黄 昏 (29)
* * * 57 * * *
延王尚隆は文公主文姫と談笑しつつ、清漢宮後宮典章殿の回廊を抜ける。そして、正殿に辿りつくと、文姫は恭しく一礼し、口上とともに扉を開けた。
「延王、景台輔をお連れ申し上げました」
堂室に足を踏み入れると、大卓を囲む五人の人物が目に入る。尚隆を見るなり、宗王、宗麟を含む五人の男女は、一様に立ち上がり、厳かに拱手した。
「ようこそいらせられました」
「お招きありがとう存じます」
尚隆は一同を見回して笑みを送り、恭しい拱手を返す。そして、側に控える文姫に誘われ、大卓に設えられた席に着いた。隣にちらりと目をやると、腰を下ろす景麒の緊張した面持ちがあった。
「お初におめもじいたします、宗后妃明嬉にございます。景台輔、どうぞお楽になさってくださいませ」
ふっくらと年嵩の女が、親しげな笑みを湛えて、景麒に茶を差し出した。六百年を越す大王朝の王后が、公主とともに自ら茶を淹れて客人をもてなす。そのあまりに気安い振る舞いに、景麒は言葉も出せないようであった。
「──景麒、御自ら茶を淹れるのは、其許の主だけではないのだぞ」
尚隆は笑い含みに景麒を揶揄し、宗王一族に同意を求めた。大卓にさざめくような楽しげな笑いが満ちる。その中で、明敏な雰囲気を漂わせる男が、大きく頷いて尚隆に答えた。
「おお、景王もでございますか。奏では、この父王自ら茶を淹れることも、珍しくはございません。──お初にお目にかかります、英清君利達にございます。景台輔、どうぞよしなに」
宗王の第一太子はそう述べて恭しく拱手する。景麒はぎこちなく頭を下げ、それに応えた。いつも無表情な景麒の戸惑った様子に、尚隆は微笑した。
宗王先新、宗麟昭彰とは既に挨拶を交わしている。宗后妃、英清君、文公主と、尚隆は順に視線を巡らせた。そして、未だ口を開いていない若い男に目を留めて、おもむろに語りかける。
「──おお、初めてお会いする方がおられるな」
「延王、景台輔、お初にお目にかかります。卓郎君利広にございます。どうぞお見知りおきください」
公の場では初対面となる第二太子は、延王尚隆の視線をしっかりと受け止めた。そして、いつもの如く爽やかな笑みを浮かべ、すらすらと口上を述べる。その様は実にそつがなく、常世最長命国の太子である貫禄をも示す。尚隆は満面に笑みを湛え、尚も利広に語りかけた。
「ようやく対面が叶ったな、卓郎君。よろしければ、ゆっくりと旅の話でも聞かせてもらいたいものだ」
「私の方こそ、稀代の名君の誉れ高き延王に拝謁でき、光栄至極でございます。私の拙き旅の話など、ご所望であれば、いつでもお聞かせいたしましょう」
あくまでも柔和な笑顔を向け、利広は真面目くさった応えを返す。尚隆は内心の吹き出したい思いを難なく隠し、同じく真面目に頷いた。
「話が弾むのは結構だが、此度は火急の用とのこと、延王のお話を伺いたい」
挨拶が一通り済んだところで、宗王先新がそう切り出した。和やかな場の雰囲気が一気に引き締まる。狼狽えていた景麒も、すっと姿勢を正した。尚隆は隣の景麒を見やり、おもむろに口を開いた。
「蓬莱探索の結果、泰麒の気配を発見したのだが……」
尚隆は泰麒捜索の詳細を語った。蓬莱で発見された泰麒は、穢瘁で病んでいる。そして、麒麟の力を喪失し、暴走した使令を抑えることができないでいる、と。
「──というわけで、泰麒本人発見のためには手が足りぬ。三カ国の動かせるだけの使令をお借りしたいのだ」
泰麒捜索の現状と対策の全てを語り終わり、尚隆はそう言葉を結んだ。黙して耳を傾けていた宗王一家は、誰からともなく溜息を漏らす。蓬莱も泰麒も、由々しき状況となっていることを、誰もが理解したようだった。尚隆は一同を見回し、そのまま発言を待つ。
「早急に、泰麒を、連れ戻さなければならないのですね」
「傲濫は──泰麒の使令、饕餮は、蓬莱にとっても危険なのだ」
やがて、蒼褪めた宗麟が口を開いた。尚隆は重々しく頷いた。目を上げた利達が冷静に問う。
「しかし、その状態の泰麒を、こちらに連れ戻すことは可能なのですか?」
「今、発起人の景王と、延麒が蓬山に確認に行っておるところだ。確認が取れ次第、ということになると思う」
「延王が、御自ら、泰麒を迎えに行かれるのですね」
明嬉がはたと尚隆を見据えた。王が虚海を渡るということは、大きな蝕が起こるということ。それを承知しているかと目で語る王后に、延王尚隆は厳しい顔で頷く。
その後も質疑応答が続けられた。やがて議題が出尽くし、黙して聞いていた宗王先新が、厳かに口を開く。
「──使令をお貸しいたそう」
「ありがたきお言葉に感謝申し上げる」
