黄 昏 (26)
* * * 51 * * *
三人の王と四人の麒麟を前にし、戴国将軍李斎は昂然と頭を上げる。己の身分を弁え、常に控えめな態度を崩さなかった李斎。そんな李斎の切迫した声に、蘭雪堂に集う者たちは声を失くした。
「天がある? では……では、どうして天は戴をお見捨てになったのです!?」
李斎は延王尚隆を凝視し、畳みかける。李斎、と尚隆は宥める声を上げた。それでも、李斎は烈しく言い募る。神は何故、戴を救ってくれないのか、と。その、血を吐くような叫び。
「それは言っても詮無いことだ」
尚隆は大きく溜息をつく。李斎の叫びは尤もだ。人であれば当然持つ疑問だろう。だからこそ、天の理の仕組みを、民に知られてはならないのだ。天は、願えば望みを叶えてくれるような、甘いものではないのだから。
そして、王もまた、神と呼ばれる者でありながら、万能ではない。理不尽な天の摂理の前に、己の無力を知り、幾度嘆いたことだろう。その嘆きをもまた、民に見せてはならない。王など、その程度の者と知れば、民は絶望する。それなのに。
天の理を知らぬ李斎の前で、蓬山の話をしたのは、己の過誤だ、と尚隆は内心溜息をつく。景王である陽子にさえ、詳細を語るのは時期尚早だと思っていたことなのだ。
けれど、と言いかけ、李斎は凛と尚隆を見る。では、私もお連れください、そう願う李斎を止めることはできなかった。今は急ぐ、と突っぱねても、もう治りました、と李斎は気丈に言い放つ。延王尚隆の視線に怖じけない、強い意志を見せる李斎に言うべき言葉はただひとつ。
「では、行ってくるがいい。他ならぬ戴のことだ、その手で天意を掴んでこい」
「──ありがとうございます」
尚隆の言に、李斎は恭しく拱手し、深く頭を下げた。尚隆は黙して頷いた。
その後、尚隆は改めて役割分担の采配をした。蓬山には六太と陽子と李斎、奏には尚隆と景麒が向かう。廉麟には引き続き蓬莱にて泰麒の捜索をしてもらう。
そして、慶に残る氾麟と氾王には、崑崙組から借り受ける使令の受け入れと統率を託した。廉麟一人では、泰麒捜索には手が足りない。宗王の許可を受け次第、使令を一足先に慶に向かわせるつもりだった。
「──それでは、支度が整った者から出発、ということにする」
尚隆の最後の一言で全ての伝達が終わり、人々は次々に蘭雪堂を後にする。蒼白な顔をしつつも強い決意を秘める景王陽子を見送る。そして、氾麟に付き添われて出て行く李斎を、尚隆はじっと眺めていた。
「──らしくないね」
静かな声をかけられ、尚隆は振り返る。ひとり、氾王がまだその場に残っていた。尚隆は眉を顰めて短く問い返す。
「何がだ」
「──五百年ぶりの故郷は、それほど恋しいものかえ? それとも……」
氾王は意味ありげに言い止め、黙して笑う。その揶揄に、尚隆は冷静さを取り戻す。
泰麒を殺めるのが嫌なら被害は覚悟すべき、と提案して以来、氾王は口を閉ざしていた。蓬莱のことは胎果に任せる、そう思っていたのかもしれない。そして、その後も静観の姿勢を崩さなかった。李斎の問いに対しても、だ。
こやつが、何をどこまで感付いているものかは分からない。しかし、何を示唆しているのかは、分かっている。そして、尚隆はそれに安易に答える気はなかった。
「故郷に想いを馳せる暇など、ないな」
尚隆は不敵に笑う。氾王は尚隆の動揺に気づいている。だからといって、それを認めるのは癪だった。
「蓬莱は、俺にとって、もはや異郷でしかない」
そう言い捨てて、延王尚隆は踵を返す。氾王は、もう何も言わなかった。
負け惜しみを言ったわけではない。この五百年間、六太が故郷の様子をつぶさに伝えてきた。
あの戦が収まり、立ち直り、そしてまた攻防を繰り返し、蓬莱は変わっていった。そして、五百年という途方もない年月が過ぎた。景王陽子がやってきた今の蓬莱は、尚隆にとって、既に異郷でしかない。
小さく首を振り、ぐいと面を上げた。尚隆は清香殿に戻り、旅立ちの準備を進めた。
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「天がある? では……では、どうして天は戴をお見捨てになったのです!?」
