複雑な色を浮かべながらも、その瞳に迷いはない。武断の女王は健在だ。尚隆は僅かに口許を緩め、頷き返した。

 そのとき、李斎が怪訝そうに尚隆を見返し、蓬山が何か、と訊ねた。尚隆は、碧霞玄君にお伺いを立てておく必要がある旨を説明した。李斎は理由を飲み込めないらしく、更に首を傾げた。
「蝕と碧霞玄君に何か関係があるのですか?」
「蝕との間に関係はないが、天には天の理があるということだ」
 行為を是非を量ることができるのは天だけだが、天は人と接触しない。唯一、窓口となるのが玄君だ、と李斎に説明し、尚隆は廉麟に目を移した。
「廉台輔には御苦労だが引き続き──」

「お待ちください!」

 廉麟に指示を送る尚隆を、李斎が鋭く遮った。礼儀正しい李斎が、他国の王の言葉を遮るとは。尚隆は少し驚いて李斎を見返す。
 李斎は蒼褪めた顔で訊く。それは、玄君を通して天の意向を問う、ということか、と。尚隆はそういうことだが、と訝しげに応えを返した。

「では──では、天はあるのですか!?」

 李斎は瞠目し、切迫した声で叫んだ。しまった、と尚隆は思った。この場にいるのは、天の理を知る王と麒麟だけではないことを失念していた。李斎は、天の理を、知らない。
 常世には条理がある。それに背けば自動的に罰が発動する。慶の冢宰と太師の前では言わずにいたことを、李斎に話してしまったとは。動揺しているのは、陽子だけではなかった。冷静さを欠いていたことを、尚隆は悔いていた。

2006.12.26.
 お待たせいたしました、長編「黄昏」連載第25回をお届けいたしました。 ああ、朝一アップ! なんて久しぶりなのでしょう。
 お話はようやく佳境に入ろうとしております。 今しばらくお付き合いくださいませ。

2006.12.29. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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