延王尚隆は、宗王一族に深々と頭を下げる。宗王は、少し口許緩め、更に問うた。
「──他には」
「王が虚海を渡れば、大きな蝕が起こる。警戒と、警告を、お願いしたい」
「承知した」
稀代の名君たちの巨頭会議は終わりを告げた。尚隆は景麒が漏らした小さな溜息を聞き逃さなかった。
* * * 58 * * *
その日の夜、延王尚隆は清漢宮の掌客殿にて寛いでいた。会議は無事終了し、宗王は快く宗麟の使令を貸し出してくれた。宗麟は早々に使令を慶に向けて発たせた。他二名の麒麟は崑崙に行っている。戻り次第、そちらとも話をつけるとの確約も取り付けた。
遁甲できる使令は脚が速い。慶にて氾麟と合流すれば、蓬莱で泰麒を捜す廉麟の役に立つだろう。巧くいけば、尚隆が慶に戻る頃には泰麒本人が見つかっているかもしれない。
蓬莱へ発つ前に片付けたかった問題がひとつ片付いたことに、尚隆は安堵した。そして、景麒の反応を思い出し、また笑った。
六百年の大王朝を築く奏南国の政は、後宮にて動かされる。稀代の名君と称えられる宗王は、家族との合議を欠かさない。英明な后妃、明敏な第一太子、聡明な公主、そして諸国の情報を齎す風来坊の第二太子。宰輔宗麟を含める六人での統治は、他国に類を見ない。それどころか、実に家族的な温かさを持ち続ける王族なのだ。
豪奢な衣装を纏いつつ、自ら客人をもてなす気さくな性質に、景麒は驚いていた。そう、気安く振舞うのは景王陽子だけではないのだ。しかし。
(后妃も公主も、王族らしい華やかな装いでいらっしゃいましたね)
それでも、ぼそりと漏らされた景麒の一言に、尚隆は呵呵大笑した。気さくな所作をしつつも、宗王家は王族の威儀を忘れていないと述べた景麒。尚隆は簡素な官服を纏う伴侶を思い浮かべ、また笑った。
宗后妃の心尽くしの銘酒が入った酒盃を独り傾け、尚隆は伴侶のことを思う。蓬山で、景王陽子は何を見、何を思っているのだろう。別れ間際に見せた蒼白な顔は、今も尚隆の胸を締めつける。
大きく息をつき、尚隆は酒盃を干した。そんなとき、酒瓶を抱えた利広が堂室に忍び込んできたのだった。
尚隆は人の悪い笑みを浮かべ、無言で利広に酒盃を差し出した。空の酒盃に酒を注ぎつつ、利広は口を開く。
「──どうして彼女を連れてきてくれなかったの? 驚かせてあげたかったのに」
開口一番にそう訊ねる利広に、尚隆は苦笑した。杯を傾けながら、そのぼやきを受け流す。
「──埒もないことを」
「そんなに、私に会わせたくなかった?」
利広は爽やかな笑みを見せて畳みかける。尚隆はくつくつと笑い、黙って酒盃を差し出した。利広は再びその盃に酒を満たし、意地悪く告げる。
「ああ、失言だったな。延王ともあろうお方が、そんな卑小なことを思うはずもない」
「お前が大人しく国にいるとは思わなかったぞ」
「私には私の事情があるんだよ」
「知ったことではないな」
「──相変わらずだね」
呆れたように肩を竦め、利広は軽く笑う。そして、追求を諦めて話題を変えた。
「で、どうするつもり? 王が渡ると大災害が起こる。それでもやるの?」
卓郎君利広は笑みを湛えて問いかける。諸国が協力して戴を救う──。常世始まって以来の壮大な事業であった。若き女王の提言を容れて走り回る大国の王を、宗王家がどう思っているのか。利広の受け答えで分かるかもしれない。延王尚隆は薄く笑って応えを返す。
「どうするも何も。饕餮も泰麒も、あちらにおいても危険な代物だ。無理でも何でも連れ帰らねばならぬ。俺はそのための手勢を借り受けに来たのだ」
「──雁は、泰果が生るのを待つ気だと思っていたよ」
大国の太子は酷薄な笑みを浮かべる。麒麟の前では決して言えぬこと。あの場では、出るはずのない意見だった。尚隆はくつくつと笑った。
「──範の奴も、そう言っておったぞ」
「王なら、必ず思うことだろう」
「王なら、な」
尚隆は酒をあおり、何気なく告げた。その一言に、眉根を寄せた利広が見事に反応する。
「彼女だって、王だろうに」
「──実際に、陽子に会ったお前なら、分かるだろう?」
尚隆は喉の奥で笑う。利広は肩を竦め、両手を挙げた。無言の肯定に、尚隆はますます笑いを深める。利広は、あの僥倖を、家族に伝えていないのだ。
「常世は変わるぞ、利広。天の配剤、とやらでな」
目を見張る利広に、尚隆は厳かに杯を掲げた。
2007.01.26.
大変お待たせいたしました。長編「黄昏」連載第29回をお届けいたしました。
宗王一族、見参の巻でございます。はい、風来坊の太子も登場いたしました。
──捏造激しいのは、どうぞお見逃しくださいませ。
2007.01.26. 速世未生 記