血を吐くような李斎の叫びを、陽子は息を詰めて聞いていた。阿選の圧政に耐え、荒廃が進む中で、必死に冬を越えてきた。天が戴を救ってくれないからこそ、罪を承知で景王を訪ねたのに。李斎は、確かにそう言った。
罪を承知で、ということは。李斎は、覿面の罪を、始めから承知していたのだ。僅かに目を見張り──それから陽子は、ゆっくりと自嘲の笑みを浮かべる。尚隆は、それをも知っていたのか、と。
(あの者は、戴を救うためには慶などどうなってもいい、と思っているやもしれぬぞ)
あのとき、尚隆はそう言っていた。そして、その説得を、陽子は突っぱねたのだ。そう思うと、胸に苦いものが込みあげた。
「それは言っても詮無いことだ」
李斎を見据え、延王尚隆は冷静にそう言い、大きく息をついた。けれど、と言いかけ、李斎は凛と尚隆を見る。陽子は問答を続ける二人をじっと見守った。
景王陽子は結局、郷愁に動かされたのだ。陽子と同じく、今の蓬莱を知る泰麒を懐かしんだのだ。だから、罪を唆しに来た李斎を責めることなど、できるはずもない。
それに、李斎は真に戴を案じていた。それは、今も変わらない。陽子は、そんな李斎に胸打たれ、その真摯な願いを叶えたいと思ったのだ。
二人の問答は続いていた。説得する延王尚隆に怖じけることなく、李斎は蓬山行きを望んだ。そしてとうとう、尚隆に、その手で天意を掴んでこい、と言わせたのだった。
真摯な想いは、他人を動かすことができる。李斎が陽子を動かしたように、そして、陽子が尚隆を論破したように。それならば──人の想いは、天を動かすことも、できるのだろうか。陽子は、不思議な感慨を覚えていた。
李斎が蓬山行きを勝ち取った後、尚隆は改めて役割分担の采配を行った。そして、皆がそれぞれの支度をするために蘭雪堂を出て行った。
景王陽子は泰麒探索の発起人として、六太や李斎とともに、再び蓬山へ向かう。その準備をする前に、陽子は浩瀚や遠甫と打ち合わせ、後事を託した。
それから、陽子は蓬山へ向かう準備を手早く済ませ、密かに清香殿へ向かう。尚隆は自室で奏へ発つ準備をしているはずだ。蓬山に行く前に、尚隆に訊いておきたいことが沢山あった。
稀代の名君と称えられる我が伴侶は、何もかもを見通しているのだろうか。尚隆の言ったとおりに物事が進んでいるような気がする。陽子は、その大きな掌の上で踊っているだけなのだろうか。そして、尚隆は、陽子の大言壮語を、どのように思っているのだろう。
何をどう問えばよいのか、考えが巧く纏まらない。それでも、今、会って話をしておきたい。そんな想いに駆られていた。陽子は迷いつつも伴侶の許へと急ぐ。
控えめに扉を叩き、堂室に足を踏み入れた。尚隆は旅支度を終えたところだった。物問いたげに見つめる伴侶に、陽子は意を決して声をかける。
「──延王」
「どうした?」
しかし、向けられた淡い笑みに、陽子は言葉を失う。唇を噛みしめ、拳を握りしめ、陽子はただただその場に立ち尽くした。
このひとに、何を問おうというのだろう。陽子の無理な願いを聞き入れ、己の国を放って力を貸してくれているひとに──。
「──行ってくる」
黙して見つめる陽子に、尚隆はただ一言残し、一瞬だけ唇を合わせた。ゆっくりと歩み去るその後ろ姿に、陽子は零れそうになる涙を堪えた。
何故、泣きたいのだろう。何を甘えているのだろう。こんなに大変な時なのに。しかも、戴を、泰麒を救いたい、と願ったのは陽子なのに。
故郷である蓬莱への切ない想い。そして、陽子の秘密を知る尚隆に想いを馳せ、心は千々に乱れている。しかし、己の物思いに沈みこんでいる場合ではないのだ。陽子は、王なのだから。唇を噛みしめ、陽子はぐいと顔を上げる。
蓬山に赴き、天の意向を問う。それが今の陽子に課せられた仕事。
己の職務を果たせ。
陽子は自分を叱咤激励する。そして、その日の未明、陽子は六太や李斎とともに金波宮を飛び立った。
2007.01.05.
お待たせいたしました。
長編「黄昏」連載第26回、ようやくお届けできました。
──言い訳させてください。4日と5日の二日間で10枚書きました!
なんだか、燃え尽きてしまいそうです……。
2006.01.05.